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第2章
理性と本能の狭間で(1/5)
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初めて立花カナを見かけた時の記憶は今も鮮明な状態で保存されている。
あれは今から3年前ーー俺が高校2年生に進級したばかりの春先のことだった。
通学中の電車の中で、自分と同じ学校の制服を着た女の子がいることに気がついた。
彼女は長椅子の端っこに姿勢よく座って、膝の上に文庫本を広げていた。
陽の光を浴びて艶めく長い黒髪が印象的で、彼女をフレームの中心に据えたその光景はまるで一枚の高尚な絵画のようだった。
小顔で目鼻立ちも整っていて、一見して品行も良さそうだから、さぞかしモテるに違いない。
先月までは見かけた憶えのない顔だから新入生だろうと察すると同時に、話しかけてみようかな、という考えが一瞬だけ脳裏を掠めた。目的の駅に着くまでの長丁場、話し相手が出来れば良い退屈凌ぎになるだろうと考えたのだ。
もちろん少なからず邪な思いがあったことも否定はしない。その美貌をひと目見た時から、俺はすっかり彼女に関心を持つようになっていた。ひと目惚れは言い過ぎにしても、その何歩か手前には確実に足を踏み入れていたように思う。その証拠に、彼女のことを意識すると胸がドキドキと高鳴るのを抑えられなかった。
叶うならお近づきになりたい。だけど行動には移せなかった。
――突然話しかけたりなんかしたら驚かせてしまうのではないか?
――読書の邪魔をしたら気分を害してしまうのではないか?
悪い想像ばかりを膨らませて臆病風に吹かれているうちに電車は目的の駅に到着する。しばらくはそんな焦れったい毎日を過ごしていた。
それから1週間ほどが過ぎ、自分の意気地の無さにいい加減見切りを付け始めていた時分に、意外にも最初に話しかけてきたのは彼女の方だった。
「あの、どうして座らないんですか?」
はじめは自分が話しかけられていると思わなかった。だが彼女と同じ車両にいる人間は自分の他にいない。その事実に気づいたとき、ようやく状況が飲み込めた。しかしだからといって彼女からの突然のアプローチに戸惑わないでいられるほどの肝っ玉は持ち合わせていなかった。
当惑に揺れながら無言を保っていると、不意に彼女のさくらんぼみたいな瑞々しい唇が綻んだ。
「私、立花カナと言います。2年生か3年生の方ですよね?」
「あ、ああ。2年生だけど……よくわかったな」
そう辿々しく応えると、彼女はこちらの佇まいに視線を巡らせながら言った。
「カバンとか靴とか、ところどころ使い古された跡があるようにお見受けできましたので。あとは、雰囲気ですかね。なんとなく上級生の風格が感じ取れました」
よく見ている。その洞察力も見事なものだが、それより『見られていた』という事実の方に驚く。
突然すみません、と彼女は断りを入れてから続けた。
「いつも気になっていたんです。この車両、空席ばっかなのに、なんで座らないんだろうって」
上目遣いでこちらの顔を覗き込んでくる。
魅惑的なポーズを前に、思わず心臓が高鳴る。
戸惑いに駆られつつも、彼女が声をかけてきた理由を理解した。どうやら空席の目立つ車中でいつも棒立ちしているのが不思議に思われたらしい。
さて、どう答えるべきか、と考えつつ、ぽりぽりと後頭部を掻く。
「別に深い意味はないよ。ただの習慣みたいなものだ」
「習慣、ですか。でも、毎朝1時間以上立ちっぱなしはしんどいでしょう」
「もう慣れたよ。なにせ1年以上も続けているからな」
途端に彼女の目が丸くなる。なかなか感情が表に出やすいタイプのようだ。
「ストイックですね。健康のためですか?」
「それもある。でも、そっちは言い訳かもな」
「言い訳?」
「自分の行動を正当化するために後から用意した理由とでも言うべきか」
「難しいこと言いますね……」
しばし考え込むような顔で俯く彼女。
無言の間を繋ぐように、次の駅への到着が近いことを報せるアナウンスが流れる。
再び車中に静寂が戻ってから、彼女は顔を上げた。
「要するに、座席に座らない本当の理由があるということですか?」
俺は頬を緩めて頷いた。
「まあそういうことだ」
「それはなんですか?」
目を輝かせながら尋ねてくる。
思った以上に関心を持たれているようで、悪い気はしない。
その期待に応えたくもあったが、不意に閃いたことがあって、そちらの衝動に従った。
「教えられないな」
「えっ、どうして?」
「大した理由じゃないが、常人には理解が及ばない考えかもしれんのでな。親しい間柄の人にしか明かしたくないんだよ」
そう答えると、彼女はみるみる唇を尖らせた。明らかに不服そうだ。
「もったいぶりますね。またひとつモヤモヤが増えちゃいました」
「立花さんも立ちっぱを習慣にしてみたらどうだ? そのうち答えが見つかるかもしれないぞ」
「遠慮しときます。私、先輩みたいに我慢強くないので」
そう言ってくるりと身を翻し、すぐそばにある座席に腰を下ろした。それからまた俺の方を見上げて、ニコリと微笑みかけてきた。脳みそが蕩けそうになるくらい破壊力抜群の笑顔だった。
「それに遠回りは好きじゃないです。やっぱり本人から訊くのが、いちばんの近道だと思います。なので……」
心なしか彼女の頬がぽっと赤くなる。
瞬間、稲妻のようなときめきに心臓が締め付けられた。
「これから仲良くしてもらうことにします。覚悟しておいてくださいね」
見目麗しい容姿以上に、その言葉が決め手となった。
立花カナの存在は俺の心の深い部分に食い込み、そして3年後の今に至るまで呪いのように蝕み続けている。
初めて立花カナを見かけた時の記憶は今も鮮明な状態で保存されている。
あれは今から3年前ーー俺が高校2年生に進級したばかりの春先のことだった。
通学中の電車の中で、自分と同じ学校の制服を着た女の子がいることに気がついた。
彼女は長椅子の端っこに姿勢よく座って、膝の上に文庫本を広げていた。
陽の光を浴びて艶めく長い黒髪が印象的で、彼女をフレームの中心に据えたその光景はまるで一枚の高尚な絵画のようだった。
小顔で目鼻立ちも整っていて、一見して品行も良さそうだから、さぞかしモテるに違いない。
先月までは見かけた憶えのない顔だから新入生だろうと察すると同時に、話しかけてみようかな、という考えが一瞬だけ脳裏を掠めた。目的の駅に着くまでの長丁場、話し相手が出来れば良い退屈凌ぎになるだろうと考えたのだ。
もちろん少なからず邪な思いがあったことも否定はしない。その美貌をひと目見た時から、俺はすっかり彼女に関心を持つようになっていた。ひと目惚れは言い過ぎにしても、その何歩か手前には確実に足を踏み入れていたように思う。その証拠に、彼女のことを意識すると胸がドキドキと高鳴るのを抑えられなかった。
叶うならお近づきになりたい。だけど行動には移せなかった。
――突然話しかけたりなんかしたら驚かせてしまうのではないか?
――読書の邪魔をしたら気分を害してしまうのではないか?
悪い想像ばかりを膨らませて臆病風に吹かれているうちに電車は目的の駅に到着する。しばらくはそんな焦れったい毎日を過ごしていた。
それから1週間ほどが過ぎ、自分の意気地の無さにいい加減見切りを付け始めていた時分に、意外にも最初に話しかけてきたのは彼女の方だった。
「あの、どうして座らないんですか?」
はじめは自分が話しかけられていると思わなかった。だが彼女と同じ車両にいる人間は自分の他にいない。その事実に気づいたとき、ようやく状況が飲み込めた。しかしだからといって彼女からの突然のアプローチに戸惑わないでいられるほどの肝っ玉は持ち合わせていなかった。
当惑に揺れながら無言を保っていると、不意に彼女のさくらんぼみたいな瑞々しい唇が綻んだ。
「私、立花カナと言います。2年生か3年生の方ですよね?」
「あ、ああ。2年生だけど……よくわかったな」
そう辿々しく応えると、彼女はこちらの佇まいに視線を巡らせながら言った。
「カバンとか靴とか、ところどころ使い古された跡があるようにお見受けできましたので。あとは、雰囲気ですかね。なんとなく上級生の風格が感じ取れました」
よく見ている。その洞察力も見事なものだが、それより『見られていた』という事実の方に驚く。
突然すみません、と彼女は断りを入れてから続けた。
「いつも気になっていたんです。この車両、空席ばっかなのに、なんで座らないんだろうって」
上目遣いでこちらの顔を覗き込んでくる。
魅惑的なポーズを前に、思わず心臓が高鳴る。
戸惑いに駆られつつも、彼女が声をかけてきた理由を理解した。どうやら空席の目立つ車中でいつも棒立ちしているのが不思議に思われたらしい。
さて、どう答えるべきか、と考えつつ、ぽりぽりと後頭部を掻く。
「別に深い意味はないよ。ただの習慣みたいなものだ」
「習慣、ですか。でも、毎朝1時間以上立ちっぱなしはしんどいでしょう」
「もう慣れたよ。なにせ1年以上も続けているからな」
途端に彼女の目が丸くなる。なかなか感情が表に出やすいタイプのようだ。
「ストイックですね。健康のためですか?」
「それもある。でも、そっちは言い訳かもな」
「言い訳?」
「自分の行動を正当化するために後から用意した理由とでも言うべきか」
「難しいこと言いますね……」
しばし考え込むような顔で俯く彼女。
無言の間を繋ぐように、次の駅への到着が近いことを報せるアナウンスが流れる。
再び車中に静寂が戻ってから、彼女は顔を上げた。
「要するに、座席に座らない本当の理由があるということですか?」
俺は頬を緩めて頷いた。
「まあそういうことだ」
「それはなんですか?」
目を輝かせながら尋ねてくる。
思った以上に関心を持たれているようで、悪い気はしない。
その期待に応えたくもあったが、不意に閃いたことがあって、そちらの衝動に従った。
「教えられないな」
「えっ、どうして?」
「大した理由じゃないが、常人には理解が及ばない考えかもしれんのでな。親しい間柄の人にしか明かしたくないんだよ」
そう答えると、彼女はみるみる唇を尖らせた。明らかに不服そうだ。
「もったいぶりますね。またひとつモヤモヤが増えちゃいました」
「立花さんも立ちっぱを習慣にしてみたらどうだ? そのうち答えが見つかるかもしれないぞ」
「遠慮しときます。私、先輩みたいに我慢強くないので」
そう言ってくるりと身を翻し、すぐそばにある座席に腰を下ろした。それからまた俺の方を見上げて、ニコリと微笑みかけてきた。脳みそが蕩けそうになるくらい破壊力抜群の笑顔だった。
「それに遠回りは好きじゃないです。やっぱり本人から訊くのが、いちばんの近道だと思います。なので……」
心なしか彼女の頬がぽっと赤くなる。
瞬間、稲妻のようなときめきに心臓が締め付けられた。
「これから仲良くしてもらうことにします。覚悟しておいてくださいね」
見目麗しい容姿以上に、その言葉が決め手となった。
立花カナの存在は俺の心の深い部分に食い込み、そして3年後の今に至るまで呪いのように蝕み続けている。
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