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背徳の代償

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 脳には異常が見られないことから、紫雲の症状は、心因性記憶障害と診断された。
 心因性記憶障害は、精神的なストレス等によって記憶が失われてしまう障害で、不快な出来事や、特定の人物を思い出せなくなることが多いという。
 人によっては数日で治る場合もあるが、たいていは、長期に渡って持続するらしい。

「きっと、あんなことがあったから……」
 晴斗が両手で顔を覆い、深く息を吐いた。
 美空に関する記憶だけが抜け落ちていることから、晴斗は、日頃の受験のストレスに、先日あった不可解な電話に対するショックが重なったものだと考えているようだ。
「あんなに叱ったりしなければ良かった……」
 俺のせいだと責める晴斗に、美空は居たたまれない気持ちになった。

 紫雲は、美空のアパートから帰る途中で事故に遭った。あの時の紫雲の精神状態は、明らかに極限状態だった。美空の記憶だけを失ったのはそのせいだ。若干十八歳の少年には、抱えきれない程の辛い出来事だったのだろう。

 しかし、今ここで真実を告げたら、晴斗の心はきっと壊れてしまうだろう。今の晴斗は、残酷すぎるこの現実を受け止められる状態ではない。
 罪の意識に苛まれたまま、美空は独り帰路に着いた。



 とても仕事に行く気にはなれなかったが、一人で部屋に閉じ籠っていても、ますます気分が落ち込むだけだ。かと言って、記憶のない紫雲と何も知らない晴斗の間で一日を過ごす勇気はない。
 重い身体を引きずりながら、美空はとりあえず出勤した。
 念のため園長には、紫雲が事故に遭って記憶が混乱している事だけ報告した。
「心配ね」
 悲しそうな表情を浮かべる園長に曖昧な返事を返すと、美空は保育室へと向かった。

「大丈夫?」
 ドアに手を掛けたところで、背後から恵令奈に呼び止められた。
「顔、死んでるよ」
「そ、そう?」
 美空は片手で顔を撫でた。
「また飲みにでも行く? 話聞くよ?」
 エアーでグラスを傾けながら、恵令奈がにやりと笑った。
「発表会も終わったことだしさ。パーッと行こうよ。哲太先生も誘ってさ」
「哲太先生か……」
 哲太とは、紫雲の看病に行く行かないで揉めてからというもの、ろくに口も利いていない。仕事上での事務的な会話をするだけだ。
 視線を落とすと、美空は盛大に溜息を吐いた。

「え? まさか、最近様子がおかしいのってそっち?」
「そっちって?」
「だからぁ……」
 恵令奈が、美空の耳に口を寄せた。
「もしかして、使っちゃったの? ジョーカー」
「ち、違っ……!」
「邪魔」
「へっ?」
 二人の視線が同時に下がる。そこには、迷惑そうな顔をしたぞう組の男の子が立っていた。
「部屋、入りたいんだけど」
「あ、勇志君。おはよう」
「おはよう。てか、どいてくんない?」
「あ、ああ。ごめんね」
 美空と恵令奈は揃って頭を下げると、脇へけた。

「恵令奈先生おはよう!」
「あ、おはよう。和葉ちゃん」
 登園時間を過ぎ、子どもたちが次々とやってくる。
「じゃ、この話はまた後で」
 右手を上げると、「みんなぁ! おっはよう!」恵令奈は元気よくきりん組へと消えて行った。

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