30 / 86
蛍の光に包まれて
抱きしめられて
しおりを挟む「北海道かぁ……」
蛍太の笑いがおさまった頃、綾音がぽつり呟いた。
「遠いなぁ」
「雪虫ですか?」
蛍太が訊く。
「そう。雪虫。見たいけど、北海道はなかなか行けないなぁと思って」
残念そうに、綾音は一つ溜息をついた。
「大丈夫ですよ。運が良ければ、新潟でも見られます」
「えっ? ほんとに?」
身体ごと蛍太の方を向くと、綾音は僅かに前のめりになった。
「いるみたいですよ。湯沢とか。かなり希少みたいですけど」
「湯沢!?」
「はい。前に従兄が写真見せてくれました」
従兄の家、昔湯沢でペンションやってたんで、と蛍太が得意げに口角を上げた。
「え、見たい! 今度連れてってください!」
「えっ?」
「あ……」
言ってから、綾音は気づく。これじゃあまるで、デートのお誘いみたいじゃないか。
「いえ、あの……」
ドギマギする綾音に、「行ってくればいいじゃないですか」抑揚のない声で蛍太が言った。
「え?」
「あの先生……。高校の時、担任だった……」
綾音の胸が、どくんと脈打つ。
「須藤……先生?」
「そう。須藤先生。綾音さんが誘ったら、きっと喜びますよ」
蛍太がにっこり微笑んだ。
「蛍太さん……」
鈍い痛みが、全身を駆け巡る。そっと目を伏せ、綾音は下唇を噛んだ。
「付き合うんですか? 須藤先生と」
「な……んで?」
「だって、コンサートに誘われてたじゃないですか。それって、そういう意味なんじゃないですか?」
「それは……」
綾音は思わず口ごもる。別れ際に向けられた須藤の眼差しは、単なる教え子を見つめるそれとは違う熱を帯びていた。
確かにあれは、女を見る瞳だった……。
「もしかして、当たっちゃいました?」
急に黙り込んでしまった綾音に、おちゃらけた風に蛍太が訊く。
ちらりと蛍太を見やったあと、綾音は力なく俯いた。
「誘われました。今度の土曜日、食事に……」
え、と短く発したあと、「やっぱり……」蛍太は深く息をついた。
「でも私……」
「いいんじゃないですか?」
「えっ?」
勢いよく、綾音が顔を上げる。視線の先に、薄く笑った蛍太の横顔があった。
「須藤先生、大人だし」
「なに言って……」
「きっと、大事にしてくれますよ」
「私は……っ!」
慌てて身体を蛍太に向ける。
その刹那。
綾音の足をぬかるんだ川べりの土がさらった。
「きゃっ!」
身体が大きく傾く。
「危ないっ!」
その腕を蛍太が掴んだ。
綾音の手から滑り落ちた懐中電灯が、ポチャンと音を立てて小川に沈んだ。
「あ! 懐中電灯!」
綾音が小川を覗き込む。
「だから危ないって!」
掴んだ腕を強く引くと、蛍太は綾音を抱き寄せた。
「けい……」
綾音の頬に、筋肉質の胸が触れる。真っ白なTシャツから、ほのかに洗剤の香りがした。
「あの……」
両手をつき離れようとする綾音の身体を、蛍太が強引に引き留めた。
「ちょっ……!」
ぴたりと押し付けられた綾音の頬を、蛍太の鼓動が激しく叩く。
「蛍太……さん?」
状況を呑み込めないまま、綾音は目の前のTシャツをきつく握りしめた。
「あ……」
慌てて蛍太が身体を離す。
「そこ、滑るから気をつけてください」
顔を逸らすと、ぶっきらぼうに蛍太が言った。
「あ、ありがとう」
そっと両手を離し、綾音はぎこちなく頭を下げた。
「懐中電灯はもう無理ですね」
小川に目を向け、蛍太が残念そうに溜息をつく。
「はい」
掠れた声で、綾音は答えた。
鼓動が早鐘のように打ちつける。呼吸が苦しくなり、綾音は両手で胸を押さえた。
「そろそろ戻りますか?」
蛍太が空を仰ぐ。雲の薄れたところから、月明かりがほのかに滲んだ。
「そうですね」
定まらない目線で蛍を追いかけながら、綾音は小さく頷いた。
帰り道、二人は終始無言だった。
口を開いてしまったらきっと、叶わぬ想いが溢れ出してしまう。
とどめを刺されるのが怖くて、綾音は必死で気持ちを奥底に押し込んだ。
雲の切れ間から顔を覗かせた半月が、二人の足元をうつろに照らす。
ぼんやりとした月明かりの中、綾音の視界がゆらりと揺れた……。
0
お気に入りに追加
23
あなたにおすすめの小説
ずぶ濡れで帰ったら彼氏が浮気してました
宵闇 月
恋愛
突然の雨にずぶ濡れになって帰ったら彼氏が知らない女の子とお風呂に入ってました。
ーーそれではお幸せに。
以前書いていたお話です。
投稿するか悩んでそのままにしていたお話ですが、折角書いたのでやはり投稿しようかと…
十話完結で既に書き終えてます。
夫の不貞現場を目撃してしまいました
秋月乃衣
恋愛
伯爵夫人ミレーユは、夫との間に子供が授からないまま、閨を共にしなくなって一年。
何故か夫から閨を拒否されてしまっているが、理由が分からない。
そんな時に夜会中の庭園で、夫と未亡人のマデリーンが、情事に耽っている場面を目撃してしまう。
なろう様でも掲載しております。
自信家CEOは花嫁を略奪する
朝陽ゆりね
恋愛
「あなたとは、一夜限りの関係です」
そのはずだったのに、
そう言ったはずなのに――
私には婚約者がいて、あなたと交際することはできない。
それにあなたは特定の女とはつきあわないのでしょ?
だったら、なぜ?
お願いだからもうかまわないで――
松坂和眞は特定の相手とは交際しないと宣言し、言い寄る女と一時を愉しむ男だ。
だが、経営者としての手腕は世間に広く知られている。
璃桜はそんな和眞に憧れて入社したが、親からもらった自由な時間は3年だった。
そしてその期間が来てしまった。
半年後、親が決めた相手と結婚する。
退職する前日、和眞を誘惑する決意をし、成功するが――
運命の番?棄てたのは貴方です
ひよこ1号
恋愛
竜人族の侯爵令嬢エデュラには愛する番が居た。二人は幼い頃に出会い、婚約していたが、番である第一王子エリンギルは、新たに番と名乗り出たリリアーデと婚約する。邪魔になったエデュラとの婚約を解消し、番を引き裂いた大罪人として追放するが……。一方で幼い頃に出会った侯爵令嬢を忘れられない帝国の皇子は、男爵令息と身分を偽り竜人国へと留学していた。
番との運命の出会いと別離の物語。番でない人々の貫く愛。
※自己設定満載ですので気を付けてください。
※性描写はないですが、一線を越える個所もあります
※多少の残酷表現あります。
以上2点からセルフレイティング
仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが
ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。
定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない
そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる