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#114 スイカップ
しおりを挟む光あるうち、光のなかを歩め ———トルストイ
スイカップ女子の座っている斜め前の位置で、男は吊り革に掴りながら上から胸の谷間を覗き込んでいた。
こんな大きなおっぱい見たことない、と男は思った。
V字に切れ込んだTシャツの襟元から、飛び出さんばかりの乳がはっきりと見えていた。
その谷間の深さといったら、グランドキャニオンも真っ青だ。透けるように白い肌がそそった。
男は、思わずスマホで一発真上から撮った。
手は震え、冷や汗が背中を伝い、ブレたら台無しなので支柱に肘を思い切り押し付け、よそを見ながらノーファインダーで撮った。
息が苦しかった。
車内には、沢山の乗客がいるわけで、クーラーは効いているのに掌はスマホを取り落としそうなほど汗をかいていて、脇の下もぐっしょりと濡れ、お気に入りのブルーのYシャツには汗染みが出来ているかもしれないと思った。
だが、それでも男は必死に撮った。
周りの人の視線をすべて確認しながら巨乳を撮った。こんなに興奮するのは、久しぶりだった。
シャッターを切るだけで、彼女の身体には一切触れてはいないのに、息が詰まるほど興奮した。
男は十回ほどシャッターを切っただろうか。
無事誰にも見咎められることもなく、撮影は完了した。だが、降車する駅でもないのになにか怖くなって降りようと思った。
電車が停まり、ドアが開く。
降りようとしたその時、だった。
座席から、Yシャツを掴まれた。
「ちょっと、あなた今、盗撮してたでしょ!」
もの凄い形相で、巨乳の女がそう言った。
男はしどろもどろで、「いえ、してません」といって、降りようとしたが女はYシャツを掴む手を放そうとしなかった。
「警察呼ぶわよ。してないっていうんなら、スマホ見せてください」
とんでもないことになったと思った。
画像を見られたら、現行犯で捕まってしまう。家族にも見捨てられ、会社も首になってしまう。
たかが巨乳のために人生をふいにしてしまうなんて……。
それは、絶対だめだ。絶対だめだ。
男は、女の手に触れないようにしながら、Yシャツを思い切り引っ張って女から逃れようとした。
「誰かぁ、この人盗撮してたんです! 誰か捕まえてぇ!」
すると、ちょうど降りようとしていたラガーマンみたいな体育会系のマッチョなサラリーマンにタカシはがっちりと捕まえられてしまった。
ドア近くで、もみ合いになった。
男も、水泳をやっていたから、体力には自信があった。
相手も放そうとしないので、すきをついて、頭突きを食らわしてやったが、男はひるまず逆にパンチを繰り出してきたので、殴り合いになった。
すると、誰かが通報したのだろう駅員が、二、三人やってきて、羽交い絞めにされ車内から引きずり下ろされるや、腕をねじられたまま、プラットホームにうつ伏せに寝かされた。
もうこれで、すべては終ったと思った。
正義感の強い馬鹿サラリーマンが、恨めしかった。殺してやりたいと思った。
これで、おれの人生も終わりだと思うと、血の気がひいてきた。あたりは、騒然とし、幾重もの人垣の靴だけが視界に入ってきた。
だが、じきにハレーションを起こしたように真っ白になって何も見えなくなった。
やがて、床から起こされ、立ち上がってズボンに付いた汚れを片手ではたき落としながら、タカシは言っていた。
「もう逃げませんから。ちょっと汚れを取りたいので、手を放してもらえませんか」
「このシャツ高かったんですよ。アルマーニですから」
凶悪犯でもないわけだから、それで駅員は諒解し手を放してくれた。チャンス到来。男がこの好機を見逃すはずもない。
男は、脱兎の如く真一文字に駆け出した。
電車が入線してくる音が聞こえてくる。
アスリートのように風を切って男は走った。
だが、もうすぐ捕まる。
恐怖が襟足のあたりに爪をかけ、息をふきかけてくる。階段を駆け上がるか、このまま突っ走るか。
男は、自由を選んだ。
轟音とともにホームに入ってくる電車に向かって、真横に飛んだ。
と同時に一切の音は消え、滑らかにおそろしく緩やかな横移動がはじまる。
そして、哀しみも喜びもすべてを超越してしまったかのような透明な世界が現われると、やがてゆったりとした静謐な音楽が聞こえはじめた。
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