セックスしないと出られない部屋に閉じ込められたのに、彼女が性交渉に応じてくれません。

西木景

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第7章

そして、私は大人になる(2/5)

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 ねえ、と私は少し前のめりになって尋ねる。

「どうして先輩と別れたの?」

「……直球ね」

 ヨシノは口元に苦笑を滲ませて言った。

「ま、簡単に言うなら、自然消滅ってやつ」

「自然消滅? 別れ話も無かったってこと?」

「いんや。自然消滅っていうのは関係じゃなくて、気持ちの話」

「えっと、つまり……先輩への恋心が冷めたってこと?」

「そーゆーこと。もっとも、先輩の方は私のこと最初から好きじゃなかったっぽいけどね」

「えっ?」

 不意を突かれ、無防備な声がこぼれる。

「じゃあなんでお付き合いすることになったのよ?」

「私の色仕掛けに先輩が引っかかったからよ」

 そうしてヨシノから先輩と交際するに至った経緯を明かされた。
 その間、私は驚きとショックのあまり声を発することができなかった。
 持ち前の積極性と恵体を武器にたった数日で先輩を陥落させてみせたヨシノの辣腕には同姓として驚嘆の念を禁じ得ないが、その一方で、普段から親交の深い級友と思い人が私に隠れて乳繰り合っていたという事実については、改めて突きつけられると胸にくるものがあった。
 だけど事の全貌が詳らかになったところで、スッキリしたこともあった。ヨシノが異性の目からみて魅力的な存在であることは否定しないが、先輩の性格を知る私としては彼がヨシノのどこを気に入ったのか、ずっと疑問だったのだ。
 話を聞いて納得した。ヨシノは先輩のあの誠実な性格を逆手に取ったのだ。肉体関係を結んだ相手から『責任取ってください』なんて迫られたら、あの人のことだ、無下に断ることはできないだろう。

「尽くしていればいつかは振り向いてくれると信じてたんだけどね。何をしてものれんに腕押しで、先に私の方が参っちゃった」

 虚弱な笑みを浮かべて小さく吐息するヨシノ。視線は手前のコーヒーカップに注がれているが、糸のように細くなった目から在りし日の記憶を辿っているのだと察せられる。

「ヨシノでもそんな弱音吐くことあるんだ」

「そりゃあるわよ。私だって人間だもの。時に思い通りにいかないこともあって、そのたびにちゃんと打ちひしがれてるんだから」

「でも最後には前を向いてるんだから。立派なものよ」

「なにそれ。皮肉?」

「ううん。本心からの言葉。私が見習いたいのはそういうところだから」

 ヨシノが探るような目を向けてくる。
 何拍か間があって、

「私からも質問していい?」

 と尋ねてきた。
 まだ訊きたいことはあったが、質問してばかりなのもどうかと思い、どうぞ、とターンを譲る。

「あんた今何してるの?」

 早速返答に困る質問だ。
 どうしよう、胸を張って言えるようなことが何一つない。

「学校にはちゃんと行ってるの?」

 遠慮のない質問が続く。
 答えの代わりにまた沈黙を返すと、ヨシノは僅かに眉を顰めた。

「訳ありな感じね。差し支えのない範囲でいいから、学校辞めてから今までのあいだ何してたのか、順を追って説明してくれない?」

 まるで詰問されているみたいだ。言葉尻に圧を感じて萎縮しそうになるが、責められているわけじゃないことは理解している。恐らく自分の中にあるやましい気持ちが被害者意識を芽生えさせているだけだろう。
 これから彼女に教えを請う身だ。まずは自分のことを知ってもらうところから始めなくては。
 私は彼女の穿つような目を見返しながら、言った。

「できればもっと昔の話から聞いてもらってもいい?」

「もちろん。どこまでも聞かせてもらうわ」

 ヨシノは机の上で腕を組み、真摯な眼差しをこちらに預けてくる。
 私はドリンクをひと啜りしてから、ひとつ深呼吸する。
 そして覚悟が決まったところで、幼い頃からの出来事を順を追って、さながら思いの澱を吐き出すように語った。

 幼少期は母子家庭で育ったこと。
 時たまお母さんの恋人が我が家を訪ねていたこと。
 期せずしてお母さんと見知らぬ男の性行為を目撃してしまったこと。
 それがトラウマとなり、今も〝性行為〟というものに抵抗があること。
 お母さんがお義父さんと再婚して以来、愛情の欠乏を抱えるようになったこと。
 それが理由で高校進学をきっかけに家を出たこと。
 お婆ちゃんが亡くなり、実家に引き戻されたが、未だ家族と折り合いがつかず、家を空けがちになったこと。
 転校した先の学校に馴染めず、放蕩癖が身についたこと。
 毎日アルバイトに明け暮れて、心の闇を紛らわしていること。
 絶えず孤独感が拭えないこと。
 未来への展望が掴めないことに不安を募らせていること。
 行きずりの男に純潔を奪われたこと――

 長い昔話が終わった後、しばらくの間、場に重たい沈黙が横たわっていた。
 やがてヨシノの長嘆息が静寂を破った。彼女は沈痛な面持ちで腕組みし、ソファの背もたれに寄りかかりながら言った。

「どうしようもないわね」

 にべもない口調だった。

「あんたがどうしようもなく可愛そうな奴だということは理解した」

 窓の外に目を遣りながら、私の方を見向きもせずにそう続ける。
 その尊大な態度にはさすがに反発心が芽生えた。

「そんな言い方は無いと思う。私だって自分なりに頑張ってるのに」

「無駄な努力じゃない。いつまでも手に入らないものに固執して、その場足踏みをしているようにしか見えないわ」

「手に入らないもの」

 眉間に力をこめて反芻する。
 沸々と怒りの念が胸の内を満たしていく。

「家族の愛も、先輩の恋人の座も、求めてるものが手に入らないとわかったなら、とっとと諦めて次のステージに進むべきよ」

「……そうやって先輩のことも切り捨てたのね」

 噛みつくように言うと、ヨシノの眼差しに敵愾心が灯った。
 アドバイスを求めている分際でこのような反発的な態度を取るべきではないと頭ではわかっている。だけど自分の大切にしてきたものが足蹴にされた気がして、どうしても怒りが抑えられなかった。

「時には諦めも肝心だということを学ぶべきよ。あまりに潔癖すぎると、幸せになんてなれっこないから」

「妥協ばかりして本当の幸せが掴めるとは思えない」

「そう。でも私は今、幸せよ」

 最高にね、と勝ち誇ったかのようにヨシノは言い添える。
 何か言い返したい衝動に駆られたが、その前にヨシノがため息を放って続けた。

「桐生先輩の心は手に入れられなかったけど、今の私には自分のことを心から愛してくれる人がいる。それに、カナも戻ってきた。これ以上幸せなことって他にある?」

 虚を衝かれ、反論の言葉が立ち消える。
 怒りが驚きと戸惑いに変わる。その拍子に疑問がぽろりと口からこぼれた。

「ヨシノはどうしてそんなに私のことを高く買ってくれるの?」

 ヨシノのいつになく真摯な眼差しが私を見据える。しかし、それも一瞬のことで、次第に視線は卓上に落ちていった。
 また少し無言の間が下りた。
 神妙な面持ちから何かを逡巡している様子がうかがえる。
 コーヒーカップの縁を指でなぞりながら、彼女は言った。

「あんたは私には無い強さを持ってるから」

「強さ?」

「高校の入学式の時のこと、覚えてる?」

 何の話だろう。すぐにはぴんと来なかった。
 入学したてのその頃はまだヨシノの存在すら認識していなかったはずだが。

「私と何かあったわけじゃなくて。ほら、式の途中であれが来ちゃった子いたじゃない」

 そこまで説明されて、あのことか、とようやく思い至った。
 入学式で校長先生のながーい話を聞いていた時のことだ。
 私たち新入生は入学式に参加するため体育館に集合していた。そこでクラスごとに整列して校長先生のご高説を聴かされていたのだが、その最中、様子のおかしい生徒がいることに気がついた。自分より2つか3つ前の列にいた女子生徒で、どういうわけか泣きそうな顔でおろおろと周りに視線を配っていた。小柄だが少しぽっちゃりしていて見るからに気弱そうな印象の女の子だった。

「実は私も気づいてたんだけど、少し冷めた目で見てた。そんなにおどおどするくらいならちゃんと準備しとけよって。高校生にもなって、お手洗いに行きたいとも言えないのかってね」

「手厳しい。ヨシノらしいわ」

「だからびっくりしちゃった。見ず知らずの同級生の窮地を、まさかあんなアクロバティックなやり方で救ってみせるなんて」

 ヨシノは厳しい目を向けていたようだが、私はどちらかというと彼女に対して同情的な立場だった。
 教員らの益体のない話を延々聴かされるばかりで完全に集中力を欠いた同級生たちが静観する中、卒然と挙手し、お手洗いに行きたい、体調が悪いから離席したい、などと申し出ようものなら、忽ち退屈を持て余していた生徒たちの注目の的となることは自明の理だ。勘のいい女子生徒ならば見て見ぬふりをしてくれるかもしれないが、そうでない者――特に女の体に鈍感な男子生徒たちからは好奇と怪訝の入り混じった目でじろじろと見られてしまうだろう。用心しておけよというヨシノの意見はもっともだが、彼女が立ち往生せざるを得ない状況に置かれていることについてはある程度理解できる。
 どうにかして彼女を助けなければ、なんて善良な心が働いたわけじゃない。私自身、退屈な時間にうんざりしていたのと、たまたま彼女の名誉を守りつつ会場から離脱させる方法が閃いてしまったものだから、渡りに舟とばかりにそれを実行してみせただけだ。
 彼女の心情に共感しつつも、私は彼女ほど悪目立ちすることに怯えてはいなかった。ならばその役は私が買えばいい。そう思い至ったのだ。
 校長先生が長話を繰り広げている最中、私は全身の力を抜いてその場にバタリと倒れ伏した。その一瞬、校長先生の話が止まり、周りの生徒たちがざわざわと戸惑いに揺れるのを肌で感じた。すぐさま近くで待機していた教員が駆け寄ってきた。私は上半身を起こし、いかにもやつれた風を装いながら教員に訴えた。

『貧血です。少し保健室で休ませてもらっていいですか?』

 無論ダメだと言われるはずもなく、それに乗じて、一人で行くのは不安だから付き添いがほしい、と注文を付けた。もちろん付き添いには例の彼女を選んだ。

「よく私が演技してるってわかったね」

 我ながら迫真の演技だったと自負していたのが。
 ヨシノは肩を竦めて笑った。

「バレバレよ。倒れ方がオーバーすぎるんだもん」

 もしや先生にもバレていただろうか? いや、倒れる瞬間を目撃されていない限りは大丈夫だったはずだと信じたいが……まあ、今更どうでもいいことか。

「あの一件でカナに興味を持ったの。カナと一緒にいたら、自分の知らない世界を知れるような気がして。だからカナに接触した」

 ヨシノと初めて会話した時のことはよく覚えていない。何か明確なきっかけがあって仲良くなったわけじゃなく、何度か休憩時間や教室移動を共にするようになり、次第に友達と呼べるような間柄に発展していったという感じだ。私はその関係を自然の産物だと思い込んでいたが、まさかヨシノの方からの歩み寄りによって成り立っていたとは……。なんだか胸にむず痒いものが込み上げてくる。

「そういうのは強さって呼ばないんじゃない? 本当に強い人はもっとスマートなやり方で彼女を救っていたと思う」

「そうかもしれない。でも、あんな風に自己犠牲に走れる人間だってそうそういないわ」

 真正面から褒められると反応に困ってしまう。
 悪い気はしないが、少々後ろめたい感じもする。
 ヨシノの目には人徳ある行為に映ったようだが、その実あれは退屈凌ぎから出た行いだ。普段の自分は自己犠牲を働いてまで人助けに奔走するような真人間では決してない。
 弁明しようと思ったが、その前にヨシノはまた口を開いた。

「カナは他人の弱さを許せる強さを持った人間なんだと思う。そこに私は強く惹きつけられた。それは私が否定してきた正義で、なのに美しいと感じたから。同時に自分の弱さを許容できない弱点も持ち合わせている。度を過ぎた完璧主義者なんでしょうね。そんな人を見ていると、どうしようもなく悲しい気持ちになってくる」

 切々とした口調で説かれ、私は言葉を失った。
 度を過ぎた完璧主義者か――たしかに、そうかもしれない。
 家族にしろ先輩にしろ、いつだって私は完璧な愛情を追い求めていた。完璧なものなんてこの世には存在しないのに。そもそも前提の破綻した命題に挑んでいるわけだから、どこかで辻褄が合わなくなってにっちもさっちもいかなくなるのは目に見えている。
 たいていの人間はヨシノみたく、どこかで妥協して無理やりにでも辻褄を合わせることで絶望を遠ざけているのだろう。私の目から見たら、そっちの方がずっと悲しいことのように思えるが、きっとそんな風に理想と現実の折り合いを付けられるようになることこそが『大人になる』ということなんだと思う。

「カナは私みたいになりたいって言ってくれたけど、私だってカナみたいになりたいって思ってた。だけど同時に、カナにだけは負けたくないとも思った」

 どこか思い詰めたような表情でヨシノは胸の内を吐き出す。
 机上に置かれた拳が硬く握り締められており、言葉ばかりでなく体にも力が入っている様子が見てとれる。

「桐生先輩に興味を持ったのだって、カナが想いを寄せてるって知ったからよ。会ってみて、すごくいい人だったから納得した。桐生先輩の人柄に惹かれたことはカナとは直接関係のないことだけど、少し意固地になっていた部分があったことも否定できない。私はカナに勝ちたかった。多少のズルをしてでも先輩を自分のものにして、カナより私の方が優れてるんだって証明したかった。勝負には勝った。だけど結果的に先輩もカナも失うことになって、虚無感だけが残った」

 ヨシノの口元に力のない笑みが浮かんだ。視線が私から逸れ、中空をさまよい、最終的に自身の手元に辿り着く。
 私は何も言い返すことができなかった。胸に渦巻く戸惑いが自分から口数を奪っていた。

 ――今、自分の目の前にいるのは本当に安住ヨシノなんだろうか?

 そんな疑問が脳裏を掠めた。
 私の知っている彼女はもっと鼻っ柱が強く毅然としていて、絶対に自らの過去を否定するようなことは言わない。でも今し方の彼女の発言からはひしひしと後悔の念が感じられた。強烈な違和感が自分を混乱の境地に誘っていた。

「たまに思うの。私は本当にカナに勝ったのかなって。だって先輩は最後まで私のことを見てくれなかった。あの人は……あの人の心は、いつまで経っても遠く離れた思い人に囚われたままだった。もちろんそれがカナだってこともわかってた。先輩のことを諦めようと思った最大の理由は、カナの影がちらついて劣等感に耐えられなくなったからよ」

 次の瞬間、私の胸に衝撃が走った。ヨシノの瞳が潤んでいたからだ。
 初めてヨシノの泣き顔というものを見た。彼女に対して寄せていた〝絶対強者〟のイメージが音を立てて崩れていく。

「私自身もそう、いつまでもカナの幻影に囚われてる。立花カナは私にとって理想の存在。本音を言うとカナにはいつまでも変わらないままでいてほしい。でもそのせいで不幸の泥沼から抜け出せないっていうんなら話は別。自分の身を犠牲にしてまで他人の幸せを願えるような人間が幸せになれないなんて馬鹿げてる。こんなこと言える立場じゃないってことはわかってるけど、それでも言わせて――カナ。あんたは幸せになるべき人間よ。カナが幸せになるためなら、私はどんな協力だって惜しまない」

 そういってヨシノは泣き顔のまま微笑みかけてきた。
 私はかつての級友に目を眇めた。そこに以前までの隙の無さや刺々しい雰囲気は感じられない。会わない間に何かが彼女の性格を変えたのか。もしかするとそれは彼女にとって望ましくない出来事だったのかもしれない。
 人は想像だけで優しくなれる生き物じゃないと、むかし先輩が嘯いていたのを思い出す。悲しい出来事や乗り越えようのない挫折。そうした経験が人を臆病にし、共感性を育み、許容できる範囲を押し広げるのだと。
 それはきっと真理だろう。だけど悲しい出来事だけが彼女を優しくしたのではないとも思う。人は自分が幸せじゃないかぎり他人の幸せを心から願うことなんて出来やしないから。
 ヨシノに連絡した私の判断は間違っていなかった――改めてそう確信が持てた。

「まずは愛情に代わるものを見つけましょう」

 ヨシノが私の手を取って告げた。潤んだ瞳の奥に熱情を感じた。
 私は下唇を噛んでその手を強く握り返した。
 ヨシノは変わった。むかしより甘く、臆病で、他人に涙を見せることさえ厭わない存在に。
 しかし今でも私にとっての強さの象徴が彼女だということは揺るぎのない事実だった。
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