セックスしないと出られない部屋に閉じ込められたのに、彼女が性交渉に応じてくれません。

西木景

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第5章

喪失と再生の記憶(3/9)

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 そこまで語り終えたところで、カナは唐突に口を閉ざした。
 ベッドの上で膝を抱えたまま、虚ろな眼差しを中空に預けている。
 不意に降りた沈黙に、緊張感を帯びた空気となる。終始黙って話に耳を傾けていたが、何か気に障ることでもあっただろうか?

「せんぱい」

 どことなく虚脱感を帯びた声でカナが発する。

「どうした?」

「……お腹が、限界です」

 覇気の欠けた声に続いて、ぐうう、と腹の虫が鳴り響く。
 その音に呆然として肩の力が抜けた。緊張感も立ちどころに霧消していく。
 まあ昨日の昼から何も食べていないのだから無理もない。
 俺はカナの手を取り、テーブルのあるスペースに導いた。彼女を椅子に座らせてから、冷蔵庫に向かい、その中のものを手当たり次第テーブルに並べていく。程なくして俺も席に着いた時には、早くもクッキーの空箱がひとつ転がっていた。新品だったペットボトルの水も半分の量まで減っている。見ると、目の色を変えてビーフジャーキーに食らいついているところだった。
 驚異的なスピードで食糧の残骸が積み上がっていく様を、俺は呆れと感心が入り混じった目で眺めていた。
 ひとしきり暴飲暴食を果たすと、彼女の顔色もだいぶ良くなったように見受けられた。
 食休み中、なんとなく喋りたそうにしている気配を感じたので水を向けると、

「ここまで話を聞いて、どう思いましたか?」

「どうって……何が?」

「私のことです。やっぱり、変だと思いましたか?」

「いや、変ってことはないと思うけど」

 曖昧な受け答えが不満だったのか、カナは若干むきになった口調でまた問いを投げかけてきた。

「じゃあ先輩は、私が不幸な身の上の子供だったと思いますか?」

 回答に困った。どういう答えを求められているのか瞬時に察知できなかったからだ。しかし率直な所感を述べるなら、母親が愛情深い人物だったことや新しく出来た父親が心優しい人格者だったこと、またその扶養のもとで何不自由ない生活を送れていたことなどから勘案するに、彼女を不幸だと断定するのはなかなか難しいのではないかという考えが優勢ではあった。
 カナは自嘲するように唇の片端を持ち上げる。

「客観的に見て、私は恵まれている方なんでしょうね。親から虐待を受けている子供や、日々の食事にもありつけないほどの極貧生活を強いられている子供がこの世にはごまんといて、そんな子供たちと比べたら、私の苦しみなんて屁でもないのでしょう」

 その投げやりな口調には露骨に悲哀の感情が滲んでいた。そこにやがて、憎悪の色が混ざり出す。

「私の話を聞いた人はみんな口を揃えて言うんです。それだけ恵まれていて何が不満なんだ。現実に対して理想が高すぎるんじゃないか、と。……それから、訊いてもいないのに、日々の愚痴やら自虐的なエピソードやらを披露してくるんです。そんな風に誰しもが何らかの不満を抱えながら、それでもどうにか折り合いを探って生きているのだから、お前ばかりがいい加減、悲劇のヒロインぶるのはやめろだなんていう、お決まりのご高説を添えて」

 そう言ってカナは口元を歪めた。先ほどの自虐的に見える笑みとは違って、今度は明らかに冷笑とわかる笑い方だった。

「よもや自分が世界一の不幸者だと驕り高ぶる気はありません。だけど私には自分自身を不幸だと思う権利はないのでしょうか? 家族の愛に飢えていたむかしの私はただの甘ったれで、歪んだ自己愛に塗れたモンスターなのでしょうか?」

「……カナ」

「みんな他人の不幸が大好きなくせに、他人が不幸だと主張するのには抵抗を示すんだから勝手すぎます。もし本当に私が幸せだったなら、あの時私が抱えていた苦悩は何だったの? 一時の気の迷いで、時間が経てば自然と消滅してくれるものだったとでもいうの? どうしてそんな無責任なことが言えるの? ねえ、どうして? どうして誰も、私のことをわかってくれようとしないの……」

「もういい。やめろ」

 咄嗟に口を挟むと、カナはハッとした顔になって発言を中断した。目の縁が充血していて、今にも感情の澱が爆発しかけている様子だった。

「お前の言うとおりだ。本人のことを他の誰かが理解することなんて出来やしない。だから、他人の知ったかな戯れ言なんて問答無用で切り捨てておけばいいんだ。カナが不幸だったと主張するなら、他の誰がなんと言おうと不幸だったに違いないんだろう。もちろん逆に幸福だったと主張するなら、周りの人間がいかに恵まれていようが関係なしに、そいつの人生は幸福だったに違いないさ」

 狐につままれたような顔で数度瞬きするカナを見つめる。
 ひと呼吸挟んで、俺は続けた。

「そういうわけだから、他人の意見なんか求めんなよ。お前の人生はお前だけのもんだ。その価値は赤の他人が決められることじゃない。だったら他人の言うことにいちいち一喜一憂したって無意味だし、虚しいだけだろ」

 切々と説くと、カナは表情を無くして俯いた。「そうですね」という曖昧な相槌が返ってきただけで、以降は反論の言葉も続かなかった。
 納得してくれたのか、あるいはこれ以上話を続けても無駄だと匙を投げられたのかわからない。
 そう、俺には何もわからないのだ。今も、そして昔も。
 彼女が打ち明けたエピソードは俺と出会う前のものだ。つまり3年前のあの頃から、すでに心に闇を抱えた状態だったのだ。当時の自分はその闇に気づくことはできなかった。いつも彼女のそばにいて、彼女のことばかり考えて過ごしていたにも関わらず、だ。恋は人を盲目にするだなんて言うが、そんなことすら見抜けなかった自分の目はどれだけ節穴なんだと責めたくもなる。
 また、内心に秘めていた懊悩を明かせるほどの信頼を彼女から勝ち取れていなかったことも大いにショッキングな事実だった。自分は彼女にとって心許せる存在であると自惚れていた。恥ずべき思い上がりだ。表面的な物事だけで世界を定義づけようとする自分がいかに浅はかな存在であるかを痛感させられる。
 いつになく感情的になった様子からも察せられるが、カナが語った昔話は自身のコンプレックスの中核を占めているものなのだろう。それが多くの無責任な説教や安い同情に晒されながら形成されたものであることは想像に難くない。
 果たして、彼女が求めていた言葉を与えることはできただろうか?
 すぐには思いつかないが、その心を縛っている鎖を解くのに相応しい言葉がもっと他にあったんじゃないか?
 考え出すと、後悔や不甲斐なさといった感情がきりなく胸に溢れてくる。

「新しい家で私を迎えてくれた祖母は……」

 唐突にカナは口火を切った。その目は再び遠くを見ていた。

「とても厳格な人でした。昔気質というんでしょうか、子供にあらゆる制限を課すことが保護者の務めだと信じているきらいがありました。家の門限は18時で、1分でも過ぎると家の敷居を跨がせてもらえず、その晩は隙間風の激しい納屋で過ごさなければなりませんでした。ご存じの通り、携帯電話の所有も堅く禁じられていました。実は中学3年生まで持っていたんですけど、居候と同時に解約させられてしまいました。学生の本分は勉強だからといってアルバイトもさせてもらえず、月々のお小遣いも無しという徹底ぶりでした。……あ、そうそう、不純異性交遊についても取り締まりが厳しくて、お化粧も禁止事項の一つでした。口紅やチークなんてものは愚か、化粧水すら使わせてもらえませんでした。服も制服とジャージ以外、買い与えてもらえなかったので、当時はお洒落とは無縁の世界で生きていました」

 しみじみと語っているが相当鬱憤が溜まっていたのだろう、口々に恨みの念が滲み出ていた。

「それに関しては気の毒としか思えんな」

「そりゃあお母さんも寄り付きたがらないわけです。まあそれでも、実家より居心地は良かったですけどね。本当に厳しい人で、たまに手を上げられることもありましたけど、その言動の一つひとつが孫娘への愛情の裏返しであることは伝わってきましたから」

「ふうん。俺はそっちの生活の方が耐え難い気がするけどな」

 カナはくすりと笑って返す。

「その感覚が正常だと思います。現に窮屈だなあと感じる瞬間は実家で過ごしていた時とは比にならないくらい多かったですから。でもそっちの生活の方がマシだと思えるくらい、当時の私は愛情に飢えていました。祖父は私が生まれる前に他界していて、家には祖母しかいませんでした。だからふたり暮らしとなると、情の注ぎ口が私以外になかったわけです。もちろん何度か衝突することもありましたよ。だけど、祖母の目にはいつも私しか映っていませんでした。それが妙に安心感があって、私の中の欠落していた何かを満たしてくれていたのです」

 気づけばカナの表情は憑き物が落ちたように柔和なものに変わっていた。お祖母さんとの暮らしが救いになっていたという話はどうやら虚勢ではないらしい。反面、彼女が長年苛まれていたという苦悩の苛烈さが際立って感じられる。

「それから」

 一瞬カナがこちらに目配せした。心なしか頬に赤みが差したように見えた。
 ふっと口元を緩ませてから、彼女は続けた。

「先輩の存在も心の支えになっていました。たぶん祖母の愛情だけでは長続きしなかったと思います。先輩がいてくれたから、窮屈な田舎暮らしにも耐えられていたんです。当時の制限だらけの生活の中で、先輩と過ごしていた時がいちばん心安らぐ時間でした。だから私、すごく感謝してるんですよ」

 そう言って、カナは笑いかけてきた。既視感のある懐かしい笑みで、俺はどぎまぎした。

「気づいてたと思いますけど……」

 カナは目線を左右に泳がせながら照れ臭そうに言を繋いだ。

「私、先輩のことが好きでした。先輩と恋人になることをずっと夢見ていました。先輩は私にとって太陽のような人でした」

 真っ直ぐに気持ちをぶつけられた瞬間、胸に込み上げるものがあった。
 驚きよりもたくさんの後悔が首をもたげていた。
 もっと早くに告白するべきだった。安住の誘いに乗るべきじゃなかった。カナのことを簡単に諦めるべきじゃなかった。もっと彼女のことを貪欲に知ろうとするべきだった。自分が彼女を愛していたように彼女も自分のことを愛していると、もっと深く信じ抜くべきだった。
 あの時の自分はどうして、すぐ傍らにあった幸せを簡単に手放すことができたのだろう?
 沈んでしまった太陽をもう一度昇らせようと、なぜ行動しなかったのだろう?
 瞼を閉じる。瞬間瞬間のカナとの思い出が、色彩豊かな過去の情景が、めくるめく脳内を掠めていく。
 先輩、とカナの声が耳朶に触れた。
 瞼を開いて虚をつかれる。彼女の瞳が潤んでいて、今にも泣き出しそうな顔をしていたからだ。だけど唇を結んで必死に堪えている様子だった。口角を持ち上げて強引に笑みの形を維持している。
 その瞬間、俺は直前の告白の意味を理解した。3年前に成し遂げられなかったことを、今となって果たした自分たちは、3年前のあの頃より少しだけ大人になったのかもしれない。それはきっと喜ばしいことだろう。
 俺も彼女に倣って、強引に笑みを浮かべてみせた。だけど内心はどうしようもなく深い悲しみに満ちていた。
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