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流される
綾音の告白
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「コンサートに誘った時、彼の反応を見て確信したよ。あの時、一瞬見つめ合っただろ?」
須藤の言葉に、綾音は埋もれた記憶を呼び戻す。確かにあの時、蛍太と視線が合わさった。
でもそれは、本人ですら今の今まで忘れていたほどの、取るに足らない些細な出来事だったはずだ。
「あれはたまたま……」
震える声で、綾音は弁解した。
「たまたま?」
「そう。たまたま目を向けたら、蛍太さんもこっちを見て……」
「そういう無意識の動作の中に、案外本音って隠されてるものなんだよ」
投げやりに言うと、須藤はふんと鼻を鳴らした。
「パスポートだってそうだ。俺との旅行が楽しみだったら、車の中に置き忘れたりなんてしない。真っ先に手に取るはずだ」
「あ……」
須藤の言う通りだった。あの時綾音は、パスポートの存在などすっかり忘れていた。
大切なのは、蛍太の名刺と、少し高めの柔らかい声の残響が残っている、スマホだけだった。
「別に責めてるわけじゃない。ただ、事実をありのままに述べているだけだ」
手のひらを上に向け、須藤が大袈裟に首を振る。既に須藤は、ソファーのすぐ横まで迫ってきていた。
「俺はね、綾音。例えお前の心が俺になくても、それでもいいと思ってる。だってそんなの、初めからわかっていたことだしな。俺はただ、これからもずっと二人で、穏やかな時間を刻んでいきたいだけなんだ」
力なく須藤が笑う。その目を真っ直ぐ見据え、「無理です」綾音はきっぱり言い切った。
「どうして?」
「だって、裏切ったから……。先生のこと」
「裏切った?」
須藤が綾音の顔を覗き込む。その視線から逃れるように、綾音は目を伏せ俯いた。
「あの時……。車が水に浸かって動けなくなった時……。真っ先に頭に思い浮かんだのは、蛍太さんでした」
「だからそれは……」
「そのあと、蛍太さんのアパートに行って」
綾音が言葉を詰まらせる。
「まさか……」
須藤がはっと息を呑む。須藤の手の中で、パンフレットがグシャリと鈍い音を立てた。
「抱かれました。彼に」
喉の奥から、綾音が声を絞り出す。伏せた目から、涙がするりと頬を伝って流れ落ちた。
「私はもう、先生が知ってる頃の純真無垢な少女じゃありません。付き合っている人がいながら他の男性の部屋に平気で上がり込むような、卑しい女なんです」
すみません、と綾音は両手で顔を覆う。指の隙間から、押し殺したような嗚咽が小さく漏れてきた。
コーヒーメーカーのノズルから吐き出されたお湯が、コーヒー豆に染み込んでいく。
部屋中に、香ばしい匂いが立ち込めた。
「付き合うのか? 彼と」
強張った声で、須藤が訊く。
綾音は顔を覆ったまま、首だけを横に振って答えた。
「それなら別にいいじゃないか」
「えっ?」
勢いよく、綾音が顔を上げる。
「彼と付き合う予定がないのであれば、俺たちが別れる必要はないだろう?」
瞳に鋭い光を蓄えたまま、須藤は口の端を持ち上げた。
「なに……言って……?」
ぞくり、と綾音の全身が泡立つ。後ろに引いた足が、コツンと掃き出し窓の縁に当たった。
「例え付き合えなくても、私は蛍太さんが好きなんです。こんな気持ちのまま、先生と付き合っていくことはできません」
須藤を見つめ、綾音は何度も首を振った。
くくっ、と須藤が喉を鳴らす。
「だから?」
不気味に顔を歪め、須藤が目尻をいやらしく下げた。
須藤の言葉に、綾音は埋もれた記憶を呼び戻す。確かにあの時、蛍太と視線が合わさった。
でもそれは、本人ですら今の今まで忘れていたほどの、取るに足らない些細な出来事だったはずだ。
「あれはたまたま……」
震える声で、綾音は弁解した。
「たまたま?」
「そう。たまたま目を向けたら、蛍太さんもこっちを見て……」
「そういう無意識の動作の中に、案外本音って隠されてるものなんだよ」
投げやりに言うと、須藤はふんと鼻を鳴らした。
「パスポートだってそうだ。俺との旅行が楽しみだったら、車の中に置き忘れたりなんてしない。真っ先に手に取るはずだ」
「あ……」
須藤の言う通りだった。あの時綾音は、パスポートの存在などすっかり忘れていた。
大切なのは、蛍太の名刺と、少し高めの柔らかい声の残響が残っている、スマホだけだった。
「別に責めてるわけじゃない。ただ、事実をありのままに述べているだけだ」
手のひらを上に向け、須藤が大袈裟に首を振る。既に須藤は、ソファーのすぐ横まで迫ってきていた。
「俺はね、綾音。例えお前の心が俺になくても、それでもいいと思ってる。だってそんなの、初めからわかっていたことだしな。俺はただ、これからもずっと二人で、穏やかな時間を刻んでいきたいだけなんだ」
力なく須藤が笑う。その目を真っ直ぐ見据え、「無理です」綾音はきっぱり言い切った。
「どうして?」
「だって、裏切ったから……。先生のこと」
「裏切った?」
須藤が綾音の顔を覗き込む。その視線から逃れるように、綾音は目を伏せ俯いた。
「あの時……。車が水に浸かって動けなくなった時……。真っ先に頭に思い浮かんだのは、蛍太さんでした」
「だからそれは……」
「そのあと、蛍太さんのアパートに行って」
綾音が言葉を詰まらせる。
「まさか……」
須藤がはっと息を呑む。須藤の手の中で、パンフレットがグシャリと鈍い音を立てた。
「抱かれました。彼に」
喉の奥から、綾音が声を絞り出す。伏せた目から、涙がするりと頬を伝って流れ落ちた。
「私はもう、先生が知ってる頃の純真無垢な少女じゃありません。付き合っている人がいながら他の男性の部屋に平気で上がり込むような、卑しい女なんです」
すみません、と綾音は両手で顔を覆う。指の隙間から、押し殺したような嗚咽が小さく漏れてきた。
コーヒーメーカーのノズルから吐き出されたお湯が、コーヒー豆に染み込んでいく。
部屋中に、香ばしい匂いが立ち込めた。
「付き合うのか? 彼と」
強張った声で、須藤が訊く。
綾音は顔を覆ったまま、首だけを横に振って答えた。
「それなら別にいいじゃないか」
「えっ?」
勢いよく、綾音が顔を上げる。
「彼と付き合う予定がないのであれば、俺たちが別れる必要はないだろう?」
瞳に鋭い光を蓄えたまま、須藤は口の端を持ち上げた。
「なに……言って……?」
ぞくり、と綾音の全身が泡立つ。後ろに引いた足が、コツンと掃き出し窓の縁に当たった。
「例え付き合えなくても、私は蛍太さんが好きなんです。こんな気持ちのまま、先生と付き合っていくことはできません」
須藤を見つめ、綾音は何度も首を振った。
くくっ、と須藤が喉を鳴らす。
「だから?」
不気味に顔を歪め、須藤が目尻をいやらしく下げた。
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