セックスしないと出られない部屋に閉じ込められたのに、彼女が性交渉に応じてくれません。

西木景

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第5章

喪失と再生の記憶(9/9)

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 ♥

 頭上には雲ひとつ無い青空が広がっていた。
 目映い日差しが燦々と降り注ぎ、地上に彩りを与えている。自分もその一部に溶け込めているかどうかは疑問だ。自分だけがなんだか世界から浮いている存在に思えてならなかった。
 当て処もなく歩いているうちに最寄りの駅に辿り着いた。バス停には長蛇の列が出来ている。人っこひとりいなかった昨晩とはまるで別世界の景色のようだった。
 駅前にある噴水の縁石に腰を下ろす。そして石畳が敷かれたロータリーを行き交う人々の姿をぼんやり眺める。早足で歩くサラリーマン。スマホの画面を見つめながら歩く高校生。ランドセルを背負った小学生。ベビーカーを押す婦人。杖を突いてよぼよぼと歩くお爺さん。長いこと寄り添い合って生きてきたのだろう、歩幅を揃えて歩く老夫婦。性別も、年齢も、歩くスピードも、辿ってきた人生も、何もかもバラバラな人たちだ。でも、ここにいる人たちみんなに父親と母親がいて、そのふたりが恋愛をして、セックスをしてーーそしてこの世に生を受けたのだ。地球上に夥しい数の人間がいて、その数以上にセックスが行われてきた。そうやって長い歴史を紐解くと、セックスという行為がとても凡庸なものに感じられてきて、そしてそんなものに怯えている自分が酷く矮小な存在に思えてくる。
 シャワーでしっかり洗ったが、股の下には未だに違和感がこびりついている。もしかすると一生消えない傷かもしれない。きっとこれは自分が人間として欠陥を抱えていることの烙印だ。
 不意に強烈な孤独感に蝕まれて、視界が滲んだ。昨日散々泣きはらしたはずなのに。悲しみの絞りかすがどうやらまだ自分の中に残っていたようだ。
 感情の波が収まると、後には虚無感だけが置き去りになっていた。
 私はスマホの電源を入れた。ものすごい数の着信が入っていた。ほとんどが母の名前で埋め尽くされているが、義父の名前もちらほらと混ざっている。昨晩から明け方にかけて分刻みで着信があった形跡が見て取れる。この分だとふたりともほとんど寝ていないのではないだろうか? 留守番電話もたくさん残されていた。そこには娘の帰りと無事を祈るメッセージが吹き込まれていた。再生される母の声はいずれも切々とした響きを伴っていて、時折震えたり掠れたりしていた。
 その声を聞くたび、私は激しく胸を打たれていた。
 幼い頃に見た、母の疲れ切った笑みが目に浮かんだ。私の名前を呼ぶ、母の優しい声。私の頭を撫でる、温もりのある掌。あの頃の私は微塵も母の愛情を疑っていなかった。その信用が揺らいだのは義父と暮らすようになってからだ。以前のように母を独占できなくなり、それまで母に寄りかかって生きていた私はバランスを失って自立できなくなったのだ。
 母は何も悪くない。義父も弟のみずきも悪くない。みんなまっとうに生きている。全てはまっとうに生きていない私に非がある。いつまでも子供のままでいる自分がいちばんの悪だ。
 ごめんなさい、お母さん――胸のうちでそう繰り返した。心配をかけてごめんなさい。親不孝者でごめんなさい。まっとうに成長できなくてごめんなさい。生まれてきて、ごめんなさい……。
 激しい自己嫌悪の渦がぐるぐると私を攪拌し、中心部を空洞にしていく。
 発信ボタンを押そうと指を構えたが、どうしても指先に力が入らなかった。今母の声を聞くと、自我が保てなくなる気がした。そうなると余計に心配をかける結果を招いてしまう。せめてそれだけでも避けたかった。結局私はメールを一通だけ出すことにした。
 心配かけてごめんなさい。昨晩は友達の家に泊まりました。私は無事です――それだけ送って、またスマホの電源を落とした。

 しばらくしてまた歩を再開した。
 何も考えることなく、ただ足を前に動かすことだけに徹する。
 移り変わる景色には見向きもせず、視線は足元ばかりを捉えていた。
 徘徊と休憩を延々と繰り返し、気づけば日はずいぶんと高い位置に上っていた。
 もう昼時は過ぎているはずだが、空腹感はからきし湧かなかった。でも美味しいものを食べると気晴らしになるかもしれない。そう思い立ち、目に入ったファストフード店に足を運んだ。
 窓際のカウンター席に座り、往来に曖昧な視線を送りながら購入したハンバーガーにかじりつく。味が全くわからないということはないが、しかし、なんとなく味気ないように感じられる。
 無心で食事を進め、それが済んだ後もしばらくは、ぼんやりと外の景色を眺め続けていた。
 そのさなか、往来を軽やかな足取りで横切る、ひとりの女性に不思議と視線が惹き付けられた。
 垢抜けたファッションに身を包んだ、髪の長い女性だった。その顔を認めた瞬間、私はハッと息を呑んだ。切れ長の目、スッと通った鼻梁、弾力のある唇。眼鏡をかけていないが、間違いない。安住ヨシノだった。
 その隣を誰かが歩いている。男の人らしいと悟った瞬間、心臓が跳ね上がった。恐る恐るその顔を覗き見たが、コージ先輩ではなかったのでホッとした。なんとなく育ちが良さそうな雰囲気を携えた、長身の男の子だった。
 ふたりとも笑顔で仲睦まじげに寄り添い合っている。絵に描いたような美男美女カップルだった。
 ヨシノは私の視線に気づくことなく目の前を素通りしていった。その後ろ姿が見えなくなったところで、ようやく驚きから我に返って思考が稼働し始めた。

 ――ヨシノ、先輩と付き合ってたんじゃ……?

 認識と現実の食い違いに、頭の中が混乱する。色々な可能性が浮かんだが、やがてひとつの結論に収束した。

 ――ヨシノは性格的にふた股をかけるようなタイプじゃない。つまり先輩とは別れて、今はあの男の子と付き合っているということか。

 そう考えるのがいちばん妥当な線だという気がした。先輩を袖にするなんて私からすると到底考えられない所業だが、しかしヨシノと先輩の相性が優れていると思うかと訊かれたら、確かに首を傾げたくもなるのだった。
 不意に邪な閃きが脳裏をよぎった。自分の推測が正しければ今の先輩はフリーである可能性が高い。ならば今こそ先輩にもう一度会いに行くチャンスではないか? そうしたらまた関係をやり直せるんじゃないか?
 その想像は暗雲が立ち込めていた私の胸に一筋の光を与え、俄に頬を緩ませた。だが、またすぐさま暗雲が広がって、その隙間を塞いだ。

 ーー今の私が、一体どんな顔をして先輩に会いに行けばいいのだ?

 人間不信に陥り、自分の存在意義すら見出せず、挙げ句の果てには自暴自棄になって行きずりの男に股を開いた薄汚い女に先輩と会う資格はあるのか?
 そんな欠陥だらけの自分を、先輩が喜んで受け入れてくれるとは思えない。

 ーーそれに、万が一。

 今の自分が先輩と付き合うことになったとしても、きっと長続きはしないだろう。
 母の愛情を疑うようになったのと同じように、いつか先輩の愛情をも信じられなくなる時が来るに違いない。そしてその時は先輩の心に深い傷を負わせることになる。
 電話口で聞いた母の切実な声が脳内に蘇る。もう私のせいで悲しむ人をつくりたくない。
 瞼を閉じて考え抜く。
 様々な選択肢をふるいにかけて、吟味して。
 結論が出た。
 先輩に会いに行くのは今ではない、と。
 人として欠陥を抱えた、今の弱いままの自分に他人の愛情を求める資格はない。子供でいる時間はもうお終いにしよう。いい加減、大人にならなくては。先輩への愛情は忘れないまま、でも先輩無しでも生きていけるような、そんな強い人間になりたい……いや、ならなくてはならない!
 そう決心して瞼を持ち上げた。窓から差し込む日の光に目を眇める。
 店を出て、一直線に駅へと向かった。電車に乗って、自宅の最寄り駅に降り立ち、そして大股で帰途に就く。
 自宅に戻ると、出迎えてくれた母から涙混じりに叱責された。久しぶりに母にきつく抱擁され、その胸の中で私も大泣きした。
 それから自室に戻ってすぐにクローゼットを開いて、ある服を探した。それはビニール袋に包まれて、奥の方にハンガーで吊されていた。もう私が袖を通すことのない、前の学校の制服だ。
 ビニールを破ってポケットの中をまさぐる。思惑通り、中にものが入っていた。それを抜き出して、目当てのものであることを確認する。
 それは一枚の紙切れだ。四つ折りにしてあって、展開すると数字とハイフンの羅列が綴られている。
 私はスマホを取り出して、その番号を打ち込んだ。発信ボタンを押すには相当の勇気を奮い立たせる必要があった。長い時間をかけてようやく発信ボタンを押して、耳元にスマホを当てる。
 強い人間になりたい。そう決意した時、真っ先に頭に浮かんだのはかつての友人の存在だった。街中を歩く彼女の姿は誰よりもキラキラと輝いて見えた。絶望の淵で打ちひしがれている自分の目を惹き付ける何かを彼女はまとっていた。それこそ、私が欲しているものの正体に違いないと確信したのだ。
 何コール目かでようやく電話が繋がった。聞こえてきたその声は、幸せの絶頂にいることを想像させる華やいだものだった。
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