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不倫の代償
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路地裏の狭い道は、食べ物と下水の匂いが入り混じり、身体の内側から蝕まれていくような錯覚を覚える。
九月になってもまだ一向に涼しさの感じられない漆黒の空を睨み、楓は大きく溜息をついた。同時に生暖かい風が鼻腔を刺激し、「くさっ」と楓は思わず鼻を摘んだ。
「お待たせ」
ドアを閉める音と共に、ようやく待ち人が姿を現す。
「お疲れ」
いつものように楓は、ペットボトルを政宗に手渡した。
「サンキュー」
いつも悪りぃな、と政宗はキャップを開けると、美味しそうに喉を鳴らし、冷たいお茶を飲み下した。
「ううん。だっていつもオマケくれるし」
「オマケっつっても、どうせ余りもんだし」
政宗のバイト先の居酒屋は、楓が飲みに行くといつも、その日に残りそうなデザートや一品料理をあれこれ出してくれる。
今日は、里芋の煮っ転がしと、オレンジを半カットご馳走になった。
「それに、俺の懐は全く痛まねぇわけだし。却って申し訳ねぇよ」
と言いつつ飲んでるけどな、と政宗はペットボトルを少し掲げて冗談っぽくニヤリと笑った。
その顔を、愁いを帯びた瞳で楓が見つめる。
「楓?」
不思議そうに顔を覗き込む政宗から視線を外し、「行こっか」楓は大通りに向かって歩き始めた。
「どうした? なんか今日、元気ねぇけど」
「そうかな?」
前を向いたまま、楓が答えた。
「実習、うまくいかなかったのか?」
楓と美乃里の実習先は、乳児院だった。
「別に。楽しかったよ。赤ちゃん可愛かったし」
楓は平坦な声で答えたあと、「そっちは? 養護施設どうだった?」チラリと振り返り、目線を政宗の方へ向けた。
「え? ああ……。良かったよ。いろいろ勉強になったし」
政宗の脳裏に、聖との出来事が蘇った。
あんなに感情を露わにした聖を見たのは、初めてだった。
ようやく未来に歩き出した聖の琥珀色に輝く瞳を思い返し、政宗は眩しそうに目を細めた。
自分も負けていられない。
政宗がそう思った時。突然楓が、足を止めた。
「おわっ! びっくりした。急に止まんなよ」
足元ばかり見つめて歩いていた政宗は、危く楓にぶつかりそうになった。
「政宗」
ゆっくりと、楓が振り向く。
「な、なんだよ?」
「訊きたいことが……あるの」
「訊きたい……こと?」
少し身を引き、政宗が訝しそうに楓を見つめた。
「あのさ……」
一旦目を伏せ、視線を左右に彷徨わせる。
ポシェットの肩紐をギュッと掴むと、楓は思い切ったように顔を上げ、大きな瞳で政宗を見つめた。
「政宗って今、彼女とか、いるの?」
「……はぁ?」
突然飛び出した予期せぬ質問に、政宗は両眼を見開き声を裏返らせた。
「お前、なに言ってんの?」
「だって……」
「んなもん、いるように見えるか?」
「ううん」
今にも泣き出しそうな顔をして、楓が左右に首を振る。
「そんなんいたら、お前らなんかと連んでねぇよ」
「ひどっ……」
ほら行くぞ、と政宗が楓の脇をすり抜ける。その腕を「待って」と楓が強く掴んだ。
驚いて振り返った政宗が、「へっ?」と気の抜けた声を上げた。
「じゃあ、美乃里は?」
「美乃里?」
「どう思ってんの? 美乃里のこと」
手のひらに政宗の動揺が伝わってくる。楓は汗ばむ指に力を込めた。
「お前、酔っ払ってんのか?」
しょうがねぇなぁ、と政宗は笑って、楓の指をやんわり解いた。
「駅まで送ろうか?」
「誤魔化さないで!」
「ったく……」
これだから酔っ払いは、と溜息ををつき、政宗は再び歩き出した。
「政宗!」
その背に楓が呼びかける。
「美乃里は……」
遠ざかる後ろ姿に、楓は涙の滲む声で叫んだ。
「美乃里、不倫してるよ!」
***
――あたし、見たんだから。造形室で、美乃里と篠崎がキスしてるとこ。
政宗の頭の中を、楓の声がリフレインする。
先程から何度も開いたり閉じたりを繰り返しているトークアプリを荒っぽく閉じると、政宗はベッドの上にスマホを放り投げた。
「俺は美乃里に、一体何を訊くつもりなんだ?」
ベッドに転がるスマホ画面の鈍い光を睨み、政宗は両手で頭を掻きむしった。
勉強机に目を向けると、白い小箱が目に入った。
四人で飲んだあの日。パンツのポケットの中で行き場を失くした小さな箱が、淡いピンク色のリボンをまとい、今もなお出番を待ち続けている。
「くそっ!」
憎々しげに呟くと、政宗はその箱を乱暴に掴んだ。
そのままゴミ箱に放り込もうとし、すんでのところで腕を止める。
「……ちくしょう」
怒りや悲しみ、悔しさなどが一体となり、政宗の内部で渦を巻く。
どかりと腰を下ろすと、政宗は頭を抱えて嗚咽を漏らした。
きつく握りしめた小さな箱が、キリキリと音を立て、政宗の手のひらを鋭く刺した。
九月になってもまだ一向に涼しさの感じられない漆黒の空を睨み、楓は大きく溜息をついた。同時に生暖かい風が鼻腔を刺激し、「くさっ」と楓は思わず鼻を摘んだ。
「お待たせ」
ドアを閉める音と共に、ようやく待ち人が姿を現す。
「お疲れ」
いつものように楓は、ペットボトルを政宗に手渡した。
「サンキュー」
いつも悪りぃな、と政宗はキャップを開けると、美味しそうに喉を鳴らし、冷たいお茶を飲み下した。
「ううん。だっていつもオマケくれるし」
「オマケっつっても、どうせ余りもんだし」
政宗のバイト先の居酒屋は、楓が飲みに行くといつも、その日に残りそうなデザートや一品料理をあれこれ出してくれる。
今日は、里芋の煮っ転がしと、オレンジを半カットご馳走になった。
「それに、俺の懐は全く痛まねぇわけだし。却って申し訳ねぇよ」
と言いつつ飲んでるけどな、と政宗はペットボトルを少し掲げて冗談っぽくニヤリと笑った。
その顔を、愁いを帯びた瞳で楓が見つめる。
「楓?」
不思議そうに顔を覗き込む政宗から視線を外し、「行こっか」楓は大通りに向かって歩き始めた。
「どうした? なんか今日、元気ねぇけど」
「そうかな?」
前を向いたまま、楓が答えた。
「実習、うまくいかなかったのか?」
楓と美乃里の実習先は、乳児院だった。
「別に。楽しかったよ。赤ちゃん可愛かったし」
楓は平坦な声で答えたあと、「そっちは? 養護施設どうだった?」チラリと振り返り、目線を政宗の方へ向けた。
「え? ああ……。良かったよ。いろいろ勉強になったし」
政宗の脳裏に、聖との出来事が蘇った。
あんなに感情を露わにした聖を見たのは、初めてだった。
ようやく未来に歩き出した聖の琥珀色に輝く瞳を思い返し、政宗は眩しそうに目を細めた。
自分も負けていられない。
政宗がそう思った時。突然楓が、足を止めた。
「おわっ! びっくりした。急に止まんなよ」
足元ばかり見つめて歩いていた政宗は、危く楓にぶつかりそうになった。
「政宗」
ゆっくりと、楓が振り向く。
「な、なんだよ?」
「訊きたいことが……あるの」
「訊きたい……こと?」
少し身を引き、政宗が訝しそうに楓を見つめた。
「あのさ……」
一旦目を伏せ、視線を左右に彷徨わせる。
ポシェットの肩紐をギュッと掴むと、楓は思い切ったように顔を上げ、大きな瞳で政宗を見つめた。
「政宗って今、彼女とか、いるの?」
「……はぁ?」
突然飛び出した予期せぬ質問に、政宗は両眼を見開き声を裏返らせた。
「お前、なに言ってんの?」
「だって……」
「んなもん、いるように見えるか?」
「ううん」
今にも泣き出しそうな顔をして、楓が左右に首を振る。
「そんなんいたら、お前らなんかと連んでねぇよ」
「ひどっ……」
ほら行くぞ、と政宗が楓の脇をすり抜ける。その腕を「待って」と楓が強く掴んだ。
驚いて振り返った政宗が、「へっ?」と気の抜けた声を上げた。
「じゃあ、美乃里は?」
「美乃里?」
「どう思ってんの? 美乃里のこと」
手のひらに政宗の動揺が伝わってくる。楓は汗ばむ指に力を込めた。
「お前、酔っ払ってんのか?」
しょうがねぇなぁ、と政宗は笑って、楓の指をやんわり解いた。
「駅まで送ろうか?」
「誤魔化さないで!」
「ったく……」
これだから酔っ払いは、と溜息ををつき、政宗は再び歩き出した。
「政宗!」
その背に楓が呼びかける。
「美乃里は……」
遠ざかる後ろ姿に、楓は涙の滲む声で叫んだ。
「美乃里、不倫してるよ!」
***
――あたし、見たんだから。造形室で、美乃里と篠崎がキスしてるとこ。
政宗の頭の中を、楓の声がリフレインする。
先程から何度も開いたり閉じたりを繰り返しているトークアプリを荒っぽく閉じると、政宗はベッドの上にスマホを放り投げた。
「俺は美乃里に、一体何を訊くつもりなんだ?」
ベッドに転がるスマホ画面の鈍い光を睨み、政宗は両手で頭を掻きむしった。
勉強机に目を向けると、白い小箱が目に入った。
四人で飲んだあの日。パンツのポケットの中で行き場を失くした小さな箱が、淡いピンク色のリボンをまとい、今もなお出番を待ち続けている。
「くそっ!」
憎々しげに呟くと、政宗はその箱を乱暴に掴んだ。
そのままゴミ箱に放り込もうとし、すんでのところで腕を止める。
「……ちくしょう」
怒りや悲しみ、悔しさなどが一体となり、政宗の内部で渦を巻く。
どかりと腰を下ろすと、政宗は頭を抱えて嗚咽を漏らした。
きつく握りしめた小さな箱が、キリキリと音を立て、政宗の手のひらを鋭く刺した。
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