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涙の施設実習
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暫く沈黙した後、政宗が静かに訊いた。
「親父さんは、今も暴力を……?」
顔を隠したまま、聖は左右に首を振った。
「死んだよ。俺が中二の時、肺ガンで。見つかった時にはもう手遅れで……。あっという間だったよ」
政宗はハッと息を呑んだあと、「すまん」と一言謝った。
いや、と一つ首を振り、ようやく聖は顔を上げた。
先程より穏やかなその表情に、政宗はほんの少し安堵する。
聖が落ち着いたのを見計らい、政宗は再び疑問を口にした。
「じゃああの、前に学校に来た女性は?」
僅かに顔をひきつらせ、聖は「静華さん?」と訊き返した。
「ああ」
「あの人は、父親の再婚相手。母さんが死んだ翌年に再婚したんだ」
「それじゃあ、今はその静華さんと二人で?」
「そう。……と言っても俺は家を出たから、用事がない限り会わないけどね」
「そっか……」
政宗の脳裏に、静華のワインカラーのワンピースが蘇る。
聖の腕に指を絡ませ、妖艶な笑みを浮かべる静華のただならぬ雰囲気を思い起こし、政宗は妙な胸騒ぎを覚えた。
「聖……」
政宗が言いかけた時、「やっぱり俺は……」聖が政宗の言葉を遮り、悔しそうに顔を歪めた。
「やっぱり俺は、保育士になんてなれない。所詮、俺には無理な話だったんだ」
「なんでだよ?」
「だってそうだろ? 俺は、海里くん一人すら救えない。救うどころか、逃げ出したんだ。結局俺は、誰も救うことなんてできないんだよ……」
「それは違うぞ」
怒ったように、政宗は声を荒げた。
ビクッと肩を跳ね上げたあと、聖は恐る恐る政宗の顔を覗き込んだ。
政宗の目は、真っ直ぐ聖を捉えている。その無言の圧力に逆えず、聖は大人しく政宗が発する次の言葉を待った。
ふっと全身の力を抜くと、政宗は諭すように語りかけた。
「正直俺は、虐待されて育った子どもの気持ちはわからない。虐待されたこともないし、不幸な境遇で育ったわけでもないからな。頭では理解できても、実際のところは何一つわからない。マニュアル通りの接し方しかできないんだ」
政宗は一旦言葉を切ると、深く息を吸った。
ぼんやりとした琥珀色の瞳が、不安そうに揺れている。その奥にある微かな光に向かって、政宗は熱のこもった声で訴えかけた。
「だけどお前は違う。自分が経験してきた分、彼らの気持ちは手にとるようにわかる。違うか?」
聖がコクリと頷いた。
「それは、経験したものにしかわからないんだ。だから俺は逆に、この仕事は、お前の天職だと思うぞ」
「天職?」
「そうだ。海里くんはきっと、お前だから話したんだ。父親のことを。お前に対して何かを感じたから、心を開いたんだ」
「そう……なのかな?」
「ああ。俺はこの仕事、向いてると思うぞ。きっと、お前にしか救えない心があるはずだ」
「俺にしか……救えない……心……?」
一言一言、噛み締めるように呟いたあと、聖は一瞬ハッとして、それから、まるで闇の中に漂う一点の光を見つけたかのように、瞳を大きく見開いた。
「なれよ。保育士に。お前ならできる。俺が保証するよ」
「政宗……」
琥珀色の瞳に力が漲り、迷いの消えた表情には、少しずつ赤みがさしてきた。
「ありがとう……」
涙を堪えてにっこりしたあと、聖は深く頭を下げた。
Tシャツの胸元を引き上げ何度も顔を拭う聖の肩を、力強い政宗の手が、がっしり掴んだ。
聖が再び上を向くその瞬間まで、政宗は何も言わず、震える肩を撫で続けていた……。
「親父さんは、今も暴力を……?」
顔を隠したまま、聖は左右に首を振った。
「死んだよ。俺が中二の時、肺ガンで。見つかった時にはもう手遅れで……。あっという間だったよ」
政宗はハッと息を呑んだあと、「すまん」と一言謝った。
いや、と一つ首を振り、ようやく聖は顔を上げた。
先程より穏やかなその表情に、政宗はほんの少し安堵する。
聖が落ち着いたのを見計らい、政宗は再び疑問を口にした。
「じゃああの、前に学校に来た女性は?」
僅かに顔をひきつらせ、聖は「静華さん?」と訊き返した。
「ああ」
「あの人は、父親の再婚相手。母さんが死んだ翌年に再婚したんだ」
「それじゃあ、今はその静華さんと二人で?」
「そう。……と言っても俺は家を出たから、用事がない限り会わないけどね」
「そっか……」
政宗の脳裏に、静華のワインカラーのワンピースが蘇る。
聖の腕に指を絡ませ、妖艶な笑みを浮かべる静華のただならぬ雰囲気を思い起こし、政宗は妙な胸騒ぎを覚えた。
「聖……」
政宗が言いかけた時、「やっぱり俺は……」聖が政宗の言葉を遮り、悔しそうに顔を歪めた。
「やっぱり俺は、保育士になんてなれない。所詮、俺には無理な話だったんだ」
「なんでだよ?」
「だってそうだろ? 俺は、海里くん一人すら救えない。救うどころか、逃げ出したんだ。結局俺は、誰も救うことなんてできないんだよ……」
「それは違うぞ」
怒ったように、政宗は声を荒げた。
ビクッと肩を跳ね上げたあと、聖は恐る恐る政宗の顔を覗き込んだ。
政宗の目は、真っ直ぐ聖を捉えている。その無言の圧力に逆えず、聖は大人しく政宗が発する次の言葉を待った。
ふっと全身の力を抜くと、政宗は諭すように語りかけた。
「正直俺は、虐待されて育った子どもの気持ちはわからない。虐待されたこともないし、不幸な境遇で育ったわけでもないからな。頭では理解できても、実際のところは何一つわからない。マニュアル通りの接し方しかできないんだ」
政宗は一旦言葉を切ると、深く息を吸った。
ぼんやりとした琥珀色の瞳が、不安そうに揺れている。その奥にある微かな光に向かって、政宗は熱のこもった声で訴えかけた。
「だけどお前は違う。自分が経験してきた分、彼らの気持ちは手にとるようにわかる。違うか?」
聖がコクリと頷いた。
「それは、経験したものにしかわからないんだ。だから俺は逆に、この仕事は、お前の天職だと思うぞ」
「天職?」
「そうだ。海里くんはきっと、お前だから話したんだ。父親のことを。お前に対して何かを感じたから、心を開いたんだ」
「そう……なのかな?」
「ああ。俺はこの仕事、向いてると思うぞ。きっと、お前にしか救えない心があるはずだ」
「俺にしか……救えない……心……?」
一言一言、噛み締めるように呟いたあと、聖は一瞬ハッとして、それから、まるで闇の中に漂う一点の光を見つけたかのように、瞳を大きく見開いた。
「なれよ。保育士に。お前ならできる。俺が保証するよ」
「政宗……」
琥珀色の瞳に力が漲り、迷いの消えた表情には、少しずつ赤みがさしてきた。
「ありがとう……」
涙を堪えてにっこりしたあと、聖は深く頭を下げた。
Tシャツの胸元を引き上げ何度も顔を拭う聖の肩を、力強い政宗の手が、がっしり掴んだ。
聖が再び上を向くその瞬間まで、政宗は何も言わず、震える肩を撫で続けていた……。
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