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第5章
喪失と再生の記憶(1/9)
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小学校に入学して少し経つ頃まで、私は母子家庭で育った。
記憶にある幼少期の住まいは、古アパートのワンルームだ。トイレは共同でバスルームもなく、当時は自覚が薄かったが相当貧しい暮らしぶりをしていたのだと思う。
幸いなことに母は優しい人だった。
昼夜を問わず働きづめで、家にいる時は大抵やつれた様子だったが、こと娘に愛情を注ぐことにかけては絶対に手を抜かないと決めているような人だった。どんな時でも私が甘えようものなら必ず笑顔をもって迎え入れ、頭を撫でたり優しく抱き締めたりしてもらっていた。逆に怒鳴られたり、手を上げられたりしたことは覚えている限り一度も無い。だが仕事で家を空けがちにしていたため、よく寂しい思いをしたものだった。
その頃の記憶の中でひとつ、忘れ難いものがある。
当時の我が家には、母が男の人を家に連れてきた際、私はその男の人が家を去るまで押し入れの中に隠れなければならないというルールがあった。
どうしてそんなことをする必要があるのか、幼き日の私には理解が及んでいなかったが、成長した今になってなんとなく理解が追いついた。男性と交際するにあたって子持ちであることが発覚すると不利に働くと考えたからだろう。
そういった場合は大抵、少しお茶してお暇するというパターンが定石で、男の人の滞在時間は平均して2、3時間といったところだった。押し入れの中にいてできることといえば部屋にいるふたりの会話を盗み聞きすることくらいだが、それも子供の私には面白いといえるものではなく、基本的に暗闇の中で退屈と手を取り合って過ごすしかなかった。
家を訪ねてくる男の人は毎度同じ顔ぶれというわけではなく、そのうちのひとりに必ずケーキなどの手土産を持参してくる人がいて、私はその男性のことを密かに『当たりの人』と呼んでいた。
ある晩、母が男の人(残念ながら『当たりの人』ではなかった)を家に連れてきたため、私はいつものように押し入れの中に身を隠した。早く帰れと念じつつ数時間を暗闇の中で過ごしたものの、一向に帰り支度を始める気配はうかがえず、そのうえ夜遅かったこともあって、気づいた時にはこてんと眠りに落ちていた。押し入れの中ではなるべく寝ないようにとかねがね言いつけられていた。寝返りを打ったりいびきをかいたりするようなことがあってはまずいからだ。
次に目が覚めた時も、私はまだ暗闇の中にいた。どのくらい意識を失っていたのか定かでないが、うんと時間が流れたことは持参した水筒がぬるくなっていたことから察せられた。長時間、無理な体勢でいたためか、身体の節々が痛かった。
もう男の人は帰っただろうか?――疑問に思って外の様子をうかがおうとした次の瞬間、聴覚が妙な音を拾った。
くちゅくちゅ、という粘っこい音。女の人の小さく裏返った声。それは泣き声のようにも、悲鳴のようにも、あるいは切なく甘えている声のようにも聞こえた。
――お母さん?
その声の主に気づくまでに少し時間が必要だった。
初めて聞く種類の声だったから咄嗟には判別できなかったのだ。途中まで知らない女の人が部屋の中にいるのではないかと本気で疑っていた。
異様な緊張感が張り詰める中、私は襖を少しだけ開いて、その僅かな隙間から部屋の様子を覗いた。薄ぼんやりとした照明の下に、見知った顔の大人がふたりいた。ひとりは母で、もうひとりは男の人だ。ふたりはどうしてだか裸だった。男の人は母の真後ろに立ち、母の肉付きの薄い身体を抱いている。母は少し中腰になって、薄汚れたシンクの壁に両手を突いていた。
男の人が身じろぎするたび、母はびくんと身体を震わせて声を放った。例の悲鳴のような、甘えているような声だ。顔を苦しそうに歪ませて、声が出るのを耐え忍ぶようにぎゅっと唇を結んでいる。それでも途切れ途切れに押し殺したような声が唇の端から漏れ出ていた。
壮絶な光景を目の当たりにして、私はこの上ない恐怖に取り憑かれていた。全身の震えが止まらなかった。母が男の人に乱暴されている。助けなければ。そう自分に言い聞かせるが、恐怖で腰が抜けていて立ち上がることができなかった。
恐怖と焦りが募る中、母は身を翻した。そしてため息にも似た吐息を漏らしたかと思うと、すぐさま男の人の唇に飛び付いた。私は息を殺して瞠目した。母と男の人、ふたりの唇がぴたりと重なり、舌を絡ませ合って、部屋中にくちゅくちゅと湿った音を響かせている。
息を切らした母の顔を覗くと、苦しそうな表情の中にどことなく愉悦の色が滲んでいるような気がした。それでやっと、乱暴されているのではないらしいと悟った。
だが、恐怖は依然として収まらなかった。いつもとはまるで違う表情を浮かべている母を見て、とても気分を落ち着かせることができなかった。母が自分を置いて知らない世界に旅立ち、もう戻ってこないのではないかと不安になった。知らない男の人の唇を恍惚と貪るその姿から、いつもの優しい母の面影は微塵も感じ取れず、それがいっそう私の恐怖心を倍増させた。
ふと男の人の黒光りする下半身に目がいった。そこには棍棒のように太くて硬そうなものがぶら下がっていた。凶悪そうなそれを母が愛おしそうな目をして優しく撫でたり、口に咥えたりしている。そんな母を見下ろす男の人の目には猛禽類を思わせるギラギラとした光が宿っていた。
もはや私の目には2体の獣が取っ組み合っているようにしか見えなかった。不安だとか恐怖だとか様々な感情が胸のうちに込み上げてきて、涙で視界がぼやけた。
そして緊張の糸がぷつりと切れる瞬間が訪れた。
私はまた気づかないうちに意識を手放していた。次に目を覚ました時、私は居室に敷かれた布団の中にいた。窓の外が黄昏色に染まっているのを見て、長らく眠りに就いていたのだと悟った。その時、母は台所で料理をしているところだった。私が目覚めたことに気づいていない様子だったので、後ろから、お母さん、と呼びかけると、おもむろにこちらを振り返って微笑みを見せてきた。どこか硬くて、ぎこちない笑い方だった。
以来、私はその男の人を見ていない。他の男の人が家を訪れることは何度かあったが、母が獣のように乱れることはそれきり一度もなかった。
そしてあの日の夜を境に、私は暗闇を怖れるようになった。今も暗闇の中に身を置いていると、2体の獣が激しくのたうち回る光景がまざまざと脳裏に蘇る。そうなると忽ち、恐怖と不安に打ち震えていた幼き日の自分に立ち返ってしまうのだった。
小学校に入学して少し経つ頃まで、私は母子家庭で育った。
記憶にある幼少期の住まいは、古アパートのワンルームだ。トイレは共同でバスルームもなく、当時は自覚が薄かったが相当貧しい暮らしぶりをしていたのだと思う。
幸いなことに母は優しい人だった。
昼夜を問わず働きづめで、家にいる時は大抵やつれた様子だったが、こと娘に愛情を注ぐことにかけては絶対に手を抜かないと決めているような人だった。どんな時でも私が甘えようものなら必ず笑顔をもって迎え入れ、頭を撫でたり優しく抱き締めたりしてもらっていた。逆に怒鳴られたり、手を上げられたりしたことは覚えている限り一度も無い。だが仕事で家を空けがちにしていたため、よく寂しい思いをしたものだった。
その頃の記憶の中でひとつ、忘れ難いものがある。
当時の我が家には、母が男の人を家に連れてきた際、私はその男の人が家を去るまで押し入れの中に隠れなければならないというルールがあった。
どうしてそんなことをする必要があるのか、幼き日の私には理解が及んでいなかったが、成長した今になってなんとなく理解が追いついた。男性と交際するにあたって子持ちであることが発覚すると不利に働くと考えたからだろう。
そういった場合は大抵、少しお茶してお暇するというパターンが定石で、男の人の滞在時間は平均して2、3時間といったところだった。押し入れの中にいてできることといえば部屋にいるふたりの会話を盗み聞きすることくらいだが、それも子供の私には面白いといえるものではなく、基本的に暗闇の中で退屈と手を取り合って過ごすしかなかった。
家を訪ねてくる男の人は毎度同じ顔ぶれというわけではなく、そのうちのひとりに必ずケーキなどの手土産を持参してくる人がいて、私はその男性のことを密かに『当たりの人』と呼んでいた。
ある晩、母が男の人(残念ながら『当たりの人』ではなかった)を家に連れてきたため、私はいつものように押し入れの中に身を隠した。早く帰れと念じつつ数時間を暗闇の中で過ごしたものの、一向に帰り支度を始める気配はうかがえず、そのうえ夜遅かったこともあって、気づいた時にはこてんと眠りに落ちていた。押し入れの中ではなるべく寝ないようにとかねがね言いつけられていた。寝返りを打ったりいびきをかいたりするようなことがあってはまずいからだ。
次に目が覚めた時も、私はまだ暗闇の中にいた。どのくらい意識を失っていたのか定かでないが、うんと時間が流れたことは持参した水筒がぬるくなっていたことから察せられた。長時間、無理な体勢でいたためか、身体の節々が痛かった。
もう男の人は帰っただろうか?――疑問に思って外の様子をうかがおうとした次の瞬間、聴覚が妙な音を拾った。
くちゅくちゅ、という粘っこい音。女の人の小さく裏返った声。それは泣き声のようにも、悲鳴のようにも、あるいは切なく甘えている声のようにも聞こえた。
――お母さん?
その声の主に気づくまでに少し時間が必要だった。
初めて聞く種類の声だったから咄嗟には判別できなかったのだ。途中まで知らない女の人が部屋の中にいるのではないかと本気で疑っていた。
異様な緊張感が張り詰める中、私は襖を少しだけ開いて、その僅かな隙間から部屋の様子を覗いた。薄ぼんやりとした照明の下に、見知った顔の大人がふたりいた。ひとりは母で、もうひとりは男の人だ。ふたりはどうしてだか裸だった。男の人は母の真後ろに立ち、母の肉付きの薄い身体を抱いている。母は少し中腰になって、薄汚れたシンクの壁に両手を突いていた。
男の人が身じろぎするたび、母はびくんと身体を震わせて声を放った。例の悲鳴のような、甘えているような声だ。顔を苦しそうに歪ませて、声が出るのを耐え忍ぶようにぎゅっと唇を結んでいる。それでも途切れ途切れに押し殺したような声が唇の端から漏れ出ていた。
壮絶な光景を目の当たりにして、私はこの上ない恐怖に取り憑かれていた。全身の震えが止まらなかった。母が男の人に乱暴されている。助けなければ。そう自分に言い聞かせるが、恐怖で腰が抜けていて立ち上がることができなかった。
恐怖と焦りが募る中、母は身を翻した。そしてため息にも似た吐息を漏らしたかと思うと、すぐさま男の人の唇に飛び付いた。私は息を殺して瞠目した。母と男の人、ふたりの唇がぴたりと重なり、舌を絡ませ合って、部屋中にくちゅくちゅと湿った音を響かせている。
息を切らした母の顔を覗くと、苦しそうな表情の中にどことなく愉悦の色が滲んでいるような気がした。それでやっと、乱暴されているのではないらしいと悟った。
だが、恐怖は依然として収まらなかった。いつもとはまるで違う表情を浮かべている母を見て、とても気分を落ち着かせることができなかった。母が自分を置いて知らない世界に旅立ち、もう戻ってこないのではないかと不安になった。知らない男の人の唇を恍惚と貪るその姿から、いつもの優しい母の面影は微塵も感じ取れず、それがいっそう私の恐怖心を倍増させた。
ふと男の人の黒光りする下半身に目がいった。そこには棍棒のように太くて硬そうなものがぶら下がっていた。凶悪そうなそれを母が愛おしそうな目をして優しく撫でたり、口に咥えたりしている。そんな母を見下ろす男の人の目には猛禽類を思わせるギラギラとした光が宿っていた。
もはや私の目には2体の獣が取っ組み合っているようにしか見えなかった。不安だとか恐怖だとか様々な感情が胸のうちに込み上げてきて、涙で視界がぼやけた。
そして緊張の糸がぷつりと切れる瞬間が訪れた。
私はまた気づかないうちに意識を手放していた。次に目を覚ました時、私は居室に敷かれた布団の中にいた。窓の外が黄昏色に染まっているのを見て、長らく眠りに就いていたのだと悟った。その時、母は台所で料理をしているところだった。私が目覚めたことに気づいていない様子だったので、後ろから、お母さん、と呼びかけると、おもむろにこちらを振り返って微笑みを見せてきた。どこか硬くて、ぎこちない笑い方だった。
以来、私はその男の人を見ていない。他の男の人が家を訪れることは何度かあったが、母が獣のように乱れることはそれきり一度もなかった。
そしてあの日の夜を境に、私は暗闇を怖れるようになった。今も暗闇の中に身を置いていると、2体の獣が激しくのたうち回る光景がまざまざと脳裏に蘇る。そうなると忽ち、恐怖と不安に打ち震えていた幼き日の自分に立ち返ってしまうのだった。
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