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#201 心の痣
しおりを挟む🧶北久邇乃宮 葵丸(きたくにのみや あおいまる)
ぼくが、天王洲にある美術館で古文書(こもんじょ)をマイクロ撮影していたときのことをちょっと思い出したので、書いてみたいと思います。
作業は、その美術館の地下で行いました。
事前の打ち合わせで、キュレーターの方から作業場所を聞いていましたが、地下駐車場でもなく、半地下にある不思議な空間でした。
その半地下の、コンクリート打ちっ放しの異様な一角に黒幕を張って、撮影をしたのです。
ぼくは油絵が趣味なので、こんな風に広いアトリエがあれば最高だななんて思いながら、撮影の準備を進めました。
そして、そこに彼女がいたのでした。事前にキュレーターのアシスタントの方が、担当されると聞いてはいましたが、モデルかなと思うくらい、驚くほどの美人さんでした。
「はじめまして。今回の古文書担当の勅使河原(てしがわら)ケイトです」
彼女は、目を瞠る(みはる)ほどの美貌の持ち主でしたから、撮影が終わるまでの3ヶ月間、彼女の笑顔を毎日見れるという、楽しみが増えました。
ただ、そんな彼女にも、玉に瑕(きず)というのでしょうか、その美しい顔には、痣がありました。
はじめてその痣(あざ)を見たときには、なぜか、どきどきしましたが、女性で、しかも顔に痣があるなんてほんとうにかわいそうだと思った事をよく憶えています。
話をしていて失礼だとは思いながらも、ぼくはどうしても彼女の顔にある痣から視線をそらすことができませんでした。
それは、彼女の圧倒的な美から少しでも目を逸らしたいと、無意識のうちにやっていたのかもしれません。
単に彼女の眸を気恥ずかしくて、まっすぐ見つめられなかった、というのがいちばん近いでしょうが、彼女の眸を見つめているだけで、吸い込まれてしまいそうで、つまり、恋がはじまってしまうのを、自発的に警戒していたのだと思うのです。
美しい可憐な花に、恋心が芽生えそうになるのを、痣を見ることによって、その、のぼせ上がったマシュマロみたいな頭を一気に冷やすのです。
仕事は、御多分に洩れず長い間空気に触れていない虫喰いだらけの古文書の撮影ですので、貼り付いている頁を一枚一枚丁寧に剥がしていかなければならないという気が遠くなるほどの細かい作業で、撮影は遅々としていました。
そんなある日。作業を終えて帰ろうとしていると、唐突に彼女がやって来て、ぼくに、ちょっとしたご提案なんですけど、お話があるので、お時間つくっていただけませんか、と言うのです。これにはたまげました。
お昼にランチをたまたま一緒に食べていた時にも、何か言いたげな表情をしているなとは思っていたのですが、そう言われた途端、まるでホラー映画を観ているような感じがしました。
それは、違和感ではなく、デペイズマンな異和感です。
そして、その刹那、ベッドの上で一糸纏わぬ生まれたままの姿になった彼女に、内臓はおろか骨ごとバリバリ捕食されている自分が脳裏に浮かんだのです。
束の間の空想から現実に戻ったぼくは、気を取り直すと、とりあえず、明日なら大丈夫ですと伝えることが精一杯でした。別に用事があったわけではないのですが、ワンクッションおいて気持ちを落ち着けてからと、思ったのでした。
そして、翌日、仕事を終えてから、ケイトさんとふたりで運河沿いに建つ、小洒落たカフェに入りました。
ドリンクを飲んでひと息つくと、ケイトさんは、いきなりとんでもない提案をしてきたのでした。
「あの、提案というか、お願いなのですけれど、単刀直入に申します、あの、私を抱いてもらえないでしょうか」
ぼくは、目を剥いて思わず絶句しました。
それからなんとか「え? はい?」と、答えたものの、マジに困ってしまいました。人助けだと思ってどうかお願いします。と彼女に懇願されればされるほど、タナボタの美味しい話やなぁ、というすけべ心よりも、怖いという感情が、どうしても募っていくのです。
「マジなんですか? 理由を教えてください」
ぼくは、やっと彼女にそう言いました。
「実は、私のこの痣は、以前にはもっともっと酷かったんです。顔だけでなく、首から胸にかけて一面の赤青い痣があったんです。
それであるとき、占い師のおばさんにみてもらったんです。そうしたら、あなたのその痣は、男の人に抱かれたら抱かれただけ綺麗になっていくでしょうといわれたんです。でも、その相手は恋人ではだめだともいうんですね」
「じゃあ、痣が小さくなったということは、言われたとおりにしてみたら本当に小さくなったということなんですか?」
「そうなんです。結果的にはそうなってしまったんです」
「結果的?」
「はい。むしろ私はそんな占いを信じてはいませんでしたから。抱かれるたびに痣が消えていく、なんて聞いたこともありませんから」
「で?」
「それで、そんな占いも忘れていたんですが、ひょんなことから行きずりの男の人と出会って......」
「旅行にでも、行かれたんですか?」
「そうなんです。京都にひとり旅して」
「なるほど。旅先で抱かれたんですね」
「は、はい」
「うーむ」
ぼくは、その生々しい昼メロ(死語)みたいな、あるいは『団地妻真昼の仏壇返し』みたいな、ポルノグラフィを思い浮かべて、再び絶句しました。
「まぁ。でも別に私がそう仕向けたわけでも誘ったわけでもありません。でも、むろん占いを信じたい気持ちも少なからず働いていたのは否めないかもしれませんけれど」
「それで、その後で気づいたら痣が少し消えていたということなんですね?」
「そうなんです。ほんとうにびっくりしました。少しだけ薄くなっていたんです」
「じゃあ、とにかくそれで占いがほんとうであったことが、証明されたということなんですか」
「そうですね。それで、それからよくひとり旅に行くようになって、ここまで痣が消えたんです。なので、後生です、人助けだと思って抱いてください、お願いします」
「まぁ、そういうことならばですね、ぼくとしても据え膳食わぬは男の恥とか言いますし」
「よかった! じゃあ、抱いていただけるんですね」
「まあね、Hすることに吝かではないんですが、じ、実はですね、ぼくは、え~と...女性の人とそういったことをした事がないんです」
「えー! いわゆるチェリーボーイという?」
「いや、そんな絶滅危惧種を見るような目で見ないで下さい。その、あの、ですね、ぶっちゃけてしまうと、ぼくは女性には興味がなくてですね......」
「あー。友達にいます。でも自分の考えているセクシュアリティって案外違ってたりしますよ? ノンケっていうか、ストレートだと思ってた男性がある事をきっかけにして同性を好きになってしまったりとかザラにありますから」
「そうなんだ!」
「そう。なので女性を知ったら、あなたも変わるかもですよ?」
「なるほど。目から鱗です」
そんなわけで、そんな男女の関係を結ぶような流れになってしまったのですが、さすがにシラフで抱くわけにもいかず、とりあえずカフェを出て、ぼくらは居酒屋へと向かうことにしました。
それで、近くにあった居酒屋に入ったのですが、どうでもいいような世間話をしながら、ぼくは未だにどうしようかな、どうしたらこの話を白紙にもどせるかな、なんて思い悩んでいました。
実は、さっき自分はゲイだみたいな理由づけをして、心底逃げたいと思っていたんですが、
ほんとうのところは、童貞であり、今まで一度も女性を抱いたことがなかったのでした。
自分としては、自分をゲイと認識してもらって全然かまわないんですが、童貞だと思われるのは、絶対にいやなのでした。
ケイトさんは、ぼくがゲイであるという認識なんですから、たとえラブホに行くことになったとしても、ゲイですからの一点ばりで押し切って、やっぱり女性ではダメでした、反応しません、で逃げ切ろうという腹づもりでした。
しかし、ラブホに行ってしまったなら、無理矢理やられてしまう可能性もなきにしもあらずなので、ラブホ直行は絶対阻止しなければならないと思っていました。
返すがえすも、とにかく実にまずいことになってしまったと、ぼくは思うのでした。あれほど惚れないようにと警戒していたにもかかわらず、やはりケイトさんに知らず知らずのうちに恋していたようなのでした。
なのに、彼女に自分はゲイだとカムアウトしてしまった、好きな相手に童貞であることがバレてしまうのが恥ずかしくて、いちばんいやだったから、咄嗟にゲイであることにしてしまったのです。
この世界で、ぼくが童貞であることを、いちばん知られたくない相手はケイトさんでした。
そして、これからラブホ直行を諦めさせるためには、もうその場凌ぎのウソでは、ダメだと思いました。
そこで、ぼくはラブホ行きを回避するという考えを止揚して、陽動作戦に打って出たのでした。
ぼくは、上気した顔で言いました。
「で、でも、ケイトさん、よく考えてください、いきなりラブホってどうなんですかね」
「そうなんですよね。やっぱり、ちゃんとしたデート、したいですね」
「ですよね。やっぱり順序は大切。じゃ、定番の映画なんかどうでしょう」
「きまり。映画観てから~の、どこかの遊園地」
「それ、いいですね」
ということで、その日のラブホ直行はなしになり、ぼくはほっとしました。そして、それから、ぼくらは交際するようになりました。
ちょうど、3ヶ月後にはクリスマスという恋人たちにはうってつけのイベントがあるので、ぼくも世の男性と同じく、はじめて出来た彼女と聖夜を一緒に過ごしたいと思いました。そして、いよいよその日に、自分のすべてを晒す覚悟なのでした。
愛するケイトさんには、秘密を持っていられない。もうひとつ彼女には知られたくない事実が、ぼくにはまだあったのです。
🧶勅使河原ケイト
今回、古文書の撮影で来ている人は、何か気になる存在だった。
きのう、ランチを一緒に食べた。いい感じで、仲良くなっているから、ずっとこのままでいたいけれど、ぐずぐずしていたら、撮影が終わってしまう。
絶対、私に気があるはずなのに、食事にすら誘ってくれない。恥ずかしがり屋さんなのだろうか。ランチしながら、告白してしまおうかと思い悩んだけど、女である私からストレートにそんなことは、言えない。
それに告白して、気まずくなり今のいい関係が崩れてしまうのが怖かった。
なので、私は一計を案じることにしたのだ。
私は、この顔の痣と共に生きてきた。この痣がなければ、私はとうに結婚していたかもしれない。
でも、この痣のせいで、異性から、なおざりにされていたわけでは全然ない。すべては自分の心の問題だった。自分を卑下してしまうことが、どうしてもやめられなかった。
プロポーズされても、こんな痣のある私が愛されていいのだろうか、幸せになっていいのだろうかと、どうしても思ってしまうのだ。
それは、いわゆる自己肯定感が低いから、などではなかった。
私は、呪われているのだと思う。痣は、その呪いのしるしなのだ。
なので、私が幸せになろうとすると、この痣が、幸せの種を逐一潰しにかかってくる。
おまえを幸せになどさせるものか、おまえには不幸がお似合いだ、結婚なんてさせてたまるか、いいか見てろよ、これからおまえを不幸のドン底へと突き落としてやる。
私には、内耳を通して、痣がそう言っているのが聞こえるような気がするのだ。
しかし、私も、もう負けてはいない。今回は、その痣を利用してやる。
痣が、徐々にではあるが、全体的に薄くなってきていることは、ほんとうだから、それで面白いウソを思い付いた。
あの人に、思い切って告白は出来ないけれども、優しいあの人ならば、きっと私を救うために、一肌脱いでくれるだろう。
そうなったら、もう事実上の恋人だし、バージンを奪われるのだから、男としてきっちり責任をとって、結婚してもらうという計画なのだ。
そういう算段だったのだ。
彼は、女性にはまったく興味がなくて、自分はゲイだと正直に言ってくれたけれど、あれは嘘だと思った。女の直感だった。
でも、心配なのは、優しい彼は私に女としての魅力がないから、私を傷つけまいとしてゲイだとウソをついたのかということだった。でもあれで逆に、彼が鼻の下をすぐ伸ばすようなスケベ野郎ではないことがはっきりしたし、さらに好感度は爆上がりした。
🧶クリスマス・イブ
ラッキーにも、いや、幸か不幸かまだわからないが、いまさっきまで、葵丸がDisneyのオンライン予約・購入サイトで、ホテル検索をかけても、12月24日は全室満室ですと出ていたのに、暇にあかして当日にサイトに出たり入ったりを繰り返していたら、空前絶後の珍事が出来(しゅったい)した。なんと空室が出たのだった!
たぶんだが、宿泊客の中に反社様がいらっしゃることがわかり、宿泊約款により宿泊解除ということになったのではと、葵丸は、勝手に解釈した。あるいは、急病とか。
まさに、絵に描いたような奇跡だった。
ディズニーシーのホテルミラコスタは無理だったけれど、葵丸は、泊まれるだけでもう感謝感激雨あられなのだった。
そして。いよいよクリスマス・イブ当日。
葵丸は、ドアを開け、ケイトを先に部屋に通すと、わーとかきゃーとか言っているケイトに、急にシリアスにこう切り出した。
「実は、自分にも痣があるんですよ、だから、この痣をケイトさんには見られたくはなかったんです」
そして葵丸は、ケイトの前でもろ肌脱いで、後ろを向いた。
ケイトは、見た。
葵丸が背中に背負った、極彩色の見事な唐獅子牡丹の刺青。
腹にサラシを巻いてドスを持った北久邇乃宮葵丸(きたくにのみやあおいまる)は、まさにこう言いそうだった。
「自分、不器用ですから。姉(あね)さん、どうか一緒に死んでください」
だが、現実の葵丸は、今にも泣きそうな顔をしてこう言った。
「ケイトさん、いままで嘘をついていてすいませんでした。これが、本当の自分です。くれぐれもそんな痣などお気になさらずに。その痣によってあなたが負った心の傷を、どうか私に一緒に背負わせてください。これからは、ぼくがあなたを守ります」
「葵丸さん」
そう言って、ケイトは、さめざめと泣いた。
葵丸が、言う。
「ケイトさん、こんな自分でよかったら、結婚してください」
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