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混乱する気持ち
コムローイ祭り
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「知ってるか? コムローイ祭り」
「コムローイ……祭り?」
「チェンマイで、毎年十一月に開催される祭りだ」
「さあ……?」
わかりません、と綾音は首を振った。
自然と顔が強張る。嫌な緊張感を覚え、綾音はブールドネージュに伸ばしかけた手を引っ込めると、ごくりと喉を鳴らした。
「水の精霊に感謝するお祭りで……。見たことないかな? ランタンに願いを込めて空に飛ばすんだ」
須藤は右手をパッと上に広げてみせた。
「ああ」
「見たことあるだろ? テレビかなんかで」
あります、と綾音は小刻みに何度か頷いた。
「一度、見てみたいと思ってね」
「そう……ですか」
後ろに身を引き距離を取ろうとする綾音を追うように、須藤はテーブルに両肘をつくと、僅かに身体を乗り出した。
「行きたいんだ。お前と」
黒縁の眼鏡の奥で、須藤の瞳が切なげに揺れた。
「なんで……私と?」
やっとのことで、言葉を絞り出す。
喉の渇きを覚え、綾音はコーヒーを一口飲んだ。
「吹っ切りたいんだ。いろんなものを」
「吹っ切るって……?」
「今までの自分を」
「今までの……自分……」
「お前となら、吹っ切れる気がするんだ」
「なぜ……ですか?」
「同じだからだよ。お前も」
「……!」
綾音は短く息を呑んだ。
「俺は、今までの不甲斐ない自分を。お前は、いつまでも取り憑いている、皇の亡霊を」
「先生……」
目の前がぐにゃりと歪む。綾音は目を閉じ、大きく深呼吸をした。
最後に見た、まるで眠っているかのような皇の青白い顔が、瞼の裏に蘇る。綾音は慌てて瞳を開いた。
「でも……。私のせいで、皇は……」
「お前のせいじゃない!」
須藤の声に、一瞬だけ周りの喧騒が消える。その後、すぐに何事もなかったかのように、再び時間が動き出した。
「もういいじゃないか。十分苦しんだんだ。皇だって、いつまでも縛られたままじゃ可哀想だろ?」
周囲に気を配りながら、須藤は声をひそめる。
「俺と一緒に、空に送ってやらないか?」
な? と須藤が、今にも泣き出しそうな顔で、綾音を見つめた。
須藤の言葉が胸に染み込む。
綾音だって、わかっているのだ。
いつまでも、このままではいけないと。
だけど、今度の誘いは、コンサートや食事に行くのとは訳が違う。それくらいの分別がつかないほど、綾音はもう子どもではない。
須藤にとって綾音はもう、単なる元教え子ではないのだ。
「俺とじゃ、嫌か?」
心の中を見透かされ、綾音は「えっ?」と顔を上げる。
じっと綾音を見つめたあと、須藤は視線を窓の外へと流した。
夕日は既に海の彼方へと姿を消し、ぼんやりとその残像を水平線に残すばかりだった。
「コムローイ……祭り?」
「チェンマイで、毎年十一月に開催される祭りだ」
「さあ……?」
わかりません、と綾音は首を振った。
自然と顔が強張る。嫌な緊張感を覚え、綾音はブールドネージュに伸ばしかけた手を引っ込めると、ごくりと喉を鳴らした。
「水の精霊に感謝するお祭りで……。見たことないかな? ランタンに願いを込めて空に飛ばすんだ」
須藤は右手をパッと上に広げてみせた。
「ああ」
「見たことあるだろ? テレビかなんかで」
あります、と綾音は小刻みに何度か頷いた。
「一度、見てみたいと思ってね」
「そう……ですか」
後ろに身を引き距離を取ろうとする綾音を追うように、須藤はテーブルに両肘をつくと、僅かに身体を乗り出した。
「行きたいんだ。お前と」
黒縁の眼鏡の奥で、須藤の瞳が切なげに揺れた。
「なんで……私と?」
やっとのことで、言葉を絞り出す。
喉の渇きを覚え、綾音はコーヒーを一口飲んだ。
「吹っ切りたいんだ。いろんなものを」
「吹っ切るって……?」
「今までの自分を」
「今までの……自分……」
「お前となら、吹っ切れる気がするんだ」
「なぜ……ですか?」
「同じだからだよ。お前も」
「……!」
綾音は短く息を呑んだ。
「俺は、今までの不甲斐ない自分を。お前は、いつまでも取り憑いている、皇の亡霊を」
「先生……」
目の前がぐにゃりと歪む。綾音は目を閉じ、大きく深呼吸をした。
最後に見た、まるで眠っているかのような皇の青白い顔が、瞼の裏に蘇る。綾音は慌てて瞳を開いた。
「でも……。私のせいで、皇は……」
「お前のせいじゃない!」
須藤の声に、一瞬だけ周りの喧騒が消える。その後、すぐに何事もなかったかのように、再び時間が動き出した。
「もういいじゃないか。十分苦しんだんだ。皇だって、いつまでも縛られたままじゃ可哀想だろ?」
周囲に気を配りながら、須藤は声をひそめる。
「俺と一緒に、空に送ってやらないか?」
な? と須藤が、今にも泣き出しそうな顔で、綾音を見つめた。
須藤の言葉が胸に染み込む。
綾音だって、わかっているのだ。
いつまでも、このままではいけないと。
だけど、今度の誘いは、コンサートや食事に行くのとは訳が違う。それくらいの分別がつかないほど、綾音はもう子どもではない。
須藤にとって綾音はもう、単なる元教え子ではないのだ。
「俺とじゃ、嫌か?」
心の中を見透かされ、綾音は「えっ?」と顔を上げる。
じっと綾音を見つめたあと、須藤は視線を窓の外へと流した。
夕日は既に海の彼方へと姿を消し、ぼんやりとその残像を水平線に残すばかりだった。
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