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流される
疑惑
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綾音の車は、電気系統の損傷も激しかったため、修理は諦め廃車処分となった。
新車購入の手続き等、全てを川口モータースに任せ、納品までの間は代車を借りることにした。
「大変だったな」
事態を知った翌日、須藤は早めに仕事を切り上げ、喫茶わたゆきに顔を出した。
「はい。でも大丈夫です。川口モータースさんが全てやってくれましたから」
「川口モータース、ね……」
グラスの水を一気に飲み干すと、須藤は人差し指で眼鏡のブリッジを押さえた。
「連絡くれたら、すぐに駆けつけたのに」
恨みがましく、須藤が綾音を上目遣いでちらりと見やる。
「あ、すいません。咄嗟に、車屋さんならなんとかしてくれるんじゃないかって思ったから」
俯き加減で言い訳すると、綾音は須藤のグラスに水を注ぎ足した。
「車屋さんなら、か」
含みのある物言いに、綾音の全身に緊張が走る。
その言葉の裏に蛍太の存在があるような気がして、綾音は後ろめたい気持ちでいっぱいになった。
「あんま責めないでやってくださいよ」
定番のナポリタンを片手に、優吾が厨房から姿を現す。
「こいつ、かなりテンパってたみたいなんで」
須藤の前に皿を置くと、優吾は綾音の頭を乱暴にかき回した。
「ちょ、やめてよ」
優吾の手をぴしゃりと叩き、綾音は乱れた髪を整える。
「別に責めちゃいないけど」
フォークを手に取り、「ただね、寂しかっただけなんだよ。オジサンは」須藤は皮肉な笑みを浮かべた。
「寂しい?」
「ああ。彼女の一大事には、一番に駆けつけたいものなんだよ。男ってもんは」
ふうっと一つ溜息をつくと、須藤はスパゲティを口に入れた。
「そ、そうですよね。すいませんでした」
綾音は目を伏せ、首を垂れる。
「まあいいさ」
フォークにスパゲティを絡ませながら、「それより」須藤は話題を切り替えた。
「そろそろ予約しようと思うんだけど」
「予約って?」
かちゃりと音をさせてフォークを置くと、須藤は真っ直ぐ綾音を見つめた。
「タイだよ。いろいろ準備とかあるだろうから、早めに予約しとこうと思って」
「ああ……」
「取ったんだろ? パスポート」
「はい。でも……」
「でも?」
目線を下に彷徨わせ、綾音は言いにくそうに口ごもる。
「どうかしたのか?」
伺うように、須藤は綾音の顔を覗き込んだ。
「車の中に、落としたみたいで……」
「失くしたのか?」
「いえ。見つかりました。泥だらけになっちゃいましたけど」
すいません、と綾音は深く頭を下げた。
二人の間に沈黙が落ちる。
須藤の漏らした溜息が、周りの空気を重く揺らした。
「んなの、再発行してもらえばいいだろ?」
横から優吾が口を出す。
「まだ間に合うんだろ?」
確か十一月じゃなかったでしたっけ? 旅行、と優吾が須藤に確認した。
「それはまあ、そうなんだが……」
優吾に答えたあと、須藤は綾音に視線を移した。
「今日、仕事終わったら、少し話せないか?」
「今日……ですか?」
ちらりと綾音は優吾を見る。優吾が神妙な面持ちで、須藤と綾音を交互に見た。
「無理なら水曜でもいいけど。なるべく定時に上がるようにするから」
どうだ? と須藤は綾音に詰め寄った。
「あ、あの……」
思わず綾音は目を逸らす。
「いいっすよ」
頭上から、優吾のよく通る太い声が降ってきた。
「今日はもう店じまいするんで。どうせもう、お客さん来ないと思うし。話したいことあんなら、早い方がいいんじゃないすかね?」
「優吾」
「悪いね」
綾音の声を須藤がかき消す。
「じゃ、そうさせてもらうよ」
僅かに口の端を持ち上げると、須藤は再びスパゲティを食べ始めた。
新車購入の手続き等、全てを川口モータースに任せ、納品までの間は代車を借りることにした。
「大変だったな」
事態を知った翌日、須藤は早めに仕事を切り上げ、喫茶わたゆきに顔を出した。
「はい。でも大丈夫です。川口モータースさんが全てやってくれましたから」
「川口モータース、ね……」
グラスの水を一気に飲み干すと、須藤は人差し指で眼鏡のブリッジを押さえた。
「連絡くれたら、すぐに駆けつけたのに」
恨みがましく、須藤が綾音を上目遣いでちらりと見やる。
「あ、すいません。咄嗟に、車屋さんならなんとかしてくれるんじゃないかって思ったから」
俯き加減で言い訳すると、綾音は須藤のグラスに水を注ぎ足した。
「車屋さんなら、か」
含みのある物言いに、綾音の全身に緊張が走る。
その言葉の裏に蛍太の存在があるような気がして、綾音は後ろめたい気持ちでいっぱいになった。
「あんま責めないでやってくださいよ」
定番のナポリタンを片手に、優吾が厨房から姿を現す。
「こいつ、かなりテンパってたみたいなんで」
須藤の前に皿を置くと、優吾は綾音の頭を乱暴にかき回した。
「ちょ、やめてよ」
優吾の手をぴしゃりと叩き、綾音は乱れた髪を整える。
「別に責めちゃいないけど」
フォークを手に取り、「ただね、寂しかっただけなんだよ。オジサンは」須藤は皮肉な笑みを浮かべた。
「寂しい?」
「ああ。彼女の一大事には、一番に駆けつけたいものなんだよ。男ってもんは」
ふうっと一つ溜息をつくと、須藤はスパゲティを口に入れた。
「そ、そうですよね。すいませんでした」
綾音は目を伏せ、首を垂れる。
「まあいいさ」
フォークにスパゲティを絡ませながら、「それより」須藤は話題を切り替えた。
「そろそろ予約しようと思うんだけど」
「予約って?」
かちゃりと音をさせてフォークを置くと、須藤は真っ直ぐ綾音を見つめた。
「タイだよ。いろいろ準備とかあるだろうから、早めに予約しとこうと思って」
「ああ……」
「取ったんだろ? パスポート」
「はい。でも……」
「でも?」
目線を下に彷徨わせ、綾音は言いにくそうに口ごもる。
「どうかしたのか?」
伺うように、須藤は綾音の顔を覗き込んだ。
「車の中に、落としたみたいで……」
「失くしたのか?」
「いえ。見つかりました。泥だらけになっちゃいましたけど」
すいません、と綾音は深く頭を下げた。
二人の間に沈黙が落ちる。
須藤の漏らした溜息が、周りの空気を重く揺らした。
「んなの、再発行してもらえばいいだろ?」
横から優吾が口を出す。
「まだ間に合うんだろ?」
確か十一月じゃなかったでしたっけ? 旅行、と優吾が須藤に確認した。
「それはまあ、そうなんだが……」
優吾に答えたあと、須藤は綾音に視線を移した。
「今日、仕事終わったら、少し話せないか?」
「今日……ですか?」
ちらりと綾音は優吾を見る。優吾が神妙な面持ちで、須藤と綾音を交互に見た。
「無理なら水曜でもいいけど。なるべく定時に上がるようにするから」
どうだ? と須藤は綾音に詰め寄った。
「あ、あの……」
思わず綾音は目を逸らす。
「いいっすよ」
頭上から、優吾のよく通る太い声が降ってきた。
「今日はもう店じまいするんで。どうせもう、お客さん来ないと思うし。話したいことあんなら、早い方がいいんじゃないすかね?」
「優吾」
「悪いね」
綾音の声を須藤がかき消す。
「じゃ、そうさせてもらうよ」
僅かに口の端を持ち上げると、須藤は再びスパゲティを食べ始めた。
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