きんだーがーでん

紫水晶羅

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「お疲れ様。お腹減ったでしょ?」
 台所へ行くと、美味しそうに湯気を上げたカツ丼が、楓の帰りを待ち構えていた。
 楓が来る頃を見計らって温め直してくれたのだろう。母の優しさに、「ありがとう」と楓は素直に礼を述べた。
「カツは昨夜ゆうべの残りだけどね」
 悪戯っぽく、母が笑った。

「お父さんは?」
 いただきます、と手を合わせたあと、楓は嬉しそうにどんぶりを持ち上げた。
「今日は法事が入ってて、帰りは三時過ぎになると思うけど……」
 お茶を淹れながら、「何か用事でも?」母が訊き返した。
「ううん。うるさい人が居なくて良かったと思って」
 安心したように、楓はカツを頬張った。
「またそんなこと……」
 困ったように眉根を寄せて笑うと、母はお茶を差し出した。
「だって……」
 淹れたてのお茶をすすりながら、楓が不貞腐れた顔をする。
「お父さんだって、あれで結構悩んでるのよ」
 楓の真向かいに腰掛けると、母はふうっと息をついた。

 楓には、四つ上の兄がいる。
 誕生とともに『跡取りせがれ』として育てられた兄は、高校卒業後、京都にある修行寺へと進んだ。
 これで寺も安泰と、誰もがホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、突然、兄は修行寺を飛び出したのだった。

「和菓子職人になる」

 両親に反抗する兄の姿を楓が見たのは、これが初めてだった。

 昔から和菓子が好きだった兄は、京都の繊細で美しい和菓子の世界に魅了され、いろんな店に通ううち、ついには自分で作ってみたくなったという。
 激昂する父と取り乱し泣き崩れる母の前で、「どうか許してください」と頭を下げる兄の姿は、五年経った今でも、楓の脳裏に色濃く焼き付いている。
 結局兄は、勘当同然に家を出て行き、それきり音信不通となっている。

「誰も跡を継いでくれなかったらと思うと……」
 今年五十歳になる母は、テーブルに視線を落とし深いため息をついた。

 寺は、跡継ぎがなければ出て行かなければならない。
 それはつまり、住み慣れた我が家を手放すということだ。
 この先なんらかの理由で、父が住職を続けられなくなった場合は、代わりの住職に寺を明け渡さねばならない。

 兄がいなくなった今、寺の継承権は楓へと移った。
 楓が僧侶の婿を取り、保育園共々継いでくれることが、両親の望みなのだ。

「誰かいい人いないの?」
 母の言う『いい人』とは、寺を継いでくれる人だ。
「そんな都合良く見つかるわけないでしょ?」
 卵をご飯に絡ませ、楓は口の中に掻き込んだ。
「ゆっくり食べなさい。まったくお行儀の悪い……」
 母が眉間に皺を寄せた時、「ごめんください」玄関からしゃがれた女性の声が響いてきた。

「モロヘイヤが沢山取れたから食べて」
 ヅカヅカと台所までやってきたその女性は、「おや、楓ちゃん。こんにちは」まるで親戚の叔母ちゃんみたいな優しい笑みを浮かべ、頰肉に埋まりそうな細い目を更に細めた。
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