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フルートアンサンブル
変わり始める関係
しおりを挟む「あの……」
窓の外を流れるビルの波が途切れた頃。消え入るような綾音の声が、二人の間の沈黙を静かに破った。
「なんで……離婚……」
「へっ?」
素っ頓狂な須藤の声とともに、ハンドルが左右にブレる。
「お前……」
慌てて車を立て直すと、「唐突だな」須藤は口の端を僅かに持ち上げ、強張った笑みを浮かべた。
「すいません」
背中を丸め、綾音が俯く。
「いや」
須藤は小さく首を振った。
前を走る車のブレーキランプが、信号の赤と重なる。ゆっくり停車すると、須藤はふうっと息を吐いた。
「俺の……せいなんだ」
「え?」
「一番大変な時に、側にいてやれなかった」
「先生……」
切なげに揺れる綾音の瞳の中で、須藤はぼんやりと前を見つめたまま、ひと言ひと言吐き出した。
「産後鬱っていうの? 慣れない子育てで、妻は心身ともに疲れ切っていたんだ。それなのに俺は、仕事にかまけて家事も育児も任せっきりで……。結局妻は、子どもを連れて実家に帰り、それっきり戻って来なかった」
「そんな……」
「娘が三歳になる年に、正式に離婚したんだ」
信号が青になる。須藤はゆっくり、車を発進させた。
カーオーディオから、最近よく耳にする流行りのポップスが流れてくる。その、英語とも日本語ともつかないような歌詞の上に、「それって……」綾音の掠れた声が、まるで不協和音のように重なった。
「私のせい……ですか?」
「えっ?」
須藤の目が素早く助手席に向けられたあと、すぐに前方へと戻った。
「なに言って……」
「私が、先生の時間を奪ったから……」
「違う!」
素早くウインカーを上げ、須藤が路肩に停車する。
「お前のせいじゃない」
怒ったように言うと、須藤はギアをパーキングに入れ、ハザードランプを点滅させた。
「だけど……」
「これは夫婦の問題だ。俺が仕事と家庭をうまく両立できなかったのが原因なんだ。全ては、俺の不甲斐なさが招いた結果だ」
「でも……」
「それに……」
ふっと瞳を緩めると、須藤は穏やかに言葉を繋いだ。
「彼女はもう、新しい人生を歩んでる。俺とは正反対の、家庭的で理解のある人だそうだ。かえって良かったんじゃないのか? 無理して俺なんかといるより」
「そう……なんですか?」
「ああ。だからお前が気に病む必要は、これっぽっちもない」
もう終わったことだ、と自分に言い聞かせるように呟くと、須藤は再び車を発進させた。
住宅街を抜けた車は、土手沿いの道を走り抜け、暗闇に沈む農道へと差し掛かる。
夜も深まる田舎道には、すれ違う車も数えるくらいしかない。
時折来る対向車のヘッドライトに浮かぶ須藤の横顔には、いつもの柔らかい笑みはなく、どこか寂しそうなくすんだ瞳が、黒縁眼鏡の奥で揺れていた。
なんとなく声をかけるのがためらわれ、綾音は助手席のシートに身を沈めた。
ぼんやり眺める視界の向こうに、蛍太と初めて出会った場所が見えてきた。
綾音の脳裏に、あの日の光景が蘇る。
車体を覗き込む真剣な眼差し。捲られた袖から伸びる筋張った腕。少し日に焼けた弾ける笑顔……。
その顔が、スパゲティの皿を見つめる横顔と重なる。
須藤からコンサートに誘われた時、不自然に逸らされた視線。あの時蛍太は、何を思った……?
「到着」
須藤の声で我にかえる。
いつしか車は、自宅前に着いていた。
駐車場の奥に一台、見慣れない車が停まっている。今夜は一組の予約が入っていたから、その客のものだろう。
ダイニングルームで寛いでいるのか、日本庭園の向こうの掃き出し窓からは、灯りが明々と漏れている。
一方の喫茶わたゆきには既に人の気配はなく、ひっそりと静まりかえっていた。
「今日はありがとな」
「いえ」
向けられた須藤の瞳に、今までとは明らかに違う色が混ざっているのを感じ、綾音は思わず視線を逸らし下を向いた。
「それじゃ、また。おやすみなさい」
軽くお辞儀をして、綾音は助手席のドアを開けた。
「おやすみ」
その背に、須藤が声をかける。
綾音がドアを閉めると同時に、助手席側の窓が下りた。
「来週、食事にでも行こう」
助手席に手をつき、須藤が綾音を見上げる。
「いや、でも……」
「言ったろ? 遠慮するなって」
「そういうことじゃなくて……」
眉尻を下げ、綾音は言葉を濁した。
「今日と同じ時間に迎えに来るから」
須藤が早口で捲し立てる。
「え? あの……」
「それじゃ。また来週」
「ちょっ……! 先生!」
運転席に座り直すと、須藤は助手席の窓を上げた。
軽く左手を上げ、須藤が車を発進させる。
「待っ……!」
遠ざかるテールランプを見つめながら、綾音は呆然と立ち尽くした。
梅雨時特有の湿った草の匂いが、綾音の身体にべたりと重くまとわりついた。
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