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椿
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結局椿は、音楽教師にはならなかった。
大学四年の夏、椿の花を模した真紅の花火の下でプロポーズされてから、恭介とは、何度も将来のことについて話し合った。
徹平の言う通り、恭介は、椿が音楽教師になることに反対などしなかった。むしろ背中を押してくれた。家業のことは、できる範囲でやってくれたらいいからと。
だけど椿は、そうしなかった。
家族が一丸となって一つの事業に取り組んでいるところに、自分だけが違う方向を向いて暮らしていくなどできなかった。
野々瀬の家族は皆優しい。椿が他の職業に就いたとしても、結婚に反対などしないだろう。どんな椿でも、きっと受け入れてくれるに違いない。
だがしかし、共に生活していくうちに、いずれ椿は疎外感を味わうだろう。
自分だけ、家業のことがわからない。生活スタイルがまるで違う。会話にすら入れない。そうなった時に、果たして自分は耐えられるのだろうか?
考えに考えた末、椿は音楽教師になるのを諦め、野々瀬の家業を支える道を選んだ。
結婚までの数年間は、地元のピアノ教室で、幼児の音楽指導をしていた。
椿にとっては、それで十分だった。その数年間は、とても充実したものだった。
だから、後悔なんてしていない。形は違えども、一応やりたいことはできたのだ。
それに自分には、音楽教師になること以上に、大事なものができたのだ。
野々瀬の家に入り、愛する夫を支えて生きていく。
それが椿の、新たな目標になったのだ。
それなのに……。
「てっちゃん……」
スマホに向かい、椿が呟く。徹平からの着信は、優に十件は超えていた。
トークアプリの方には、『連絡待ってる』とだけ入っていた。どうやら、いくらかけても繋がらない通話は諦め、メッセージを残すことにしたようだ。
徹平からの連絡は、それが最後となっていた。
夕日コンサートの後、徹平に想いを打ち明けられ、椿は咄嗟に逃げ出した。
手首を掴まれ強く抱き寄せられた時、急に怖くなったのだ。
今までずっと、可愛い弟だと思っていた徹平が、一人の男になっていく。
それが堪らなく怖かった。
徹平には感謝している。恭介が事故に遭った時、咄嗟に頭に浮かんだのは徹平だった。意識のない恭介を前に、どうしたらいいかわからなくて、気がついたら電話をかけていた。
恭介が失踪し、不安だった時も、いつも側には徹平がいた。
葬儀のあとも、二人で悼みを分かち合った。
そして、恭介の遺志を受け継ぎ、その想いを見事形にしてくれた。
この一年、徹平がいてくれたから、乗り越えられた。徹平の支えがあったからこそ、ここまで生きてこられたのだ。
椿にとっても、徹平は特別な存在だ。当たり前のように側にいて、心の底から甘えられる、一番の理解者。
そのはずだった。
いつから変わってしまったのだろう?
祭りの晩。二人で縁側に並んで座り、缶チューハイを飲み合った時、徹平の気持ちを初めて知った。
あの時ちゃんと話していたら、もう少しマシな別れ方ができただろうか?
徹平の思い詰めたような熱い瞳が、頭にこびりついて離れない。
「ごめんなさい……」
椿の頬を、大粒の涙が伝って落ちた。
その時。スマホが突然ぶるりと震えた。
村木からだ。
椿は急いでトークアプリを開いた。
『今日は来れる?』
画面にメッセージが表示される。
『大丈夫。これから行くね』
そう打ち返すと、椿は頬の涙を両手で拭った。
大学四年の夏、椿の花を模した真紅の花火の下でプロポーズされてから、恭介とは、何度も将来のことについて話し合った。
徹平の言う通り、恭介は、椿が音楽教師になることに反対などしなかった。むしろ背中を押してくれた。家業のことは、できる範囲でやってくれたらいいからと。
だけど椿は、そうしなかった。
家族が一丸となって一つの事業に取り組んでいるところに、自分だけが違う方向を向いて暮らしていくなどできなかった。
野々瀬の家族は皆優しい。椿が他の職業に就いたとしても、結婚に反対などしないだろう。どんな椿でも、きっと受け入れてくれるに違いない。
だがしかし、共に生活していくうちに、いずれ椿は疎外感を味わうだろう。
自分だけ、家業のことがわからない。生活スタイルがまるで違う。会話にすら入れない。そうなった時に、果たして自分は耐えられるのだろうか?
考えに考えた末、椿は音楽教師になるのを諦め、野々瀬の家業を支える道を選んだ。
結婚までの数年間は、地元のピアノ教室で、幼児の音楽指導をしていた。
椿にとっては、それで十分だった。その数年間は、とても充実したものだった。
だから、後悔なんてしていない。形は違えども、一応やりたいことはできたのだ。
それに自分には、音楽教師になること以上に、大事なものができたのだ。
野々瀬の家に入り、愛する夫を支えて生きていく。
それが椿の、新たな目標になったのだ。
それなのに……。
「てっちゃん……」
スマホに向かい、椿が呟く。徹平からの着信は、優に十件は超えていた。
トークアプリの方には、『連絡待ってる』とだけ入っていた。どうやら、いくらかけても繋がらない通話は諦め、メッセージを残すことにしたようだ。
徹平からの連絡は、それが最後となっていた。
夕日コンサートの後、徹平に想いを打ち明けられ、椿は咄嗟に逃げ出した。
手首を掴まれ強く抱き寄せられた時、急に怖くなったのだ。
今までずっと、可愛い弟だと思っていた徹平が、一人の男になっていく。
それが堪らなく怖かった。
徹平には感謝している。恭介が事故に遭った時、咄嗟に頭に浮かんだのは徹平だった。意識のない恭介を前に、どうしたらいいかわからなくて、気がついたら電話をかけていた。
恭介が失踪し、不安だった時も、いつも側には徹平がいた。
葬儀のあとも、二人で悼みを分かち合った。
そして、恭介の遺志を受け継ぎ、その想いを見事形にしてくれた。
この一年、徹平がいてくれたから、乗り越えられた。徹平の支えがあったからこそ、ここまで生きてこられたのだ。
椿にとっても、徹平は特別な存在だ。当たり前のように側にいて、心の底から甘えられる、一番の理解者。
そのはずだった。
いつから変わってしまったのだろう?
祭りの晩。二人で縁側に並んで座り、缶チューハイを飲み合った時、徹平の気持ちを初めて知った。
あの時ちゃんと話していたら、もう少しマシな別れ方ができただろうか?
徹平の思い詰めたような熱い瞳が、頭にこびりついて離れない。
「ごめんなさい……」
椿の頬を、大粒の涙が伝って落ちた。
その時。スマホが突然ぶるりと震えた。
村木からだ。
椿は急いでトークアプリを開いた。
『今日は来れる?』
画面にメッセージが表示される。
『大丈夫。これから行くね』
そう打ち返すと、椿は頬の涙を両手で拭った。
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