113 / 216
#112 真希
しおりを挟む忘れた頃、音を立てて飛び跳ねては波間に消える小魚を見て、娘のサトが手をたたいて喜んだ。
ぼくたちは、小さな桟橋にしっかりとロープで結わえられた小舟と共に、静かにたゆたっている。
波頭をひしゃげさせて、向こう岸からこちらへと一陣の風が吹き渡ってくると、一呼吸おいて、ほっとするような微風がどこからともなく湧き起こり、ふわりと髪をなぶってゆく。
ポニーテールにしてもらったサトの後れ毛が、金色に輝きながら微かに震えているのがわかる。
さあ、出航だ。
ぼくには櫂がないけれども、きょうもサトとふたりして悠久の大河へと漕ぎ出すことにしよう。
いつしか小舟は沈む夕陽に溶け込むように、音もなく滑りはじめる。
どこまでも真っ赤に燃えてゆく川面は、あるいは火口から噴き出した溶岩のように、それ自身が発光しているのかもしれなかった。
川べりを、子犬が追いかけては吠え、追いかけては吠えしてついてくる。
ぼくは敢えて幻想をとめないことにした。するとサトのすわっているはずの場所には真希がいるのだった。
そう。昨日はサトの座っているこの場所には確かに真希がいたのだ。
その時には小舟は世界に向けて漕ぎ出しはしなかったし、風もまったく凪いでいた。
真希は川面に手を浸したまま、なにも言わなかった。その透けるように白いうなじが、痛々しいくらい美しかった。
なにも見ず、なにも語らず、このまま時がとまってくれたなら……そう思った。
でも、とうとう耐え切れず、精一杯のさりげなさを装って、ぼくは声を絞り出していた。
「彼氏さんて、どんなひと?」
「やさしいよ。かわいそうなくらい」
真希は手の平を丸めて水を掬いあげると、徐々に手の平をひろげ指の間からさらさらと逃げてゆく水のさまをじっと見つめている。
「水って不思議だよね。どんな形も拒まない」
そういって真希は濡れた手をもてあましたようにひらひらさせると、ゆっくり顔に近づけてゆく。
「無味無臭ってどういうことなのかな」
「え、どういうことって?」
「だから、自分本来の形ってものがなくって、色もない。それになんの味もしなくって匂いもない。それって、なあんだ?」
「水とか、空気とか?」
「そう、水と空気。この世のすべてのものには色も形もあるのに、これっておかしくない? 色や形が個性をつくりあげるのに。水と空気には色も形もないのにとっても個性的だし。てゆうか、なによりもなくてはならないもの。これって変だよ」
「おもしろいこというね。いつからそんなふうに考えてるの?」
「いつからって……いまよ」
真希はふと空を見上げる。
「あのね、このごろよく思うんだけど、人ってそれぞれ色々な悩みとか苦しみを抱えて、生きてるわけでしょ。私にもむろん悩みはある。でもそういう想いや悩みって言葉にしないとわかってもらえない。だけど、それは確実に私の内に存在している。逃げても逃げてもどこまでもついてくる。あたりまえよね、悩みの発生源は私自身なんだから。ねえ、どうしたら抜け出せるの? どうしたらこの苦しみから解放されるの? 変なことばかり頭に浮かんできちゃって……そんなときには、もうリスカなんかじゃすまないの、この身をすべて切り刻みたくなる」
なんとも形容しがたい光を湛えた真希の眸のなかに、その真希の見ている闇を垣間見たような気がして、ぼくは一瞬身震いを覚えた。
いったい真希のなかでなにが起きているんだろう。
ぼくには話を聞いてあげることくらいしか出来はしないけれど、なんとかして真希を苦しみから救ってあげたいと思った。
そうしてぼくは、真希の豊かな黒髪に、そっと手を伸ばした。
けれど……その手は……真希に触れることなく、固く閉じるように握られただけだった。
真希に触れてはいけないとぼくは自分を厳しく律している。一線を越えてしまったならばもう終わりだからだ。
サトの笑い声が聞こえ、真希の幻は昏れなずむ冬空に溶け込むように消えていった。
真希のことが好き。その気持ちだけはとめることは出来ない。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

体育座りでスカートを汚してしまったあの日々
yoshieeesan
現代文学
学生時代にやたらとさせられた体育座りですが、女性からすると服が汚れた嫌な思い出が多いです。そういった短編小説を書いていきます。
【Vtuberさん向け】1人用フリー台本置き場《ネタ系/5分以内》
小熊井つん
大衆娯楽
Vtuberさん向けフリー台本置き場です
◆使用報告等不要ですのでどなたでもご自由にどうぞ
◆コメントで利用報告していただけた場合は聞きに行きます!
◆クレジット表記は任意です
※クレジット表記しない場合はフリー台本であることを明記してください
【ご利用にあたっての注意事項】
⭕️OK
・収益化済みのチャンネルまたは配信での使用
※ファンボックスや有料会員限定配信等『金銭の支払いをしないと視聴できないコンテンツ』での使用は不可
✖️禁止事項
・二次配布
・自作発言
・大幅なセリフ改変
・こちらの台本を使用したボイスデータの販売

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

会社の上司の妻との禁断の関係に溺れた男の物語
六角
恋愛
日本の大都市で働くサラリーマンが、偶然出会った上司の妻に一目惚れしてしまう。彼女に強く引き寄せられるように、彼女との禁断の関係に溺れていく。しかし、会社に知られてしまい、別れを余儀なくされる。彼女との別れに苦しみ、彼女を忘れることができずにいる。彼女との関係は、運命的なものであり、彼女との愛は一生忘れることができない。
【⁉】意味がわかると怖い話【解説あり】
絢郷水沙
ホラー
普通に読めばそうでもないけど、よく考えてみたらゾクッとする、そんな怖い話です。基本1ページ完結。
下にスクロールするとヒントと解説があります。何が怖いのか、ぜひ推理しながら読み進めてみてください。
※全話オリジナル作品です。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる