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#112 真希
しおりを挟む忘れた頃、音を立てて飛び跳ねては波間に消える小魚を見て、娘のサトが手をたたいて喜んだ。
ぼくたちは、小さな桟橋にしっかりとロープで結わえられた小舟と共に、静かにたゆたっている。
波頭をひしゃげさせて、向こう岸からこちらへと一陣の風が吹き渡ってくると、一呼吸おいて、ほっとするような微風がどこからともなく湧き起こり、ふわりと髪をなぶってゆく。
ポニーテールにしてもらったサトの後れ毛が、金色に輝きながら微かに震えているのがわかる。
さあ、出航だ。
ぼくには櫂がないけれども、きょうもサトとふたりして悠久の大河へと漕ぎ出すことにしよう。
いつしか小舟は沈む夕陽に溶け込むように、音もなく滑りはじめる。
どこまでも真っ赤に燃えてゆく川面は、あるいは火口から噴き出した溶岩のように、それ自身が発光しているのかもしれなかった。
川べりを、子犬が追いかけては吠え、追いかけては吠えしてついてくる。
ぼくは敢えて幻想をとめないことにした。するとサトのすわっているはずの場所には真希がいるのだった。
そう。昨日はサトの座っているこの場所には確かに真希がいたのだ。
その時には小舟は世界に向けて漕ぎ出しはしなかったし、風もまったく凪いでいた。
真希は川面に手を浸したまま、なにも言わなかった。その透けるように白いうなじが、痛々しいくらい美しかった。
なにも見ず、なにも語らず、このまま時がとまってくれたなら……そう思った。
でも、とうとう耐え切れず、精一杯のさりげなさを装って、ぼくは声を絞り出していた。
「彼氏さんて、どんなひと?」
「やさしいよ。かわいそうなくらい」
真希は手の平を丸めて水を掬いあげると、徐々に手の平をひろげ指の間からさらさらと逃げてゆく水のさまをじっと見つめている。
「水って不思議だよね。どんな形も拒まない」
そういって真希は濡れた手をもてあましたようにひらひらさせると、ゆっくり顔に近づけてゆく。
「無味無臭ってどういうことなのかな」
「え、どういうことって?」
「だから、自分本来の形ってものがなくって、色もない。それになんの味もしなくって匂いもない。それって、なあんだ?」
「水とか、空気とか?」
「そう、水と空気。この世のすべてのものには色も形もあるのに、これっておかしくない? 色や形が個性をつくりあげるのに。水と空気には色も形もないのにとっても個性的だし。てゆうか、なによりもなくてはならないもの。これって変だよ」
「おもしろいこというね。いつからそんなふうに考えてるの?」
「いつからって……いまよ」
真希はふと空を見上げる。
「あのね、このごろよく思うんだけど、人ってそれぞれ色々な悩みとか苦しみを抱えて、生きてるわけでしょ。私にもむろん悩みはある。でもそういう想いや悩みって言葉にしないとわかってもらえない。だけど、それは確実に私の内に存在している。逃げても逃げてもどこまでもついてくる。あたりまえよね、悩みの発生源は私自身なんだから。ねえ、どうしたら抜け出せるの? どうしたらこの苦しみから解放されるの? 変なことばかり頭に浮かんできちゃって……そんなときには、もうリスカなんかじゃすまないの、この身をすべて切り刻みたくなる」
なんとも形容しがたい光を湛えた真希の眸のなかに、その真希の見ている闇を垣間見たような気がして、ぼくは一瞬身震いを覚えた。
いったい真希のなかでなにが起きているんだろう。
ぼくには話を聞いてあげることくらいしか出来はしないけれど、なんとかして真希を苦しみから救ってあげたいと思った。
そうしてぼくは、真希の豊かな黒髪に、そっと手を伸ばした。
けれど……その手は……真希に触れることなく、固く閉じるように握られただけだった。
真希に触れてはいけないとぼくは自分を厳しく律している。一線を越えてしまったならばもう終わりだからだ。
サトの笑い声が聞こえ、真希の幻は昏れなずむ冬空に溶け込むように消えていった。
真希のことが好き。その気持ちだけはとめることは出来ない。
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