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#196 キミに夢中
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ショーウィンドウの中で、青白い月明かりを浴びながらマネキンは誰ひとりとして往来しない通りを眺めていた。
マネキンの着ているワンピースはもう虫喰いだらけで、かろうじて服だった頃の名残りがあるが、まるでボロ雑巾か、頭陀袋のようだった。
身につけていたインナーも破れ、ブラも完全に変色して、ストラップはネズミに齧られたのだろうか、既になくなっていた。
マネキンは、さっきから、といっても100年くらい前からずっとさっきからなのだが、確か酔狂な店主から名前がつけられていたはずで、その名前をずっと思い出そうとしていた。
リンダだったかしら?
エレイン?
あ、ヘザーかしら?
それとも、ようこ?
なおみ?
というか、それ以前、マネキンになる前につけられていた人間であった自分の名前を思い出して、その名前と混同しているのかも知れないと思った。
人間であったという根拠のない記憶があるような、ないような。
ただ、その曖昧な記憶は、かつて自分はヒトであったという、ヒトであった時の生活を夢で見ただけなのかも知れない。
人がいなくなった街は一気に荒廃し、マネキンは街が滅んでゆくさまを煤けたこのウインドウの中から、静かに見つめていた。
それから、いったい世界に何があったのか、マネキンにはわからない。
マネキンの視界の範囲内だけが彼女の知り得る唯一の世界だった。
やがてマネキンは、肩が外れ、頭も朽ち果てて落ちてしまうだろう。
視界は奪われ、胴体だけのトルソーとなっても、尚まだ彼女は生き続けなければならない。
それが、彼女に与えられた罰だからだった。
そのマネキンのまったく預かり知らない、とはいっても隣接するお隣りの街に、突然変異だろうか、おかしな連中が現われた。
隣町も確かに荒廃はしてはいたが、まだ街として機能しているようだった。
ごみごみした繁華街には人影がちらほら見えるし、遠くからさんざめきが聞こえていた。
異様な風体の3人あるいは、3匹は、通りの真ん中を堂々と歩いていた。
そういえば、自動車が一台も走っていない。
ひとりというか、一匹はヘビのような顔をしたやつで、とりあえずTシャツにデニムのパンツを穿いていたが、素足だったし、その足の爪は、猛禽類みたいに鋭く尖っていた。
もうひとりは、ピンクの長い髪と曲線的な身体のラインから女性的な印象を受けるシルエットだったが、口から飛び出しているスプリットタンが、さらに無数に裂けて各々が意思を持っているかのように、好き勝手に蠢いていた。
もう一匹は、水牛みたいな長くカールした巨大な2本の角を持ち、真っ赤な目がらんらんと光るまさに猛牛のような顔をしたやつだった。
こいつらは明らかに人類ではないようだが、もしかしたら母体は人類だが、そこにバケモノが寄生したのかもしれなかった。
いわゆるパラサイトというやつだ。
で、その3人だか3匹は、腹が空いたといって、ラーメン屋に入っていった。
つまり、まだヒトの部分を残しているので、食事はヒトを喰らうとかではないらしい。
それは、アーケードのいちばん端っこにあった家系ラーメンだった。
アーケードは、そこで切れて通りを隔てた向こう側には、すずらんほほえみチューリップ保育園が建っていた。
保育園の中では、保育士である加瀬沼アルフォンス・アルフォリーノタキタロス・エンチベーヌ貞継が、子どもたちの歌う『犬のおまわりさん』の伴奏をオルガンで弾いていた。
加瀬沼は、しかし、終始心ここに在らずな様子で、なぜかキョドッていた。
いや、傍目にはただそう見えるだけで、それは、彼なりの集中している姿なのかもしれなかった。
よく見ると、襟足や額から汗が噴き出していた。
やがて加瀬沼の上半身は、徐々に右側に傾いでいき、物理的にギリギリな体勢のまま、それでもなお『犬のおまわりさん』を弾いていた。
子どもたちは、とっくに歌うことをやめていて、固唾を呑んで、ありえない体勢でオルガンを弾き続ける加瀬沼を見守っていた。
加瀬沼は、いま、ドーパミンだかアドレナリンの分泌により、広大なお花畑の只中で、馥郁たる花の香りに酔いながら、クルクルとピルエットを果てしなく繰り返していた。
「あ、倒れちゃう!」
「アルフォンス!」
そう叫ぶ子どもたちの声に気づく様子もないまま、一心不乱にオルガンを加瀬沼は弾きつづける。
やがて、彼の上半身は、みるみる傾いていくと頭が床につきはじめ、彼は頭を支点にして足の指で鍵盤を弾くというサーカスめいた大道芸を披露しはじめた。
それまで心配げの子どもたちも、これにはびっくりして一斉に歓声をあげる。
「わーい!」
「アルフォンス頑張って!」
しまいには、「アルフォンス!」「アルフォンス!」の大合唱となった。
最終形態として、加瀬沼は、完全にオルガン自体を抱き抱えるように床から持ち上げてしまい、微妙な体勢を保持しつつ、「犬のおまわりさん」を弾き続けるのだった。
その一部始終を、こっそりと覗き見していたヤツがいた。
そいつは、青い目をしていた。ただし、西洋人というわけでもなかった。
その青い目も、たんに青いカラコンをつけているだけだった。
いつも青い服と青いズボンを穿いて、仕事もせず街を徘徊していたが、その長い髪だけは暗めの赤に染められていた。
その顔は、いつも青ざめてるように見えた。
具合いが悪そうな、血の気がひいた顔色ということでもなく、青痣でもない、もともと色白であり、とにかく透き通るように青かった。
街の人は、彼を青い人と呼んでいたが、実際のところ本当に人類なのかさえわからなかった。
彼は杜子春《とししゅん》が、仙人から聞いたように、毎日夕日を浴びて出来る地面の自分の影の頭や胸のあたりを掘ってはいるが、金が出たためしはなかった。
彼は、青空文庫で『杜子春』を読んでから、夢があっていいなと自分でもやりたくなってしまったのだった。
そして、それ以来、日課になりやらないと気が済まないのだった。
しかし、田舎ならいざ知らず都心ではアスファルトに覆われていて土が露出しているところの方が少ないため、なかなか難しいものがあった。
ある朝のことだった。
青い人は、ネットニュースでただのブサメンが、女性も敵わないほどの美を手に入れたのを見て、美に目覚めてしまったのだった。
ただしかし、彼の美的感覚はフツウの人とはかなり異なっていた。
彼がなりたい顔は、歌舞伎役者の隈取(くまどり)のような顔だった。
青い人にとって、あの歌舞伎役者みたいな隈取の様式美こそが究極の美に思えたのだ。
ただし、別に歌舞伎のマネがやりたかったわけでもなく、とにかく見よう見まねで、見得を切るポーズの歌舞伎役者さんの写真を見ながら顔に、隈取の化粧を施していった。
隈取は、血管や筋肉を誇張して表現したものらしいが、その色も決まりがあるらしく、中でも茶色の隈は人間に化けた妖怪変化等、とにかくヒトではないバケモノを表すようで、自分には茶色が適当かなと青い人は思った。
彼は自分自身のことなのに自分の出自を忘れている自分が不思議でならなかったが、もしかしたらこの身体の持ち主に寄生し、精神を乗っ取ってしまったのかもしれないと思った。
なので、もともと肉体はなく、精神体だけの存在で、いや、あるいは、いわゆるリダンツしたまま、元のカラダに戻れなくなって、あの世にも行けないまま、現界をボウフラのように彷徨っているのかもしれないと思った。
しかし、わからないのは歌舞伎役者みたいな隈取がしたいという彼の願望は、いったいどこからくるのだろうか。
様式美へのこだわりがある、というのはわかるにしても、ただの変身願望にすぎないのならば、おそらくは寄生したカラダの持ち主の趣味嗜好が多少なりとも反映しているのかもしれない。
まさか、彼の前世が歌舞伎役者だったわけもないだろうから、元の持ち主が、歌舞伎の大ファンだったというのが、あたらずといえども遠からず、といったところだろうか。
まあ、そんなこんなで青い人は、下地の白塗りをしながら、自分はバケモノだという認識から、茶色を入れようとしたが、知らぬ間に青の隈取にしていた。
青い人は、とにかく顔に隈取を描きたいという衝動のまま、手元にあったアクリル絵の具で、顔を真っ白に塗りたくった。
そして、見よう見まねで隈取をしていったのだが、わけがわからなかった、自分では茶のアクリル絵の具を選んだつもりなのに、実は青だったのだ。
色盲を疑った方がいいのか? と彼はちょっと心配になった。
むろん、歌舞伎役者の人たちがアクリル絵の具を使っているわけもないが、青い人は、究極の様式美である隈取がしたいと思い、それを、すぐさま実行に移したかったのであり、そして、彼の手元にはアクリル絵の具があったというわけだ。
しかし、さすがにアクリル絵の具を、直接顔に塗るのではなく、歌舞伎手拭いみたいに、サラシに隈を描いてそれを顔に、パックするみたいに貼り付ける、みたいなことも考えた。
しかし、何も描いてない白いお面があれば、それに彩色すればいいと思って、ネットで検索してみると、隈取お面という、ちょうどいいものがあった。
それは、白粉(おしろい)で顔一面をベタ塗りした白塗りの状態、ちょうどそんな感じのお面だった。
安いので、とりあえず10枚買い、むきみ隈、一本隈、二本隈、筋隈、猿隈という、5種類に似せた隈取を描いた。
ちなみに、歌舞伎の世界では「隈取」を“描く”、ではなく“取る”と言うらしい、知らんけど。
白は、善や高貴を表しているようで、白塗りは、真っ白に近いほど高貴であり、善の度合いが高いということらしい。
となると、色白で透けるほど青い、限りなく透明に近いブルーのような青い人は、さしずめ高貴な上級国民といったところか。
一方、顔の色が茶色っぽい肌色のキャラクターは侍や町人や悪人であることをあらわすようだが、ただし悪人でも高貴な人物は白塗りのようだ。
赤い顔は、赤っ面(あかっつら)と呼び、大悪人の家来や手下にあたる役どころの化粧らしい。
青い人は、自身の顔に直接描かないのは、覚悟が足らない証拠だ、なんて考えもしたが、そんなことはないのだった。
能と狂言を合わせて能楽というらしいが、その能楽では、仮面を用い、仮面をしない場合でも、歌舞伎のような化粧はしない。
なので、自分はハイブリッドでいくのだ、と青い人は決めた。
たしか、青い隈は、高貴な身分でありながら、国の乗っ取りなどを謀る悪い輩(やから)や怨霊などを表しているとのことだから、詳しい出自はわからないが、とにかく結構偉い武者とかの怨霊なのかもしれないと思い、そう思うと何かストンと腑に落ちる感じがするのだった。
しかし、隈取した仮面をかぶって、自分はいったい何がしたいんだろうと、青い人は自問自答したが、そんなことよりも「連獅子」みたいな派手なカツラをかぶって、さらに変装をブラッシュアップしようという考えが、ふつふつと沸いてきて、いても立っていられなくなり、すぐさまネットで検索してみた。
モノホンの連獅子用、右近左近のカツラは、それぞれレンタル料金一泊二日で5万円とかで、無理ゲーなので、結局自作することにした。
ちょうど、引越したあとで、要らない文庫本やら単行本を200冊くらい処分した際に使った白いビニール紐を巻いた玉が、大量に余っていたので、それでヅラを代替することにした。
これで、完璧だった。
隈取のお面をつけて、グルングルン頭を回転させて、連獅子のように毛振りしながら、大通りをひとりでパレードするように練り歩くのだ。
ただし、何がやりたいというわけでもない。
隈取したお面をかぶり、ただひたすらバス通りを、ビニール紐の獅子のカツラでシャランシャランと毛振りしながら、徐々に無になっていくのだ。
ちょうどそれは、歌舞伎役者がおしろいし、隈取を入れながら徐々に演じる役柄に入っていくように。
『無になる』、青い人には、そのくらいしか目的は思いつかなかった。
首を大きく回転させながら頭をふる毛振りは、ライブでヘドバンするみたいに、いつしか眩暈(めまい)でクラクラしはじめ、やがて体が宙に浮かびあがるような浮遊感に包まれる。
もしかしたらこれは、激しく頭を振り続けることで、強制的に短いリダンツを惹き起こすのかもしれなかった。
しかし、無になってどうするというのか。
まるで、ドラッグをやるように、線香花火みたいに短く儚い陽炎のような夢でもいい、無のその先にあるであろう心の安寧や、幸せといった救いを一瞬でもいい、味わいたかった。
青い人は、酩酊したようにクラクラしながら千鳥足で大通りを練り歩いた。まるで、身体はリアルに残したまま、頭だけは異なる次元を浮遊しているようだった。
現代人は、人間関係からくるストレス、過去への後悔、将来の不安、抑うつ感等様々な心理的なストレス、病気等の悩みの身体的なストレスなどなど様々なストレスを癒すために、内省や、ただぼーっと何も考えないでいる時間をつくりたくなったりと、知らず知らずのうちに「無になる」ことを欲している人は多い。
青い人は、無の先には、なにものにも囚われない穏やかな気持ち、心の安寧、幸福感があることを知っていたようだ。
そんなこんなで、きょうもまた青い人は、大通りをひとりでパレードするように行進するのだった。
すると不思議なもので、いつからか青い人のフォロワーが現われた。追っかけというやつだ。
青い人がお面をつけて、ひとりで行進していると、どこからか湧いてきたように現われて、青い人の後ろに一列に並んで歩きはじめた。
ただし、めいめい火傷しそうに熱いラーメンドンブリを手に、フーフーしながらラーメンを啜っている時もあった。
その間は、空きドンブリを待ちのUber eatsガチ勢のお兄さんも、列に加わっていた。
それは、三匹というか三人というか、半人半獣の連中であり、夢中でラーメンを啜っていた。
そして、ラーメンを食べ終わると、それぞれポケットからNintendo switchを取り出すや、夢見心地で目をキラキラさせながらゲームをやり始めた。
そして、やがてもうひとりが三人の後ろに加わった。
その彼は以前、どこにでもいる、いわゆるサラリーマンで、会社の人間関係からくるストレスで、自死を考えるほど、おかしくなりかけていたが、たまたま再会した友人に誘われるまま地下アイドルのライブを体験し、推しのある人生の素晴らしさに目覚めた。
推しのライブに没頭し夢中でペンライトやサイリウムを振っている彼は、知らず知らずの内に、『無』になっていたのだった。
夢中とは、無中、つまり無の中であり、すなわち夢中になっている時は幸せだということなのだ。
そして、彼は会社を辞めて保育士になる資格を取った。彼の名は、加瀬沼アルフォンス・アルフォリーノタキタロス・エンチベーヌといった。
彼は、列に加わったのだが、歩いているのではなく、ギリギリ宙に浮いたまま、いまだに逆さまの状態で、物理法則に逆らいながら、往年のキース・エマーソンみたいに夢中でオルガンを引き続けていた。
そんな青い人とそのフォロワーたちの行進は、雨が降らない限り毎日のように続いていた。
ある日、青い人のパレードは、いつものコースからはみ出しながら、街中をお神輿を担ぐように練り歩いていった。
隈取の入ったお面をかぶった青い人は、その日も一心不乱に獅子のカツラを模したビニール紐をシャランシャランとさせながら、頭を振り続けていて、いつものコースから外れて隣町へと入ってきてしまったことにも気づいていなかった。
しかし、交差点で曲がろうとした時、唐突に立ち止まってしまった。
それは、オモチャのロボットが電池が切れて動かなくなったみたいであり、電池を入れない限りもう二度と動きそうになかった。
陽気なパレードの唐突な停止は、かなりの衝撃をともなってフォロワーたちにもダメージを与え、彼らは声をあげながら散り散りになって、どこかへと走り去っていった。
その時、青い人は、隈取のお面の下から交差点の向かい側にあった、古ぼけた洋装店のショーウィンドウの中にそれを見た。
そこに、ぼろぼろのワンピースを着て、カツラのズレた朽ち果てたマネキンが一体あるのを認めた時、雷に打たれたように、頭からつま先まで電撃が走ったのだった。
青い人は、その朽ち果てたマネキン人形が、前世か、前前前前前世か、わからないけれど、とにかく自分が死ぬほど愛していた恋人であったことを、啓示のように悟ったのだった。
ぼろぼろのマネキンは、彼が来るであろうことに逸早く気づいていた。
ふたりの視線は、ぶつかり合い絡まって、やがてスパークした。
マネキンの思念が飛ばされてくる。
「わたしのこと、覚えてる?」
「忘れられたら、どんなによかっただろう」
「相変わらず、女癖わるいんでしょ?」
「あー、なおらないかもね」
「ずっと待ってた」
「そう? でも俺の方が百万倍もキミに夢中だと思うよ」
「なに、そのお面、隈取?」
「様式美。目立つだろ」
「ダサ」
マネキンの着ているワンピースはもう虫喰いだらけで、かろうじて服だった頃の名残りがあるが、まるでボロ雑巾か、頭陀袋のようだった。
身につけていたインナーも破れ、ブラも完全に変色して、ストラップはネズミに齧られたのだろうか、既になくなっていた。
マネキンは、さっきから、といっても100年くらい前からずっとさっきからなのだが、確か酔狂な店主から名前がつけられていたはずで、その名前をずっと思い出そうとしていた。
リンダだったかしら?
エレイン?
あ、ヘザーかしら?
それとも、ようこ?
なおみ?
というか、それ以前、マネキンになる前につけられていた人間であった自分の名前を思い出して、その名前と混同しているのかも知れないと思った。
人間であったという根拠のない記憶があるような、ないような。
ただ、その曖昧な記憶は、かつて自分はヒトであったという、ヒトであった時の生活を夢で見ただけなのかも知れない。
人がいなくなった街は一気に荒廃し、マネキンは街が滅んでゆくさまを煤けたこのウインドウの中から、静かに見つめていた。
それから、いったい世界に何があったのか、マネキンにはわからない。
マネキンの視界の範囲内だけが彼女の知り得る唯一の世界だった。
やがてマネキンは、肩が外れ、頭も朽ち果てて落ちてしまうだろう。
視界は奪われ、胴体だけのトルソーとなっても、尚まだ彼女は生き続けなければならない。
それが、彼女に与えられた罰だからだった。
そのマネキンのまったく預かり知らない、とはいっても隣接するお隣りの街に、突然変異だろうか、おかしな連中が現われた。
隣町も確かに荒廃はしてはいたが、まだ街として機能しているようだった。
ごみごみした繁華街には人影がちらほら見えるし、遠くからさんざめきが聞こえていた。
異様な風体の3人あるいは、3匹は、通りの真ん中を堂々と歩いていた。
そういえば、自動車が一台も走っていない。
ひとりというか、一匹はヘビのような顔をしたやつで、とりあえずTシャツにデニムのパンツを穿いていたが、素足だったし、その足の爪は、猛禽類みたいに鋭く尖っていた。
もうひとりは、ピンクの長い髪と曲線的な身体のラインから女性的な印象を受けるシルエットだったが、口から飛び出しているスプリットタンが、さらに無数に裂けて各々が意思を持っているかのように、好き勝手に蠢いていた。
もう一匹は、水牛みたいな長くカールした巨大な2本の角を持ち、真っ赤な目がらんらんと光るまさに猛牛のような顔をしたやつだった。
こいつらは明らかに人類ではないようだが、もしかしたら母体は人類だが、そこにバケモノが寄生したのかもしれなかった。
いわゆるパラサイトというやつだ。
で、その3人だか3匹は、腹が空いたといって、ラーメン屋に入っていった。
つまり、まだヒトの部分を残しているので、食事はヒトを喰らうとかではないらしい。
それは、アーケードのいちばん端っこにあった家系ラーメンだった。
アーケードは、そこで切れて通りを隔てた向こう側には、すずらんほほえみチューリップ保育園が建っていた。
保育園の中では、保育士である加瀬沼アルフォンス・アルフォリーノタキタロス・エンチベーヌ貞継が、子どもたちの歌う『犬のおまわりさん』の伴奏をオルガンで弾いていた。
加瀬沼は、しかし、終始心ここに在らずな様子で、なぜかキョドッていた。
いや、傍目にはただそう見えるだけで、それは、彼なりの集中している姿なのかもしれなかった。
よく見ると、襟足や額から汗が噴き出していた。
やがて加瀬沼の上半身は、徐々に右側に傾いでいき、物理的にギリギリな体勢のまま、それでもなお『犬のおまわりさん』を弾いていた。
子どもたちは、とっくに歌うことをやめていて、固唾を呑んで、ありえない体勢でオルガンを弾き続ける加瀬沼を見守っていた。
加瀬沼は、いま、ドーパミンだかアドレナリンの分泌により、広大なお花畑の只中で、馥郁たる花の香りに酔いながら、クルクルとピルエットを果てしなく繰り返していた。
「あ、倒れちゃう!」
「アルフォンス!」
そう叫ぶ子どもたちの声に気づく様子もないまま、一心不乱にオルガンを加瀬沼は弾きつづける。
やがて、彼の上半身は、みるみる傾いていくと頭が床につきはじめ、彼は頭を支点にして足の指で鍵盤を弾くというサーカスめいた大道芸を披露しはじめた。
それまで心配げの子どもたちも、これにはびっくりして一斉に歓声をあげる。
「わーい!」
「アルフォンス頑張って!」
しまいには、「アルフォンス!」「アルフォンス!」の大合唱となった。
最終形態として、加瀬沼は、完全にオルガン自体を抱き抱えるように床から持ち上げてしまい、微妙な体勢を保持しつつ、「犬のおまわりさん」を弾き続けるのだった。
その一部始終を、こっそりと覗き見していたヤツがいた。
そいつは、青い目をしていた。ただし、西洋人というわけでもなかった。
その青い目も、たんに青いカラコンをつけているだけだった。
いつも青い服と青いズボンを穿いて、仕事もせず街を徘徊していたが、その長い髪だけは暗めの赤に染められていた。
その顔は、いつも青ざめてるように見えた。
具合いが悪そうな、血の気がひいた顔色ということでもなく、青痣でもない、もともと色白であり、とにかく透き通るように青かった。
街の人は、彼を青い人と呼んでいたが、実際のところ本当に人類なのかさえわからなかった。
彼は杜子春《とししゅん》が、仙人から聞いたように、毎日夕日を浴びて出来る地面の自分の影の頭や胸のあたりを掘ってはいるが、金が出たためしはなかった。
彼は、青空文庫で『杜子春』を読んでから、夢があっていいなと自分でもやりたくなってしまったのだった。
そして、それ以来、日課になりやらないと気が済まないのだった。
しかし、田舎ならいざ知らず都心ではアスファルトに覆われていて土が露出しているところの方が少ないため、なかなか難しいものがあった。
ある朝のことだった。
青い人は、ネットニュースでただのブサメンが、女性も敵わないほどの美を手に入れたのを見て、美に目覚めてしまったのだった。
ただしかし、彼の美的感覚はフツウの人とはかなり異なっていた。
彼がなりたい顔は、歌舞伎役者の隈取(くまどり)のような顔だった。
青い人にとって、あの歌舞伎役者みたいな隈取の様式美こそが究極の美に思えたのだ。
ただし、別に歌舞伎のマネがやりたかったわけでもなく、とにかく見よう見まねで、見得を切るポーズの歌舞伎役者さんの写真を見ながら顔に、隈取の化粧を施していった。
隈取は、血管や筋肉を誇張して表現したものらしいが、その色も決まりがあるらしく、中でも茶色の隈は人間に化けた妖怪変化等、とにかくヒトではないバケモノを表すようで、自分には茶色が適当かなと青い人は思った。
彼は自分自身のことなのに自分の出自を忘れている自分が不思議でならなかったが、もしかしたらこの身体の持ち主に寄生し、精神を乗っ取ってしまったのかもしれないと思った。
なので、もともと肉体はなく、精神体だけの存在で、いや、あるいは、いわゆるリダンツしたまま、元のカラダに戻れなくなって、あの世にも行けないまま、現界をボウフラのように彷徨っているのかもしれないと思った。
しかし、わからないのは歌舞伎役者みたいな隈取がしたいという彼の願望は、いったいどこからくるのだろうか。
様式美へのこだわりがある、というのはわかるにしても、ただの変身願望にすぎないのならば、おそらくは寄生したカラダの持ち主の趣味嗜好が多少なりとも反映しているのかもしれない。
まさか、彼の前世が歌舞伎役者だったわけもないだろうから、元の持ち主が、歌舞伎の大ファンだったというのが、あたらずといえども遠からず、といったところだろうか。
まあ、そんなこんなで青い人は、下地の白塗りをしながら、自分はバケモノだという認識から、茶色を入れようとしたが、知らぬ間に青の隈取にしていた。
青い人は、とにかく顔に隈取を描きたいという衝動のまま、手元にあったアクリル絵の具で、顔を真っ白に塗りたくった。
そして、見よう見まねで隈取をしていったのだが、わけがわからなかった、自分では茶のアクリル絵の具を選んだつもりなのに、実は青だったのだ。
色盲を疑った方がいいのか? と彼はちょっと心配になった。
むろん、歌舞伎役者の人たちがアクリル絵の具を使っているわけもないが、青い人は、究極の様式美である隈取がしたいと思い、それを、すぐさま実行に移したかったのであり、そして、彼の手元にはアクリル絵の具があったというわけだ。
しかし、さすがにアクリル絵の具を、直接顔に塗るのではなく、歌舞伎手拭いみたいに、サラシに隈を描いてそれを顔に、パックするみたいに貼り付ける、みたいなことも考えた。
しかし、何も描いてない白いお面があれば、それに彩色すればいいと思って、ネットで検索してみると、隈取お面という、ちょうどいいものがあった。
それは、白粉(おしろい)で顔一面をベタ塗りした白塗りの状態、ちょうどそんな感じのお面だった。
安いので、とりあえず10枚買い、むきみ隈、一本隈、二本隈、筋隈、猿隈という、5種類に似せた隈取を描いた。
ちなみに、歌舞伎の世界では「隈取」を“描く”、ではなく“取る”と言うらしい、知らんけど。
白は、善や高貴を表しているようで、白塗りは、真っ白に近いほど高貴であり、善の度合いが高いということらしい。
となると、色白で透けるほど青い、限りなく透明に近いブルーのような青い人は、さしずめ高貴な上級国民といったところか。
一方、顔の色が茶色っぽい肌色のキャラクターは侍や町人や悪人であることをあらわすようだが、ただし悪人でも高貴な人物は白塗りのようだ。
赤い顔は、赤っ面(あかっつら)と呼び、大悪人の家来や手下にあたる役どころの化粧らしい。
青い人は、自身の顔に直接描かないのは、覚悟が足らない証拠だ、なんて考えもしたが、そんなことはないのだった。
能と狂言を合わせて能楽というらしいが、その能楽では、仮面を用い、仮面をしない場合でも、歌舞伎のような化粧はしない。
なので、自分はハイブリッドでいくのだ、と青い人は決めた。
たしか、青い隈は、高貴な身分でありながら、国の乗っ取りなどを謀る悪い輩(やから)や怨霊などを表しているとのことだから、詳しい出自はわからないが、とにかく結構偉い武者とかの怨霊なのかもしれないと思い、そう思うと何かストンと腑に落ちる感じがするのだった。
しかし、隈取した仮面をかぶって、自分はいったい何がしたいんだろうと、青い人は自問自答したが、そんなことよりも「連獅子」みたいな派手なカツラをかぶって、さらに変装をブラッシュアップしようという考えが、ふつふつと沸いてきて、いても立っていられなくなり、すぐさまネットで検索してみた。
モノホンの連獅子用、右近左近のカツラは、それぞれレンタル料金一泊二日で5万円とかで、無理ゲーなので、結局自作することにした。
ちょうど、引越したあとで、要らない文庫本やら単行本を200冊くらい処分した際に使った白いビニール紐を巻いた玉が、大量に余っていたので、それでヅラを代替することにした。
これで、完璧だった。
隈取のお面をつけて、グルングルン頭を回転させて、連獅子のように毛振りしながら、大通りをひとりでパレードするように練り歩くのだ。
ただし、何がやりたいというわけでもない。
隈取したお面をかぶり、ただひたすらバス通りを、ビニール紐の獅子のカツラでシャランシャランと毛振りしながら、徐々に無になっていくのだ。
ちょうどそれは、歌舞伎役者がおしろいし、隈取を入れながら徐々に演じる役柄に入っていくように。
『無になる』、青い人には、そのくらいしか目的は思いつかなかった。
首を大きく回転させながら頭をふる毛振りは、ライブでヘドバンするみたいに、いつしか眩暈(めまい)でクラクラしはじめ、やがて体が宙に浮かびあがるような浮遊感に包まれる。
もしかしたらこれは、激しく頭を振り続けることで、強制的に短いリダンツを惹き起こすのかもしれなかった。
しかし、無になってどうするというのか。
まるで、ドラッグをやるように、線香花火みたいに短く儚い陽炎のような夢でもいい、無のその先にあるであろう心の安寧や、幸せといった救いを一瞬でもいい、味わいたかった。
青い人は、酩酊したようにクラクラしながら千鳥足で大通りを練り歩いた。まるで、身体はリアルに残したまま、頭だけは異なる次元を浮遊しているようだった。
現代人は、人間関係からくるストレス、過去への後悔、将来の不安、抑うつ感等様々な心理的なストレス、病気等の悩みの身体的なストレスなどなど様々なストレスを癒すために、内省や、ただぼーっと何も考えないでいる時間をつくりたくなったりと、知らず知らずのうちに「無になる」ことを欲している人は多い。
青い人は、無の先には、なにものにも囚われない穏やかな気持ち、心の安寧、幸福感があることを知っていたようだ。
そんなこんなで、きょうもまた青い人は、大通りをひとりでパレードするように行進するのだった。
すると不思議なもので、いつからか青い人のフォロワーが現われた。追っかけというやつだ。
青い人がお面をつけて、ひとりで行進していると、どこからか湧いてきたように現われて、青い人の後ろに一列に並んで歩きはじめた。
ただし、めいめい火傷しそうに熱いラーメンドンブリを手に、フーフーしながらラーメンを啜っている時もあった。
その間は、空きドンブリを待ちのUber eatsガチ勢のお兄さんも、列に加わっていた。
それは、三匹というか三人というか、半人半獣の連中であり、夢中でラーメンを啜っていた。
そして、ラーメンを食べ終わると、それぞれポケットからNintendo switchを取り出すや、夢見心地で目をキラキラさせながらゲームをやり始めた。
そして、やがてもうひとりが三人の後ろに加わった。
その彼は以前、どこにでもいる、いわゆるサラリーマンで、会社の人間関係からくるストレスで、自死を考えるほど、おかしくなりかけていたが、たまたま再会した友人に誘われるまま地下アイドルのライブを体験し、推しのある人生の素晴らしさに目覚めた。
推しのライブに没頭し夢中でペンライトやサイリウムを振っている彼は、知らず知らずの内に、『無』になっていたのだった。
夢中とは、無中、つまり無の中であり、すなわち夢中になっている時は幸せだということなのだ。
そして、彼は会社を辞めて保育士になる資格を取った。彼の名は、加瀬沼アルフォンス・アルフォリーノタキタロス・エンチベーヌといった。
彼は、列に加わったのだが、歩いているのではなく、ギリギリ宙に浮いたまま、いまだに逆さまの状態で、物理法則に逆らいながら、往年のキース・エマーソンみたいに夢中でオルガンを引き続けていた。
そんな青い人とそのフォロワーたちの行進は、雨が降らない限り毎日のように続いていた。
ある日、青い人のパレードは、いつものコースからはみ出しながら、街中をお神輿を担ぐように練り歩いていった。
隈取の入ったお面をかぶった青い人は、その日も一心不乱に獅子のカツラを模したビニール紐をシャランシャランとさせながら、頭を振り続けていて、いつものコースから外れて隣町へと入ってきてしまったことにも気づいていなかった。
しかし、交差点で曲がろうとした時、唐突に立ち止まってしまった。
それは、オモチャのロボットが電池が切れて動かなくなったみたいであり、電池を入れない限りもう二度と動きそうになかった。
陽気なパレードの唐突な停止は、かなりの衝撃をともなってフォロワーたちにもダメージを与え、彼らは声をあげながら散り散りになって、どこかへと走り去っていった。
その時、青い人は、隈取のお面の下から交差点の向かい側にあった、古ぼけた洋装店のショーウィンドウの中にそれを見た。
そこに、ぼろぼろのワンピースを着て、カツラのズレた朽ち果てたマネキンが一体あるのを認めた時、雷に打たれたように、頭からつま先まで電撃が走ったのだった。
青い人は、その朽ち果てたマネキン人形が、前世か、前前前前前世か、わからないけれど、とにかく自分が死ぬほど愛していた恋人であったことを、啓示のように悟ったのだった。
ぼろぼろのマネキンは、彼が来るであろうことに逸早く気づいていた。
ふたりの視線は、ぶつかり合い絡まって、やがてスパークした。
マネキンの思念が飛ばされてくる。
「わたしのこと、覚えてる?」
「忘れられたら、どんなによかっただろう」
「相変わらず、女癖わるいんでしょ?」
「あー、なおらないかもね」
「ずっと待ってた」
「そう? でも俺の方が百万倍もキミに夢中だと思うよ」
「なに、そのお面、隈取?」
「様式美。目立つだろ」
「ダサ」
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