パサディナ空港で

トリヤマケイ

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#95 アリ、或いは赤銅色のカタパルト

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 午後の陽射しを浴びて、赤銅色のカタパルトが異様に大きく見えた。
 見晴かす大海原は、スローモーションでのたくるアメフラシのように、まどろっこしい。

 慧(ケイ)は日がな一日、この小高い丘の草むらに寝っころがって、国道246号線を見ているのが好きだった。

   でも、慧のそれは、ちょっとふつうではない。慧は、ちょうど、コルコバードの丘からリオの街を見るようにして、ルート246を見ているのだ。むろん、大海原などどこにもない。

 ちょっと見には、ただひなたぼっこしているとしか見えないのだが、その眼差しを見たならば、慧がしっかりと自分の役割を果していることが見てとれるはずだ。

 しかし、どうしたわけだろう。きょうはやけに車が少ない、と慧は思った。いつもならばウィーク・デイでも午後をすぎる頃には、軽く4桁に迫る勢いで伸びてくる数字も今日はまだ100にも満たない。

 慧は手持ち無沙汰に、いつのまにかうとうとしだした。小春日和の柔らかな光線が、否が応でも眠気を誘うのだった。

   慧は片目だけ開け、なんとか計測をつづけていたが、やがて手にしたカウンターをぽとりと落とすとともに小さくいびきを立てて、気持ちよさそうに寝入ってしまった。

  小一時間ほど経った頃、慧は救急車のサイレンに目を醒ました。

 まずい、つい気持ち良くって眠ってしまったと、むっくり起き上がり寝惚け眼(まなこ)で国道を見下ろすと、救急車は慧のいる小高い丘の真下に停まった。

   と、ぱらぱらと救急隊員が降りて来るや、担架を持って一斉に駆けあがってくる。


 慧は辺りを見廻した。むろん誰もいやしない。どうしたんだろうと、驚いている慧の目の前に4人の救急隊員たちがぬっと現われた。

「なに? どうしたんですか」

 と言いながら、立ち上がった慧を4人の男たちは囲むように立ち塞がり、じりじりとその輪を縮めてゆく。

 男たちは無言のまま。慧は呆気にとられ、思わず後ずさりする。

「いったいどうしたっていうんだ。おい、なんとか言えよ!」

 すると、いきなりわっと慧は取り押さえられ、白い拘束衣を無理矢理着せられてしまった。

「やめろ、おまえらはなんなんだ、冗談はやめろ!」

 と、声をあげ、じたばたと暴れまくる慧を男たちは事もなげに軽々と持ち上げ担架に乗せる。慧は尚も抵抗し、動き出した担架から転げ落ちた。

   すると、ひとりの男が手慣れた手つきで銀のケースから注射器を取り出すと、まったくの無表情のまま拘束衣の上から慧の左腕に注射針を突き立てた。

 慧の「やめろ!」という叫びの連呼は徐々に間隔があいてゆき、尻つぼみとなる。男たちは、ぐったりと腕を投げ出した慧を再び担架に乗せ、丘を下りはじめた。

 慧は朦朧とする意識のなかで、うっすらと目を開けてみた。

 そこには、おぼろげながら黒い影がふたつ見えた。そのふたつの影は何やら不思議な擦過音を発しながら、会話しているようだった。

   意識がようやくはっきりして来ても、何を喋っているのかさっぱりわからない。

 部屋は薄暗く、じめじめと湿った空気に満たされ、少し息苦しかった。拘束衣は脱がされているようだったが、身体の自由がきかない。どうやらベッドのようなものに括りつけられているようだ。

   そのせいか、手足が痺れ感覚がない。それに、妙な臭いが鼻をつく。なにか酸っぱい臭いだ。

 焦点の合わなかった視線がはっきりと象を結ぶようになると、この部屋には照明というものが一切ないことに気付いた。

   どこかに明かり取りの窓はないのかと、唯一自由に動かすことのできる首を回して辺りを窺ったが、そんなものもない。

    目を凝らしてよく見てみると、黄色っぽい壁自体が、青白い燐光をそこかしこから放ち、互いに反射し合い部屋中に……いや、部屋などという代物ではない。穴蔵みたいなところだ……充満しているのだった。

 慧は、この嫌な臭いを以前どこかで嗅いだことがあるような気がした。すえたような酸っぱいにおい……。

   そこで、はっと気がついた。蟻酸だ! そうだ、この臭いは蟻酸に違いない。そう気がつくと、慧は我知らず、幼い頃蟻を何十匹も殺したことを思い起こしていた。

 それは、まだ慧が小学校に上がるか上がらないかの頃のことだった。


 慧は食べたくもないガムを少しだけ噛み、未だ甘みの残るまま庭に吐き捨てて、そこに蟻が群がるのを待ってベンジンをふりかけ、マッチで火を点けるといった手の込んだ悪戯をして遊んだ。

 玄関先の玉砂利のなか、ほの暗い縁の下、あるいは、ヒマワリの植えてある赤土の上にと、慧はガムがなくなるまで、ベンジンの青白い炎のなかでちりちりとやかれる蟻たちを眺めては、面白がった。

 しかし、そこかしこに出来た黒こげのガムに立つようにして、あるいは幾重にも折り重なるようにして、ぺったりとへばり付いて離れない蟻たちの死骸の山を見て、自分の遊びのためにいともたやすく多くの蟻たちを殺してしまったことに、はじめて気がついた。

 生命の尊さを知らぬが故の残酷な仕打ちであったが、その行為の後で自分がどう感じ何を考えたのか今となっては知る由もないが、こんなときに妙なことを思い出したもんだと、慧は思った。

 と、そのとき突如身体にまわされていたベルトがゆるみ、身体が自由に動かせるようになった。ところが、そのベルトがどんどん大きく太くなってゆく。

   みるみるうちにベルトは巨大化し、あるいは慧自身が収縮したのか、終いにはベルトの穴は慧が通り抜け出来るほどに大きくなっていた。

 そればかりではない。ベッドに寝ていたはずの慧の周りには、白く荒涼とした平地が広がり、見はるかす遥か彼方には鈍色の光を放つ巨大な柱が4本、内2本は外側の2本よりも大分細かったが、それら4本の柱は、天をつんざくほどに居丈高に聳え立ち、遥か上空で1本の横木と垂直に交わっていた。

 すると、突然滝のような豪雨が降り出した。慧は首の骨がへし折れるほど強く雨に打たれ、仰向けに白い地面に叩きつけられた。

雨は強烈な臭気を放っていたが、あまりにも臭いが強すぎて嗅覚細胞はすぐにやられてしまい、何の臭いなのかわからずじまいだった。

 そしてまた、雨は異常に冷たく慧の体温を急激に奪い去っていく。慧は歯をがちがちと鳴らし膝を抱え震えていたが、降り出したときと同じように雨は突然あがると、辺り一面ずぶ濡れだったものが、嘘のように端から乾いてゆく。

 そのとき、頭上から大きな炎の塊が、慧の眼前へと落ちてきた。次の刹那、炎が一斉に上がった!

 慧は突如として覚った。さっきの雨は、雨などではなくベンジンだったんだと……。

 火だるまとなって、転げまわる慧の脳裏に走馬灯の如く、ある光景がフラッシュ・バックする。それは、遠い夏の日の思い出だった。





 慧は仲良しのシュンとケンジのふたりと、学校帰りに道草をしながら、ゆっくりと家に向かっていた。

 田んぼの青い稲穂が、どこまでも広がっていて風の吹く度に波打ち、まるで大海原を想わせた。

 慧たちは畔道(あぜみち)を歩いていた。
 と、風の動きとはまったく違う不自然な揺れ方をする一群の穂を見つけた。

「おい、あれなんだ?」

 不思議に思った慧たち3人は、知らず知らずそちらへと近づいていった。

 すると、先ず裸足の足の裏が見えた。それも4本の足。下の方の2本の足は白く小さい。上の2本は大きく毛むくじゃらだ。

 風に乗って、女の苦しそうなうめき声が聞こえてきた。

「なんだ? 首でもしめてんじゃないか」

 慧たちは、その異様な雰囲気に一瞬たじろいだが更に興味をかきたてられ、恐る恐るながらもそっと近づいていった。

 そして3人は見た。

 胸をはだけた若い女の上に男が乗っかり、腰を振っていた。男がその腰を打ちつける度に下の女は苦しそうな声を上げた。

 慧たちは、薄気味悪くて仕方なかったが、その場を離れることもできず、ただ、息を呑んで男と女の行為を呆然と見つめていた。

 慧のすぐ隣に這いつくばっていたケンジが言った。

「おい、やばいよ。あのままじゃ、あの女の人殺されちゃうぞ」

 慧は「うん」と生返事を返したが、そういうことじゃないんじゃないのかな、と思った。

   すると、ケンジは何かを拾い上げ、慧があっと思う間もなくそのふたりめがけて投げつけた。

 それは見事に男の背中に命中し、男が驚いて後ろを振り返った。

 そのとき、すでにケンジとシュンは脱兎の如く駆け出し、慧は逃げることも出来ずにその場にうずくまった。

 男はズボンを上げながら、「ばかやろう!」と大声を上げてケンジとシュンを追って走ってゆく。

  大人の足に子供のふたりが勝てるはずもない。すぐに、ふたりの泣き叫ぶ声が聞こえてきた。

 慧は、声のする方へと身体を起こし、稲穂の間からこわごわ覗いてみた。ふたりは、胸倉を掴まれ大きく揺さぶられていた。

   そして次の瞬間、頭と頭を思い切り鉢合わせさせられた。ごつんという鈍い音とともにふたりは、火の点いたように泣き出した。

 慧は我を忘れ、その場から飛び出すと、げんこつを振り上げている男に、つっかかっていった。

 慧の背丈は男の腰にも満たなかったので、勢い足に絡み付いた慧は、男の足を引っ張った。男は不意をつかれ、呆気ないほど簡単にどうっと前のめりに倒れた。だが、すぐさま「このガキ!」と言いながら飛びかかってきた。

 慧はあわやというところで身をかわしたものの、追い付かれ薙ぎ倒されるようにして地面に突っ伏した。そこへ男が馬乗りになると、髪を両手で鷲づかみにしてがつんがつんと地面に慧の顔を叩きつけた。

 意識の遠退くなかで、女の声がした。

「ちょっと、もうやめて。相手は子供じゃない」

 その声に男は慧の髪を放して言った。

「うるせえ、俺はこういうガキが大嫌いなんだよ、石まで投げやがって。いいか今度こんなことしやがったら、ただじゃすまねえぞ」

 そう、男は言い残し、慧から離れていった。

 慧は泣いた。流れ出る鼻血を拭いながら、口に入った土くれを吐き出しながら。

 しかし、その涙は痛みのためでも恐怖のためでもなかった。その涙は、自分の無力さを嘆いて流した悔し涙だった。





 ……そうか、そういうことだったのか。
 ベンジンの青白い炎のなかで焼けただれ、今まさに死に垂(なんな)んとする慧は、くずおれながら最期に想った。


 慧の残虐な暴力でねじ伏せられ無抵抗のまま死んでいった、あの蟻たちの無念さを……。
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