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紫雲の願い

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 美空は紫雲の胸にそっと手を当てると、ゆっくり身体を起こした。
 紫雲のぬくもりが遠ざかる。涙で濡れた頬が、次第に冷たくなっていくのを感じた。

「美空さん?」
 不安そうに、紫雲が美空の顔を覗き込んだ。
「駄目だよ。そんなこと、できるわけない」
「なんで? 俺じゃ……駄目?」
「そういう事じゃなくて」
 美空は俯き、首を振った。
「私は、晴斗さんを裏切った」
「裏切った?」
「そう。自分の気持ちに気付いた時からずっと……」
「それって……」
 紫雲の瞳が僅かに輝く。美空の両腕を掴む手に、力がこもった。
「でもそれは、決してゆるされないことだった。その結果、二人を酷く傷つけた。大切な親子の絆も引き裂いてしまった。全部……私のせい……」
「美空さんのせいじゃ……」
「それに……」
 美空は紫雲の頬に手を当てた。ピクリと身体を震わせた後、紫雲は潤んだ瞳で美空を見つめた。

「紫雲君、先生になるんでしょ? だったら、晴斗さんの援助がなければ……」
「それなら大学なんて行かない。先生になんてならなくてもいい。美空さんといられるなら、俺は働いたって構わない。もう二度と失いたくないんだ。美空さんを……」
「駄目! こんな事で、人生を棒に振らないで!」
「こんな事って……!」
 訴えるように、紫雲が美空の身体を小さく揺さぶる。もどかしそうに、紫雲が顔を歪ませた。
 美空は、危うく折れてしまいそうになる気持ちを奮い立たせ、覚悟を決めて紫雲を見据えた。
「私は、そこまでの責任は負えない……」
「美空さん……」
 一瞬大きく瞳を見開いたあと、紫雲は悲しそうに唇を噛んだ。

「紫雲君」
 零れ落ちる紫雲の涙を親指で拭いながら、美空はふっと笑みを浮かべた。
「あなたと私は、同じ未来を歩くことはできないの。あなたの未来は、これからどんどん広がっていく。その広い世界に、私はいないの……」
 紫雲は何度も首を振った。
「お願い、わかって。あなたと私の世界は、決して交わることはない」
 違う答えを捜すかのように、紫雲の瞳が忙しなく動く。
 ここで受け入れてしまったら、紫雲の将来を台無しにしてしまう。これ以上、紫雲の世界をけがすわけにはいかない。
 美空はその瞳に、揺るぎない意志を込めた。
「あなたには、あなただけの人生がある。私に、私だけの人生があるように……。これ以上踏み込んでしまったら、きっともっと、いろんな人を傷つけてしまう」
 一旦言葉を切ると、美空は大きく息を吸った。それをゆっくり吐き出すと、最後の言葉を静かに紡いだ。

「だから、ここで終わりにしよ? お互いの未来の為に……」

 紫雲が小さく息を呑んだ。戸惑う瞳が、涙を蓄え小刻みに動く。
 張り裂けそうな胸の痛みをこらえ、美空は目の前の愛しい顔を見つめた。
 真っ直ぐ向けられた瞳の中に、幼き頃の紫雲の姿が重なったその瞬間、美空の目から涙が零れた。
 一瞬、ハッとした表情を浮かべた後、紫雲が懐かしそうに目を細めた。
 紫雲もきっと、思い出しているのだろう。満開に咲き誇る、シロツメクサのあの丘を。

 二人の間を、幾つもの想いが通り抜けていく。
 長い時間、声なき言葉を交わした後、「……わかった」諦めたように呟くと、紫雲は力なく息を吐いた。

 これで、全てが終わるのだ。
 美空は、長い夢を見ていたような錯覚を覚えた。
 切なくも幸せな、甘い夢……。
 その夢に終止符を打とうと、美空が口を開きかけた時、一足早く、紫雲の唇が動いた。

「最後に……」
 紫雲はそう言うと、頬に置かれた美空の右手に、そっと自分の左手を重ねた。
「最後に……、一つだけ……、我儘、聞いてくれる?」
 たどたどしい言葉で、紫雲はひと言ひと言吐き出した。
「何?」
 不思議そうに見つめる美空を、真正面から紫雲が捉える。
 美空の右手をギュッと掴むと、紫雲は意を決したように口を開いた。

「一日でいい……。たった一日でいいから……、美空さんの時間を、俺に、ちょうだい」
「私の……時間を……?」
「そう。合格祝いに……。二十四時間だけでいいから……。美空さんの人生を、俺に……ください……」

 すがるような大きな瞳から、涙がポロポロ零れ落ちた。
 熱い想いが、美空の右手を濡らしていく。
 紫雲の愛が、美空の理性を鈍らせる。

 美空には、その手を振りほどくことなどできなかった。
「……わかった」
 美空はゆっくり、頷いた……。

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