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#116 On the edge① 〜絶対忘れない
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*月*日
気がつくと私はソレのそばに佇んでいた。よくはわからないが、そこはなぜか心休まるような気がするのだった。それは良心の疼きをもう感じないで済むという思いからかも知れなかった。
あたりには漆黒の闇がしずしずと舞い降りてくる。深々と降り積もる雪の青白い世界のなかで呼吸し、生きているのは自分だけみたいな気がした。
ソレは、はじめは何かが捨てられているのだと思った。ゴミの日でもないのに誰が捨てたんだろうと思ったけれど、近付くにつれ、その毛布のようなものが小刻みに震えているのが、はっきりとわかってきた。
震えているのだとわかると、世田谷にいるはずもないのに野犬かもしれないなどと思い、噛みつかれては大変だと足早に通り過ぎて行こうとすると、う~ん、う~んと唸っている人の声が聞こえてきた。
野犬ではなかったのはよかったけれど、今度は別な恐怖心に囚われた。それはあのときとよく似ていた。
それは真夏の時のことで、そのおじいさんは、ステテコみたいなものを穿いていて真っ青な顔してアスファルトの上に倒れていた。
何人かの子供たちがそれに気付き、後ろからやってくる親たちも驚いて駆け出して来るのを尻目に、私は怖くて見て見ぬふりしたまま、通り過ぎた。
あれは、蘆花公園近くでの出来事だったが、今眼前に確かに在るヒトの存在も完全に無視することが出来るだろうか。
視力障害の方の白い杖で床をトントンと打ち鳴らすことの意味を知っている私は知っていながらも、そのメッセージを完全に無視したこともあった。
クラスメイトである女の子の新品のテニスラケットをギタギタに傷つけたこともあった。アイツは、小学校のときに給食のお金を盗んだことがあるんだと告げ口したこともあった。
と、毛布のようなものが不意にモソモソと動き出すと、なかから白髪のおばあさんの顔が現れた。
私は何か知らない生き物を見ているような失礼な視線を浴びせかけていたかもしれない。
「お嬢さん、私が怖くないのかい? 早く家に帰りな。あんたにゃ、帰る家があるんだろ。こんなとこにいると魔物に魂を食われちまうよ」
「じゃなぜ、おばあさんはこんなところにいるんですか?」
「あたしにはもう帰るところがないんだよ。あたしは家族に捨てられたのさ」
「もう一度、お嬢さんみたいなピチピチの若い身体にもどりたい、そして男に抱かれてみたいもんだねぇ」
「1時間だけあたしの身体をおばあさんに貸してあげるなんてことが出来ればそうしてあげたいけど」
「いやいやとんでもないよ。1時間も若返っていられるなんて信じられないよ。でもほんとにいいのかい?」
「え! じゃ、そんなことおばあさんには出来るの?」
「ハハハ。考え直すなら今のうちだよ。あたしがあんただったらやめるね。気が変わって帰って来なくなるに決まってる。だって何十年ぶりかの若い身体だよ」
おばあさんは、満天の星空を見上げるようにして、星などひとつとして出ていないどんよりと澱のように固まった、雲のベールに覆われた東京の空を仰いだ。
「おばあさんの人生はどんな人生だったの? やっぱりさ、人生は美しいって思いながら死にたいよね。年齢を重ねてゆくと、そういう穏やかな心境になれるものなの?」
「反対だよ。歳を取るにしたがってどんどん不自由になるし、苦しみが増えていくのさ。たしかトルストイの本にもあるじゃないか。光あるうちに光のなかを歩めってね」
「おばあさんには、もう光が射してないの?」
「そうさ。あとはもう死ぬだけだもの」
「なんか虚しいね」
「そうだよ。人生なんて儚くて空しいもんさ」
「あたしは、そんな風には思わない」
「それはあんたがまだ若いからだよ」
「そうなんだ……」
「人生なんてひとつもいいことなんてありゃしないさ」
「そうだ、もう時間がないから、あんたにひとつだけ忠告しておくよ。お嬢さん、あんたにね、もうすぐ転機が訪れる。あんたはほとんど間をおかずふたりの男からプロポーズされるんだ。でもね、くれぐれも容姿で選ばないこと。若いうちはチャラチャラした男が素敵に見えてしかたないんだろうけれど、ソイツはあんたを不幸のどん底に突き落とすよ」
「えー! わかった。おばあさんのいうことを私は信じるし、そうする。ありがとう。で、どうする? 1時間なら貸すよ」
「いや、やめとくよ。絶対に返したくなくなるだろうし。それにさ、あたしゃまた生まれ変わるんだ、そしたらあんたなんかより、全然若いよ? 」
「そうなんだ? 人生って一度きりじゃないんだ?」
「そういうこと。人はホンマに怠け者やからね、その事実を知って一生懸命生きようとしない輩も出てくるやろうし。ま、信じる人だけが信じればええ」
「うん。わかった」
「お嬢さんは、めっちゃ素直やな。ほな、ええこと教えとくわ。女の子はな、今度生まれ変わる時は、もっともっと綺麗になりたいと強く願えば、その願いは叶うよってにな」
そう言うとおばあさんは、スゥーッと空に向かって上がってゆき、滲むように消えてしまった。
生まれ変わる時にもっともっと綺麗になりたいと強く願えば、綺麗になれる。
ありがとう。絶対忘れないと思った。
気がつくと私はソレのそばに佇んでいた。よくはわからないが、そこはなぜか心休まるような気がするのだった。それは良心の疼きをもう感じないで済むという思いからかも知れなかった。
あたりには漆黒の闇がしずしずと舞い降りてくる。深々と降り積もる雪の青白い世界のなかで呼吸し、生きているのは自分だけみたいな気がした。
ソレは、はじめは何かが捨てられているのだと思った。ゴミの日でもないのに誰が捨てたんだろうと思ったけれど、近付くにつれ、その毛布のようなものが小刻みに震えているのが、はっきりとわかってきた。
震えているのだとわかると、世田谷にいるはずもないのに野犬かもしれないなどと思い、噛みつかれては大変だと足早に通り過ぎて行こうとすると、う~ん、う~んと唸っている人の声が聞こえてきた。
野犬ではなかったのはよかったけれど、今度は別な恐怖心に囚われた。それはあのときとよく似ていた。
それは真夏の時のことで、そのおじいさんは、ステテコみたいなものを穿いていて真っ青な顔してアスファルトの上に倒れていた。
何人かの子供たちがそれに気付き、後ろからやってくる親たちも驚いて駆け出して来るのを尻目に、私は怖くて見て見ぬふりしたまま、通り過ぎた。
あれは、蘆花公園近くでの出来事だったが、今眼前に確かに在るヒトの存在も完全に無視することが出来るだろうか。
視力障害の方の白い杖で床をトントンと打ち鳴らすことの意味を知っている私は知っていながらも、そのメッセージを完全に無視したこともあった。
クラスメイトである女の子の新品のテニスラケットをギタギタに傷つけたこともあった。アイツは、小学校のときに給食のお金を盗んだことがあるんだと告げ口したこともあった。
と、毛布のようなものが不意にモソモソと動き出すと、なかから白髪のおばあさんの顔が現れた。
私は何か知らない生き物を見ているような失礼な視線を浴びせかけていたかもしれない。
「お嬢さん、私が怖くないのかい? 早く家に帰りな。あんたにゃ、帰る家があるんだろ。こんなとこにいると魔物に魂を食われちまうよ」
「じゃなぜ、おばあさんはこんなところにいるんですか?」
「あたしにはもう帰るところがないんだよ。あたしは家族に捨てられたのさ」
「もう一度、お嬢さんみたいなピチピチの若い身体にもどりたい、そして男に抱かれてみたいもんだねぇ」
「1時間だけあたしの身体をおばあさんに貸してあげるなんてことが出来ればそうしてあげたいけど」
「いやいやとんでもないよ。1時間も若返っていられるなんて信じられないよ。でもほんとにいいのかい?」
「え! じゃ、そんなことおばあさんには出来るの?」
「ハハハ。考え直すなら今のうちだよ。あたしがあんただったらやめるね。気が変わって帰って来なくなるに決まってる。だって何十年ぶりかの若い身体だよ」
おばあさんは、満天の星空を見上げるようにして、星などひとつとして出ていないどんよりと澱のように固まった、雲のベールに覆われた東京の空を仰いだ。
「おばあさんの人生はどんな人生だったの? やっぱりさ、人生は美しいって思いながら死にたいよね。年齢を重ねてゆくと、そういう穏やかな心境になれるものなの?」
「反対だよ。歳を取るにしたがってどんどん不自由になるし、苦しみが増えていくのさ。たしかトルストイの本にもあるじゃないか。光あるうちに光のなかを歩めってね」
「おばあさんには、もう光が射してないの?」
「そうさ。あとはもう死ぬだけだもの」
「なんか虚しいね」
「そうだよ。人生なんて儚くて空しいもんさ」
「あたしは、そんな風には思わない」
「それはあんたがまだ若いからだよ」
「そうなんだ……」
「人生なんてひとつもいいことなんてありゃしないさ」
「そうだ、もう時間がないから、あんたにひとつだけ忠告しておくよ。お嬢さん、あんたにね、もうすぐ転機が訪れる。あんたはほとんど間をおかずふたりの男からプロポーズされるんだ。でもね、くれぐれも容姿で選ばないこと。若いうちはチャラチャラした男が素敵に見えてしかたないんだろうけれど、ソイツはあんたを不幸のどん底に突き落とすよ」
「えー! わかった。おばあさんのいうことを私は信じるし、そうする。ありがとう。で、どうする? 1時間なら貸すよ」
「いや、やめとくよ。絶対に返したくなくなるだろうし。それにさ、あたしゃまた生まれ変わるんだ、そしたらあんたなんかより、全然若いよ? 」
「そうなんだ? 人生って一度きりじゃないんだ?」
「そういうこと。人はホンマに怠け者やからね、その事実を知って一生懸命生きようとしない輩も出てくるやろうし。ま、信じる人だけが信じればええ」
「うん。わかった」
「お嬢さんは、めっちゃ素直やな。ほな、ええこと教えとくわ。女の子はな、今度生まれ変わる時は、もっともっと綺麗になりたいと強く願えば、その願いは叶うよってにな」
そう言うとおばあさんは、スゥーッと空に向かって上がってゆき、滲むように消えてしまった。
生まれ変わる時にもっともっと綺麗になりたいと強く願えば、綺麗になれる。
ありがとう。絶対忘れないと思った。
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