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第3章
立花カナの決意(3/5)
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「俺が生まれ育ったのは、田んぼと畑と野生動物がやたらと目につく田舎町だった。人口も極端に少なくて、通っていた小中学校は毎年全校生徒が10人も集まらないようなところだった」
高校時代のはじめの頃だけだが、私も似たような田舎町で暮らしていたので、なんとなく光景は想像できる。しかし、全校生徒が10人にも満たない学校というのは通ったことがなく、どんなものか知らないため純粋に興味深かった。
「大人が担任と校長のふたりしかいなくて、基本的に授業は全校生徒をひとつの教室に集めて行うんだ。ただ、生徒の学年はバラバラだから、ドリルや問題集を使って自習することが多かったかな」
訊くと、塾に通ったり通信教育を受けたりもしていなかったらしい。その話を聞いて、私は舌を巻いた。自分たちが通っていた高校は地元の中ではそこそこ偏差値の高い進学校で、間違っても誰でも入れるような学校ではなかったはずだ。そんなところにほとんど独学で受かったというのだから相当秀才だったのだろう。
お世辞抜きにそう賞賛すると、先輩は照れ臭そうに私から視線を逸らした。だけど口元はしっかり緩んでいて、喜びを隠しきれていなかった。
「まあ勉強ができたというより、それ以外にやることがなかったお陰かもしれないな。それに他の生徒たちとは学年が離れていたこともあって、あんまり遊んだりする機会もなかったから」
しみじみとしたその語り口にはどこか寂寥感が滲んでいた。あまり良い思い出ではないのかもしれない。
空気を読んで話題を変えた。
「おうちにいる時は、何をして過ごされていたんですか?」
そう尋ねると、先輩は気を取り直すようにひとつ咳払いを挟んでから、笑みをつくった。
「前にも話したと思うけど、とにかく映画が好きでな。週末になるたび街のレンタルビデオ屋に出向いて、そこで借りた映画を観て過ごすのが日課だったよ」
前、というのは3年前。まだ私との間に繋がりがあった頃のことだ。
先輩が大の映画好きだという話はもちろん、今のエピソードもいつだったか聞いた憶えがある。
先輩に映画に関する知識や感想などを語らせると途端に水を得た魚のようになり、毎度その語り口の熱量の激しさに圧倒されたものだった。だけど、そんな時に垣間見ることができる彼の活き活きとした表情は多分に魅力に溢れていて、いつも私を夢中にさせていた。
ろくすっぽ映画についての造詣がなかった私が、その頃から習慣的に映画を観るようになったのは間違いなく先輩の影響だ。
「初めて先輩におすすめされた映画、今でもたまに観てますよ」
そう伝えると、先輩は、ほんとかっ、と声を張った。
わかりやすくテンションの跳ね上がった様子が可愛らしくて、胸がきゅんきゅんする。
「タイトルは確か、『ショーシャンクの空に』だっけ。懐かしいな。立花に映画の素晴らしさを知ってもらいたくて、悩みに悩んで紹介した映画だったが……そうか、まだ観てくれているのか。それは薦めた甲斐があったな」
その実私が映画に興味を持ったのは、先輩に気に入られたいという邪な思惑が働いたからなのだが。しかし結果的に私はその映画を観賞して、先輩が言う『映画の素晴らしさ』なるものを、全てではないにせよ、その片鱗くらいは痛感させられたのだと思う。先輩と縁が切れてからも定期的に映画を観る習慣が残っているのはその証左だろう。
ちなみに『ショーシャンクの空に』とは、無実の罪で投獄された男が脱獄を試みるという筋書きの映画だ。謂われもなく自由の無い生活を余儀なくさせられている点は、今の自分たちが置かれている境遇に通ずるものがあると言えなくもない。改めて非日常の中にいるのだなと実感が湧く。
「兄妹もいないし、むかしから友達も数えられる程度しかいなかったから、こんな内向的な性格になっちまったのかな。田舎の子供らしく野原を駆け回るより家にこもって映画を観てた時間の方がずっと長かった気がするよ」
自虐的な笑みを浮かべる先輩を思わず抱き締めたくなる。無論そんなことをしたらいよいよ理性に歯止めが利かなくなりそうだから、奥歯を噛み締めて堪えるが。
「先輩の豊かな感性はたくさんの名画が培ってきたのだなと思うと納得できます。良い思い出話を聞かせてくださり、ありがとうございました」
そう謝意を示すと、先輩は拍子抜けしたような顔で瞬きを繰り返した。
「なんだ、今日はえらく殊勝な態度だな」
「種明かしをすると、失った信頼を取り戻すために猫を被っているんです」
ぽかんとした表情。数秒後、その顔が柔和なものに変わった。
「立花ってなんかずれてんだよな。まあ俺が言えるようなことでもないけどさ」
「……カナって呼んでください」
「えっ?」
勇気を振り絞って告げると、先輩の顔が冷水を浴びせられたように硬まった。
「3年前のあの時みたいに……。名字で呼ばれると距離が開いた感じがして、なんだかモヤモヤするんです」
先輩が戸惑いに揺れていることは明白だった。
沈黙が生まれ、しばらく気まずいだけの時間が流れる。
後悔が徐々に胸の中を満たしていく。ああ、どうして衝動を抑えられなかったのだろう……。形だけ取り繕っても肝心の中身が伴っていなければ何も意味はないとわかっているのに。
あまりにいたたまれなく、発言を撤回しようと思いかけた、その時だった。
先輩のおもてからふと狼狽の気配が消え、真摯な眼差しを私に預けてきた。何かしらの覚悟が決まったような顔つきに相違なかった。
私が息を飲んでいる間に、先輩は、
「カナ」
さらりと告げた。
咄嗟に、やばい、と思い、先輩から顔を背けた。
今の蕩けきった表情を見せるわけにはいかなかった。そんな顔で数秒でも見つめ合ってしまえば、容易に身体を預けてしまいそうな未来が視えたからだ。
「ありがとうございます。桐生先輩・・・・」
そう返すと、またしても先輩からの反応が途絶えた。
見ると、なんとなく気落ちしているような、色の欠けた表情を浮かべていた。
その理由は訊かずとも察せられた。恐らく望んでいた呼ばれ方じゃなかったからだろう。私に対してそうしたように、私からも当時の呼び方で名前を呼ばれると思ったに違いない。
3年前の7月。先輩と知り合って3ヶ月が経過した頃、それまでは先輩のことを『桐生先輩』と呼んでいたが、思いきって呼称を改めることにしたのだ。もちろん先輩との距離をもっと縮めるためだ。察するにこちらの呼び方を期待していたのだろう。
期待を裏切られ、しゅんとした表情を浮かべている先輩を前にしていると、堪らず母性本能が爆発しそうになる。
マジで可愛い生き物だ。これだからこの人をからかうのは止められない。
でも私は、なにも意地悪ではぐらかしているわけではない。
私は3年前の関係性を忠実に再現し、止まった時計の針をもう一度動かしたいのだ。
私の方はとっくにその準備は出来ている。だが先輩はどうだ? 私の目から見て、その準備が出来ているとは思えない。先輩は明らかに〝今〟を生きようとしている。もう〝過去〟に戻る気は更々としてないのだと、雰囲気から察せられる。
我が儘かもしれないが、これが私なりのけじめだ。過去をやり直したいという意思が見えない限りは、とことん先輩の期待には応えないつもりでいる。
「私と出会う前の先輩がどういう暮らしぶりをしていたのか、だいたい把握できました。じゃあ次は、私と別れてからのお話を聞かせてください」
「カナと別れてから……」
「というと、語弊のある言い方かもしれませんね。私たち、なにも付き合ってたわけじゃありませんから」
さっと俯いた先輩のおもてに色濃い影が浮かぶ。
今のは完全な自爆だ。少なからず私自身もダメージを受けていた。
そう、私たちは恋人ではなかった。セックスどころか、キスも、手を繋いだことすらもなかった。ただ通学の時間を共にしていただけ。つまるところ友情の域を出ないものだった。お互いの気持ちに気づいていながら……。言ってしまえばあの頃の私たちは若すぎたのだ。若すぎるが故に気持ちを言語化することを疎かにして致命的なすれ違いを生んだのだと思う。
「特に話すことなんかないよ。あれから普通に高校に通って、順当に進学して、大学受験して……それで今に至るというわけだ」
さすがに説明を端折りすぎだ。そんなことは言われずとも見当がつく。
「大学はどこに通われてるんです?」
そう質問すると、先輩の強張った顔がわかりやすく弛緩した。多分その辺りに地雷みたいなものが埋め込まれていて、こちらがそれをスルーしたから安堵しているのだろう。
大方想像がつく。その地雷とやらの正体についても。そしてその想像は瞬く間に私の心をブルーにする。
それを処理するには自分にも気持ちの整理が必要だ。まあ焦ることはない。時間はたくさんある。後でゆっくりじっくり、腰を入れて処理していけばいい。
さておき先輩が答えたのは、ここらではかなり名の知れた公立大学だった。県内随一の、偏差値の高い大学だ。そもそもの地頭が良いのだろう。そうでなければ映画などという高尚な趣味は持たない。
「こんな怪しいバイトに応募して来るくらいですから、よっぽどお金に苦労されてるんでしょうね」
「実を言うとそうなんだ。今、大学のサークルで自主制作映画をつくってるんだけど、制作費が全然足りなくてな」
「えっ、映画つくってるんです? すごい! 先輩、夢に近づいてるじゃないですか!」
つい興奮して、はしゃいだ声を上げてしまう。
先輩は照れ臭そうに視線を逸らしたが、でも本心は満更でもなさそうで、その証拠に口元が仄かに緩んでいた。
いつか映画監督になりたいと夢を語っていたことが思い出される。口先だけでなく行動に移しているのだから本当に大したものだ。私は心の底から感銘を受けていた。
「どういう映画なんですか?」
尋ねると、やや渋るような反応が返ってきた。しかしもう少しだけ強くせがんでみせると、意外と簡単にその口が割れた。本当は話したくてうずうずしていたのだろう。いやはや、どこまで尊い生き物なんだ!
「とある難病を患った少女が、同じ病院に入院していた少年のドナーによって奇跡的な回復を遂げるところから物語は始まるんだ。少女は自分も少年のように苦しんでいる誰かに手を差し伸べる存在でありたいと思い立ち、退院して復学するなり奉仕部を設立する。そんな折に、クラスメイトにいじめられている生徒がいてな……」
先輩の語り口が徐々にヒートアップしていく。
嬉々として紡がれるストーリーに、いつしか私ものめり込んでいた。
話の中で気になるところが生じれば、その都度、親に子守歌をねだる幼子のように質問を投げかけた。それに対し先輩は嫌な顔ひとつせず、むしろ私の歓心を買えたことに大層ご満悦な様子で、丁寧に説明を返してくるのだった。
そうこうしていると時の流れは驚くほど早く進み、気づいた時には正午を迎えていた。そのまま昼食に移行したが、その間も会話は自主制作映画のことで持ちきりだった。
いつになく和気藹々と会話が弾んでいたが、その裏で私は今か今かと時機を見計らっていた。例の地雷処理に取り掛かるタイミングについてだ。できることなら見て見ぬふりで素通りしたい。だがそれは私たちが過去に立ち返るためには、どうしても避けては通れない道に埋め込まれているのだった。
「俺が生まれ育ったのは、田んぼと畑と野生動物がやたらと目につく田舎町だった。人口も極端に少なくて、通っていた小中学校は毎年全校生徒が10人も集まらないようなところだった」
高校時代のはじめの頃だけだが、私も似たような田舎町で暮らしていたので、なんとなく光景は想像できる。しかし、全校生徒が10人にも満たない学校というのは通ったことがなく、どんなものか知らないため純粋に興味深かった。
「大人が担任と校長のふたりしかいなくて、基本的に授業は全校生徒をひとつの教室に集めて行うんだ。ただ、生徒の学年はバラバラだから、ドリルや問題集を使って自習することが多かったかな」
訊くと、塾に通ったり通信教育を受けたりもしていなかったらしい。その話を聞いて、私は舌を巻いた。自分たちが通っていた高校は地元の中ではそこそこ偏差値の高い進学校で、間違っても誰でも入れるような学校ではなかったはずだ。そんなところにほとんど独学で受かったというのだから相当秀才だったのだろう。
お世辞抜きにそう賞賛すると、先輩は照れ臭そうに私から視線を逸らした。だけど口元はしっかり緩んでいて、喜びを隠しきれていなかった。
「まあ勉強ができたというより、それ以外にやることがなかったお陰かもしれないな。それに他の生徒たちとは学年が離れていたこともあって、あんまり遊んだりする機会もなかったから」
しみじみとしたその語り口にはどこか寂寥感が滲んでいた。あまり良い思い出ではないのかもしれない。
空気を読んで話題を変えた。
「おうちにいる時は、何をして過ごされていたんですか?」
そう尋ねると、先輩は気を取り直すようにひとつ咳払いを挟んでから、笑みをつくった。
「前にも話したと思うけど、とにかく映画が好きでな。週末になるたび街のレンタルビデオ屋に出向いて、そこで借りた映画を観て過ごすのが日課だったよ」
前、というのは3年前。まだ私との間に繋がりがあった頃のことだ。
先輩が大の映画好きだという話はもちろん、今のエピソードもいつだったか聞いた憶えがある。
先輩に映画に関する知識や感想などを語らせると途端に水を得た魚のようになり、毎度その語り口の熱量の激しさに圧倒されたものだった。だけど、そんな時に垣間見ることができる彼の活き活きとした表情は多分に魅力に溢れていて、いつも私を夢中にさせていた。
ろくすっぽ映画についての造詣がなかった私が、その頃から習慣的に映画を観るようになったのは間違いなく先輩の影響だ。
「初めて先輩におすすめされた映画、今でもたまに観てますよ」
そう伝えると、先輩は、ほんとかっ、と声を張った。
わかりやすくテンションの跳ね上がった様子が可愛らしくて、胸がきゅんきゅんする。
「タイトルは確か、『ショーシャンクの空に』だっけ。懐かしいな。立花に映画の素晴らしさを知ってもらいたくて、悩みに悩んで紹介した映画だったが……そうか、まだ観てくれているのか。それは薦めた甲斐があったな」
その実私が映画に興味を持ったのは、先輩に気に入られたいという邪な思惑が働いたからなのだが。しかし結果的に私はその映画を観賞して、先輩が言う『映画の素晴らしさ』なるものを、全てではないにせよ、その片鱗くらいは痛感させられたのだと思う。先輩と縁が切れてからも定期的に映画を観る習慣が残っているのはその証左だろう。
ちなみに『ショーシャンクの空に』とは、無実の罪で投獄された男が脱獄を試みるという筋書きの映画だ。謂われもなく自由の無い生活を余儀なくさせられている点は、今の自分たちが置かれている境遇に通ずるものがあると言えなくもない。改めて非日常の中にいるのだなと実感が湧く。
「兄妹もいないし、むかしから友達も数えられる程度しかいなかったから、こんな内向的な性格になっちまったのかな。田舎の子供らしく野原を駆け回るより家にこもって映画を観てた時間の方がずっと長かった気がするよ」
自虐的な笑みを浮かべる先輩を思わず抱き締めたくなる。無論そんなことをしたらいよいよ理性に歯止めが利かなくなりそうだから、奥歯を噛み締めて堪えるが。
「先輩の豊かな感性はたくさんの名画が培ってきたのだなと思うと納得できます。良い思い出話を聞かせてくださり、ありがとうございました」
そう謝意を示すと、先輩は拍子抜けしたような顔で瞬きを繰り返した。
「なんだ、今日はえらく殊勝な態度だな」
「種明かしをすると、失った信頼を取り戻すために猫を被っているんです」
ぽかんとした表情。数秒後、その顔が柔和なものに変わった。
「立花ってなんかずれてんだよな。まあ俺が言えるようなことでもないけどさ」
「……カナって呼んでください」
「えっ?」
勇気を振り絞って告げると、先輩の顔が冷水を浴びせられたように硬まった。
「3年前のあの時みたいに……。名字で呼ばれると距離が開いた感じがして、なんだかモヤモヤするんです」
先輩が戸惑いに揺れていることは明白だった。
沈黙が生まれ、しばらく気まずいだけの時間が流れる。
後悔が徐々に胸の中を満たしていく。ああ、どうして衝動を抑えられなかったのだろう……。形だけ取り繕っても肝心の中身が伴っていなければ何も意味はないとわかっているのに。
あまりにいたたまれなく、発言を撤回しようと思いかけた、その時だった。
先輩のおもてからふと狼狽の気配が消え、真摯な眼差しを私に預けてきた。何かしらの覚悟が決まったような顔つきに相違なかった。
私が息を飲んでいる間に、先輩は、
「カナ」
さらりと告げた。
咄嗟に、やばい、と思い、先輩から顔を背けた。
今の蕩けきった表情を見せるわけにはいかなかった。そんな顔で数秒でも見つめ合ってしまえば、容易に身体を預けてしまいそうな未来が視えたからだ。
「ありがとうございます。桐生先輩・・・・」
そう返すと、またしても先輩からの反応が途絶えた。
見ると、なんとなく気落ちしているような、色の欠けた表情を浮かべていた。
その理由は訊かずとも察せられた。恐らく望んでいた呼ばれ方じゃなかったからだろう。私に対してそうしたように、私からも当時の呼び方で名前を呼ばれると思ったに違いない。
3年前の7月。先輩と知り合って3ヶ月が経過した頃、それまでは先輩のことを『桐生先輩』と呼んでいたが、思いきって呼称を改めることにしたのだ。もちろん先輩との距離をもっと縮めるためだ。察するにこちらの呼び方を期待していたのだろう。
期待を裏切られ、しゅんとした表情を浮かべている先輩を前にしていると、堪らず母性本能が爆発しそうになる。
マジで可愛い生き物だ。これだからこの人をからかうのは止められない。
でも私は、なにも意地悪ではぐらかしているわけではない。
私は3年前の関係性を忠実に再現し、止まった時計の針をもう一度動かしたいのだ。
私の方はとっくにその準備は出来ている。だが先輩はどうだ? 私の目から見て、その準備が出来ているとは思えない。先輩は明らかに〝今〟を生きようとしている。もう〝過去〟に戻る気は更々としてないのだと、雰囲気から察せられる。
我が儘かもしれないが、これが私なりのけじめだ。過去をやり直したいという意思が見えない限りは、とことん先輩の期待には応えないつもりでいる。
「私と出会う前の先輩がどういう暮らしぶりをしていたのか、だいたい把握できました。じゃあ次は、私と別れてからのお話を聞かせてください」
「カナと別れてから……」
「というと、語弊のある言い方かもしれませんね。私たち、なにも付き合ってたわけじゃありませんから」
さっと俯いた先輩のおもてに色濃い影が浮かぶ。
今のは完全な自爆だ。少なからず私自身もダメージを受けていた。
そう、私たちは恋人ではなかった。セックスどころか、キスも、手を繋いだことすらもなかった。ただ通学の時間を共にしていただけ。つまるところ友情の域を出ないものだった。お互いの気持ちに気づいていながら……。言ってしまえばあの頃の私たちは若すぎたのだ。若すぎるが故に気持ちを言語化することを疎かにして致命的なすれ違いを生んだのだと思う。
「特に話すことなんかないよ。あれから普通に高校に通って、順当に進学して、大学受験して……それで今に至るというわけだ」
さすがに説明を端折りすぎだ。そんなことは言われずとも見当がつく。
「大学はどこに通われてるんです?」
そう質問すると、先輩の強張った顔がわかりやすく弛緩した。多分その辺りに地雷みたいなものが埋め込まれていて、こちらがそれをスルーしたから安堵しているのだろう。
大方想像がつく。その地雷とやらの正体についても。そしてその想像は瞬く間に私の心をブルーにする。
それを処理するには自分にも気持ちの整理が必要だ。まあ焦ることはない。時間はたくさんある。後でゆっくりじっくり、腰を入れて処理していけばいい。
さておき先輩が答えたのは、ここらではかなり名の知れた公立大学だった。県内随一の、偏差値の高い大学だ。そもそもの地頭が良いのだろう。そうでなければ映画などという高尚な趣味は持たない。
「こんな怪しいバイトに応募して来るくらいですから、よっぽどお金に苦労されてるんでしょうね」
「実を言うとそうなんだ。今、大学のサークルで自主制作映画をつくってるんだけど、制作費が全然足りなくてな」
「えっ、映画つくってるんです? すごい! 先輩、夢に近づいてるじゃないですか!」
つい興奮して、はしゃいだ声を上げてしまう。
先輩は照れ臭そうに視線を逸らしたが、でも本心は満更でもなさそうで、その証拠に口元が仄かに緩んでいた。
いつか映画監督になりたいと夢を語っていたことが思い出される。口先だけでなく行動に移しているのだから本当に大したものだ。私は心の底から感銘を受けていた。
「どういう映画なんですか?」
尋ねると、やや渋るような反応が返ってきた。しかしもう少しだけ強くせがんでみせると、意外と簡単にその口が割れた。本当は話したくてうずうずしていたのだろう。いやはや、どこまで尊い生き物なんだ!
「とある難病を患った少女が、同じ病院に入院していた少年のドナーによって奇跡的な回復を遂げるところから物語は始まるんだ。少女は自分も少年のように苦しんでいる誰かに手を差し伸べる存在でありたいと思い立ち、退院して復学するなり奉仕部を設立する。そんな折に、クラスメイトにいじめられている生徒がいてな……」
先輩の語り口が徐々にヒートアップしていく。
嬉々として紡がれるストーリーに、いつしか私ものめり込んでいた。
話の中で気になるところが生じれば、その都度、親に子守歌をねだる幼子のように質問を投げかけた。それに対し先輩は嫌な顔ひとつせず、むしろ私の歓心を買えたことに大層ご満悦な様子で、丁寧に説明を返してくるのだった。
そうこうしていると時の流れは驚くほど早く進み、気づいた時には正午を迎えていた。そのまま昼食に移行したが、その間も会話は自主制作映画のことで持ちきりだった。
いつになく和気藹々と会話が弾んでいたが、その裏で私は今か今かと時機を見計らっていた。例の地雷処理に取り掛かるタイミングについてだ。できることなら見て見ぬふりで素通りしたい。だがそれは私たちが過去に立ち返るためには、どうしても避けては通れない道に埋め込まれているのだった。
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