パサディナ空港で

トリヤマケイ

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#171 恋のマチエール 〜逆さまの絵

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ゲオルグ・バーゼリッツ という絵描きがいる。

彼は「逆さまの絵画」で有名らしい。

そこで考えている。絵画も文学とある意味同じだ。絵画は文学よりは即座に何が描いてあるかわかるようにはなっているのだが、わかるということは、そこに描いてある、例えばロングコートのチワワであるとか、あるいは一糸纏わぬ裸婦であるとかに縛られてしまう。文学はその最たるもので言葉にはすべて意味があるので、この小説の意味はなんなんだろうと思ってしまう。

絵画も、思考はロングコートのチワワで停止して、可愛いという感情が湧き起こったり、一糸纏わぬ裸婦の豊満な乳房や臀部から太腿にかけてのえもいわれぬ曲線やら、デリケートな部分の草むらに視線は釘付けになって、劣情したりする。

つまり、描かれているモノ、そのモノに大きく影響され、そこから生まれる感情やら連想やらに囚われてしまう。

妻をモデルにして描いた彼は、その事に気づいたのではないか。


例えば小説でもその意味性に囚われることなく、文学ならその文字の字面の、悪い意味ではない表層を楽しむであったり、コンテキストから何かを読み取らなければいけない、ではなく、敢えてゲシュタルト崩壊させて、そのビジュアルを楽しむ、であったり、純粋に美しい言葉の響きを感じたり、絵画でもそのモチーフやら事柄ではなく絵の具の物質性や色やコンポジションを味わうみたいな、楽しみ方があっていい。


解釈を拒否するみたいな、つまり仔猫が描かれていたら、普通はその可愛さに引っ張られてしまうが、絵画を逆さまにすることによって仔猫の可愛さを消して、つまり、意味性を消すことによって、逆に純粋に芸術そのものに近づけていくという、ことなのかもしれない。

彼は自分の日常やら生活、つまり自分の人生を絵画に持ち込むことは決してないと言っているらしいが、 初期の逆さまの肖像画の多くのモデルは妻のelkeのようにも見える。

もしかしたら、自分の伴侶をモデルにして描いていたからこそ、逆さまの絵画が生まれのではないだろうか。

自分の人生を絵画に持ち込まない、モチーフから連想される意味や解釈から絵画を解放し、絵画としての抽象的なコンポジションの性質を強調したのは、鑑賞者のためなどではなく、はじめは自分のためだったのではないか。

彼の妻や、彼の人生を知っているのは彼自身だけなのであり、鑑賞者はそんなシガラミを一切知らないのだから、虚心で絵に向き合うわけである。

なので、はじめから絵画の純粋性云々により考え出された「逆さまの絵画」ではなく、逆さまにすることによって当たり前の解釈を拒否し、それにより一段止揚したところへと行けると、ある時気づいたのではないのだろうか。


本当に何が描いてあるのかわからない、たとえば線が縦横無尽めちゃくちゃに走っているだけであるとか、ただキャンバスが単色で塗りつぶされているだけであるとか、はじめから上下がないような、或いは上下を認識出来ないものが所謂アブストラクトなのであるから、バーゼリッツの「逆さま」は、対象物が具体的に何が描かれてあるかわかるものを敢えて描いて、鑑賞者に逆さまであることを認識させることにより、異和効果が発揮されることにも、彼は抜け目なく気づいているのではないか。

アーティストや作家は雁字搦めになった現実から自分を解放するために絵を描く、小説を書く、楽曲をかく、のだろうし、鑑賞者も読者も視聴者も、それらアーティストの世界へと現実から自分を解放し、楽しむのだろう。



が、そんなことは兎も角。

オレは、2013年にオーストリアに移住した。現在の妻と一緒にザルツブルクの古城に引っ越したのだ。

何もかもが順調だった。

女癖の悪いオレは、日本でのすべての女性たちとの諸々を清算し、世界で最も美しい湖畔の街と謳われるハルシュタットに建つ古城を手に入れた。

そして、オーストリアの地で電撃的にある美しい女優と結婚したのだ。

それから何もかもが順調だった。

朝、あるいは夕方にものんびりと散歩に出かけ、行きつけのカフェで美しい湖畔を眺めながら、お茶を心ゆくまで楽しんだ。

人生を満喫していたと言っても過言ではないだろう。

広々としたアトリエで毎日絵を描き、描いた絵は飛ぶように売れた。

若い妻は、ほんとうに美しく、誰もが振り返ってみるほどで、未だに日本の週刊誌やら何やらの記者から、インタビューのオファーが絶えなかった。

しかし。

またぞろ、オレの悪い病気が出てしまったのだ。自分でもどうしようもなかった。

日本にいた時のような、同じ過ちを繰り返さないように、女性と接する機会にはことさら気を使っていたにもかかわらずにである。

しかし、マルセル・ベアリュの短編のようなことがほんとうに起こるとは夢にも思わなかったから、油断していたことは否めない。

あのマルセル・ベアリュの『水蜘蛛』は、ほんとうに美しくも哀しい一編で、オレははらはらと涙しながら読み終えたことを未だによく憶えている。

そこで、女好きの世の男性諸氏に、敢えて苦言を呈したい。

たかが、水蜘蛛などと侮るなかれ。水蜘蛛は、貴方好みの女性にメタモルフォーゼして、貴方の魂と股間を鷲掴みにする。

くれぐれもご用心、ご用心。
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