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第1話 入学編1 サークル決めは無理だ!

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 天瀬紬あまがせつむぎはどちらかというと恵まれた学生である。入学手続きを済ませた後に、親にスマートフォンとパソコンを買ってもらった。それは紬の親友の糸織奏太いとおりかなたもそうだったらしい。
 スマホを手に入れてからというもの、紬はもっぱら奏太とばかりLINEをしている。他には高校同期数人のグループがあるくらいだ。だがそれでいい。スマホ上で気軽に友人と共有する時間も良いものだが、友人と現実で対面して深い経験を共有する時間も読書に勤しむ時間も紬にとっては良いものなのだ。そもそも紬には友人が少ないので、今の時点ではSNSなどあまり必要でないものだ。
 特に思い出に残ることもなく、オリエンテーションの日がやってきた。

ー2016年3月30日 20時

 紬は奏太と横浜でご飯を食っている。今日のオリエンテーションの感想を言い合っているのだ。
「奏太、入るサークル決めた?」
「俺は決めたよ。ピアノ同好会に入るんだ。紬はサークル勧誘で決めるって言ってたよね、どうだった?」
「これはモテ期だよ。MOZOTOWNで買ったカーディを可愛い女子大生に褒められるとかもう一生ない。さよなら僕の青春」
「何があったの…俺は元からピアノ同好会に入るって決めてたからな。サークル勧誘の人混みが嫌だったからすぐに退場したよ」
 一体紬たちに何が起こったのか。それは昼まで遡る。

ー2016年3月30日 12時
「それでは、オリエンテーションを終わります。」
 履修やトラブルについての全員向けオリエンテーションが終わった。奏太とは別の教室になってしまったらしくて一人で黙々と聞いていたが、現在は一人でも問題ないような仕組みであるみたいで安堵した。紬は、友人は少ないのに一人で物事を行うのは苦手であることを自覚しているのだ。
 それにしてもシラバスと履修の手引き本を見ると、改めてこの大学の必修科目の多さに辟易としてくる。信じられないことに、理系に入学したのに英語、第二外国語の必修講義が複数あるのだ。解せぬ。人生の夏休みとは何か。
 シラバスを眺めながら、しかし他人に話しかける勇気もなく流れに従う形でのろのろと歩いて行くと、建物の出口あたりでチラシをまさに地面に落とさんとする人を見かけた。特に理由はないが、拾おうと思いその人に近づく。落としたのもきっとサークル勧誘の大学生だろう。声をかけた。
「あの、すいません。チラシ、落としましたよ。」
「あら、ありがとう。新入生かな?」
 勧誘に巻き込まれる予感がしたので、彼女との会話を終わらせることを試みた。
「はい。お手洗いはどこか教えていただいてもよろしいですか?」
「ははは、礼儀正しいね。男子トイレはここだよ。あと、これうちのチラシ。また後で説明するね。いってらっしゃい」
 また後で、だと?教えてもらったトイレの場所は手前側にあり、なるほど外に出るにはお姉さんのところを再び通らなけらばならない。なんと狡猾な。こんなサークル入るものか。それでもチラシに一瞥をくれてやると「オールラウンドサークル」と書かれていた。絶対入らん。人種が違う。
 トイレから出ると先ほどのお姉さんが待ち伏せしていた。チラシを落としたお姉さんと呼ぶのも面倒なので、今後学生生活で関わらないことを祈り、脳内でAと呼ぶことに決めた。A子さんの視線は紬を捉えて離さない。
「君、お洒落だね。ここの大学でその服はモテるよ」
 そう言ってA子さんは紬が着ている緑色のカーディガンのボタンをベタベタ触る。この人、顔と香りはいいだけたちが悪い。言葉遣いも正直グッとくるので心臓に悪い。早くこの場を退きたい。
「お手洗いから出てきた人間を触るのは不衛生ですよ。用事があるので失礼します」
「まったまた~。どこに行くべきか分かるの?大学に入ってやりたいことはある?行くべきところ教えてあげる。」
「音楽系のサークルに入りたいです。合唱とか興味あります」
 これは本心である。何かを表現したいが、派手すぎないのが性に合っているのだ。友人もできそうである。
「わかった。サークル勧誘は長いぞー。私たちの次にあるのが運動部で、その次に音楽部があるよ。君の体型だと運動部から逃げるのは無理だろうから頑張ってね。」
 そう言われてA子さんに連れられてサークル勧誘の次の順路を見たが、唖然とした。サークルが多すぎて無限に続いているように見える。一体何個サークルあるんだろう、100は優に超えている気がする。サークル勧誘ってどれぐらい時間かかるんだろう…お昼ご飯食べたいな…。
 そう考えていると、A子さんが言葉を足してきた。
「ちなみに、私も合唱系のサークル入ってるよ。椎木合唱団しいのきがっしょうだんってところ。よければブースで説明聞いていってね。はい、これが私の名刺。」
 この言葉を聞いた時点で、紬はA子さんとは先ほどの紬の祈りとは裏腹に、大学生活で関わることになるだろうなと予感した。
「そんな個人情報が載っているものを僕に渡しちゃっていいのでしょうか」
「いいなーと思う人にしか渡さないよ。わかったら、無くさないでね」
 寒気がした。男心をつかむ術をよくわかっていらっしゃる。グッと来なくもない、いや正直言うとグッと来た。
 渡された名刺のA子さんの名前欄を一瞥した。A子さんの名前は「鈴田雪穂すずたゆきほさん」だった。嘘だろ!?すごい夏っぽいのに。この感想は失礼だったか。すみません。この時はこの出会いが僕の大学生活を波乱万丈にするとは思ってもみなかったのだ。
 それから雪穂さんには回り方のコツを教えてもらい、出されるお菓子は食べまくってもいい、講義に関する質問はどんどんすべき、学内に合唱団が10個もあるから比較検討すべきなど有益なことを教えてもらった。
「ありがとうございます。重ねて検討します。失礼します。」
 それからというもの合唱団を中心に回り込んだ。椎木合唱団のブースではなんと雪穂さんがいた。いつの間に移動したんだろう。最終的には10の合唱団のパンフレットを胸に抱えてやっとサークル勧誘を抜け出した。時間は15時を回っていた。抜け出すのに3時間もかかったのか…
 その後は特に予定もなかったので横浜の自宅に帰宅し、奏太にどのサークルに入るのかをLINEしてみたら彼から晩飯に誘われたので快諾し、冒頭に至る。

ー2016年3月30日 20時
「俺はサークル勧誘の人混みが嫌だったからすぐに退場したよ」
「退場できるなんてよく知っていたね。賢いな」
 相槌とともに会話は無駄話へと移行したが、紬の頭の中には軽い疑念が残った。奏太はどこで、サークル紹介を途中退場できるという情報を入手したのだろうか。まあSNSなのだろう。紬もSNSを始めることとした。
 紬はサークル決めを四月の体験練習を通して行うことに結論づけた。

 その夜、僕は夢を見た。テストの答案用紙が帰ってくる。そこにはこう書かれていた。
「中国語 48点 落第」
 は?
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