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近づく距離
予期せぬドライブ
しおりを挟む水曜日は、あいにくの天気だった。
朝から降ったり止んだりを繰り返していた雨は、夕方には本格的に降り出し、買い物帰りの綾音の車を容赦なく叩いた。
「すごい雨……」
うんざりしながら、独りごちる。
美容院のあとで立ち寄ったショッピングモールで、思いの外時間を食ってしまったようだ。早く切り上げれば良かったと後悔する。
忙しなく左右に動くワイパーの向こうで、信号の赤いランプが大きく滲んだ。
ゆっくりブレーキを踏み込み停車する。ふと歩道に目を向けると、雨で歪む視界の先に、信号待ちをする男性の姿があった。
綾音は思わず息を呑んだ。
見覚えのあるグレーの繋ぎ。
黒い傘が角度を変え、その下から彫りの深い印象的な大きな瞳が現れた。
無意識にウインカーレバーを上げる。
左折を示すランプが点滅した途端、綾音は突如我に返った。
自分は一体、何をしようとしているのか?
徐々に高まる胸の鼓動を感じ、綾音は恥ずかしさに頬を染めた。
やはりこのまま通り過ぎようとウインカーレバーに手をかけたその刹那、フロントガラスが赤から青に染まった。
横断歩道を渡り始めた男性の目が、フロントガラス越しに綾音を捉える。その口が、『あ』の形に大きく開いた。
途端に心臓が跳ね上がる。
嬉しそうにこちらを見ながら横断するその男性を見送ったあと、綾音は導かれるように、ゆっくりハンドルを左に回した。
少し進んで停車する。そこへ間もなく、ところどころ雨に濡れたグレーの繋ぎが駆け寄ってきた。
「高梨さん!」
開けられた助手席の窓から、大きな瞳を輝かせた蛍太の笑顔が覗き込んだ。
「こんな所で何を……」
「髪切ったんですね」
二人の声が重なる。ぷっと同時に笑いがこぼれた。
「ああ、美容院に行ってきて……」
短くなった髪に手を当て、今日休みだったんで、と綾音は伏し目がちに笑った。
「いいですね」
「えっ?」
思わず顔を上げる。
「すごい似合ってます」
「そ、そうですか?」
澄んだ大きな瞳に見つめられ、綾音の胸が再びうるさく騒ぎ出す。
ありがとうございます、と綾音はぎこちなく頭を下げた。
「えっと……。ナン……。ナン……。あれ?」
「ナン?」
「なん……でしたっけ? 苗字」
「はい?」
蛍太の瞳が丸く開く。突然、背後でけたたましいクラクションの音が鳴り響いた。
ビクリと肩を強張らせた綾音の横を、白い乗用車がクラクションを鳴らしながら猛スピードで追い越していく。
「乗ってください」
咄嗟に綾音は蛍太に声をかけた。
「へっ?」
「とりあえず乗ってください。ここにいると邪魔になるので」
ああ、と蛍太は後ろを見やると、「それじゃ」と素早く傘をすぼめ、助手席に身体を滑り込ませた。
蛍太がシートベルトをするのを見届けてから、綾音は助手席側の窓を閉め、車をゆっくり発進させた。
「南條です」
「へっ?」
「苗字。南條ですよ」
南條さん! と声を弾ませ、スッキリした顔で綾音が蛍太の方を見る。前見てください! と蛍太が慌てて前方を指差した。
すみません、と肩をすくめ、綾音は前に向き直った。
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