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#87 ピロシキ
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*月*日
「蒼い岸壁に粉雪が舞い降りる頃、ぼくらのほんとうの愛が、はじまるんだよ」
イワンはそういって、アナスタシアに冷えきったコロッケ(本当はロシアの雰囲気を少しなりとも醸し出せればと、消え物の小道具としてピロシキがほしかったのだけれど、商店街のお肉屋さんの前を通ったら、コロッケがどうしても食べたくなって逡巡する間もなく、ソッコウでコロッケを買ってしまっている自分がいて、たとえ重要な小道具であろうとも所詮は消え物であって、いずれ食ってしまうのだから、という考えが脳裏をよぎる。
つまり、実用性は芸術性に優るという教訓を得たのだった)を差し出すと、「アナスタシアよ、いまこそおまえと私が必ずや結ばれる運命にあることを立証してみせよう」と声高に宣言するのだった。
「いいかい、これから私はこの肉のいっぱい詰まった揚げたてのコロッケ、いやピロシキを空高く放ってみせる。もしこれが私に所有され食される宿命ならば、いかようなことが起ころうとも私はこのコロッケを、もといピロシキを食べられるに違いない。
そして私は、このピロシキが私に食される運命にあることを信じて疑わない」
イワンは、右腕を一閃させるとピロシキを空高く放った。ピロシキは青空に吸い込まれるようにしてスローモーションのごとく、ゆっくりと上昇してゆき、やがてその頂点に達して一瞬静止したかのように見えたその刹那、一陣の風の如く黒い影が舞い降りてくるや、ピロシキは忽然と姿を消してしまった。
口をあんぐりと開け、ピロシキの落ちてくるのをいまかいまかと待ち構えていたイワンは、目をひん剥いて驚いた。
「ウヲッ!」
「イワンさま。あれは魚ではございません。たぶんトンビかと」
「なにー! ナニヌゥネェノォォ! まあ、いい。ピロシキはまだ二個ある」
「まぁ。運命論者らしからぬ準備のよさですわね」
「いや。そういうことではないのですけれど」
ネフリュードフはふたつ目のピロシキを投げ上げた。そして、素早く落下地点に向け移動すると、顎がはずれるのではないのか思うほど口を大きく開けた。しかし落ちてくるであろうはずのピロシキは、発射された散弾銃の弾のように粉々に砕け散った。
「なんなんだ、これは?」
「ほんの偶然ですわ。ほら、そこの茂みの向こうには、クレー射撃場があるんですもの。流れ弾が飛んできたきたところで不思議でもなんでもありませんわ」
「しかし、それにしても見事に命中したもんだ」
「はい。もしかしたなら、ピロシキをクレーと間違えて撃ったのかもしれませんが……」
「そうだとしても、ううっ」
ネフリュードフはその場にくず折れた。
「ネフリュードフさま、どうなされたのですか?」
「いや。もう後がない……から(サマ~ズ大竹風)」
「そんなにピロシキのことを愛しておいでだったのですか」
「だから。そういうことじゃなくって」
「はい?」
「はいじゃなくって」
イワンは、意を決して第三のピロシキをビニール袋から取り出すや、半ばやけ気味にもう一度袋の中に突っ込み直し、やおらぐるんぐるんと大きく回転させた後、すっとその手を放した。
弾かれたように飛び出すイワンと、もうひとつの影。
美しい放物線を描いて落下してくるビニール袋の落下地点に、まっさきに到着したのは、イワンだった。だが、見事にキャッチしようとした瞬間、無常にも彼は前に突き飛ばされた。
イワンは、ムチウチ症になってはいやしないかと首を気遣いつつ、首を回さずに後ろを振り返る。
アナスタシアだった。
イワンは信じられないという眼差しで、カチューシャを見つめる。
「イワンさま、運命とは自らの手で掴み取るものなのです。待っていたのでは何ひとつ手にはいりませんわ。もうこれも運命と諦めていらっしゃるのでしょう? あなたの思考は手に取るようにわかりますの。どうしても手に入れたいものであったならば、力づくでも奪い取る、そういった気概がないようでは到底むりなのではないでしょうか。それを自分の思い通りにいかないならば、すぐに運命だからと諦めていらっしゃいませんか? それは逃避です。自分の都合のいいように運命の意味をはきちがえていっらっしゃる、そんなように感じます。わたしが奪い取ったこのピロシキのようにどうしてもほしいのならば、腕づくでお取りになればいいのに」
「それは運命に逆らうことになりはしないのだろうか?」
「ねぇ、イワンさま。運命とは自分で切り拓いてゆくものではありませんか」
イワンは咳払いし、肩をすくめる仕種をしてみせる。
「ところで。きみは忘れてはいないだろうか。いかようなことがあろうとも私はピロシキを食すと」
「はい。うかがいましたわ。では、まだ諦めたわけではないのですね?」
「諦めるも何も……」
「では、どうなさるおつもりですの? 私がこれを食してしまえばピロシキはなくなってしまいますけれど」
「そうです。食べられたならの話だけれども」
「まあ! 今度は心理作戦ですの? なるほど。わかりましたわ、イワンさまのお考えが。でも、あいにく私は、あなたのことを愛してはおりませんから、心理作戦は失敗ですわね」
イワンは力なく笑う。
「あなたに愛されてなどいないことを、私が知らないとでも思っているのですか」
「まあ! そんなことをおっしゃるなんて。イワンさまこそ、私ではなく私という存在の背景であるプロレタリアートという階級に、惚れこんでいるのではありませんか。卑賤なものを愛するブルジョア階級という図があなたにはたまらないのです。自分を貶めることに躍起になっているあなたは滑稽ですらあります。でも、頭の良いあなたはそれさえも計算ずくなのでしょう? 自分を汚し笑いものにすること、つまり己に罰を与えること、そこに喜びを感じているのです。そしてそれは、安っぽくて低劣な自己憐憫といったナルシシズムなどではなく、もっと高尚な贖罪といったものなのです」
アナスタシアの声はじょじょに震えはじめ、わけのわからぬ激情に囚われたのかいつもならば涼しげな眸は、不安の色を浮かべ、抜けるように白いはずの頬は、朱に染まっていて、自身も戸惑いを覚えているのがその眼差しにはっきりと見てとれた。
一旦解き放たれた感情の奔流はもう堰きとめることなどできなかった。アナスタシアは、我知らず声を荒げていた。
「ご自分に罰を与える、私はその道具ですか? この卑賤の民が、あなたにはどうしても必要なのでしょうね。どこの馬の骨ともつかぬ、けがらわしい生まれの私は、選ばれし貴種であるあなたをケガスためには恰好の材料ですもの。 あ。つまり、あなたに選ばれたということは、どれだけ私がケガレた忌避すべき存在であるのかの証明ですのね。あぁ、そうだったんだ。自分でもいまのいままで気付きませんでした。私は、あなたの自らを辱める高尚なご趣味のための、慰みものに過ぎないのですものね」
イワンは、すっとアナスタシアの前に歩み寄ると、無言のままその上気した頬を平手打ちした。
イワンは、美しい眸を見開いて驚いたが、じきに大粒な涙が頬を伝い落ちじめた。
「なにをなさるんです? 精神だけではあきたらず私の肉体までも、ずたずたに切り刻みたいのですか?」
イワンは何も言わず、大きく包み込むようにしてアナスタシアを抱きしめる。
「な、なんなんですか? 好きでもない女をよく抱けますね。それともまた憐れみですか」
アナスタシアの顔は涙で、もうぐしゃぐしゃになっている。
「いっそ、私に死ねとおっしゃってください、ただひとこと死ねと」
「わかりました。しかし、その前に腹がへりませんか?」
「まあ。忘れていましたわ。ピロシキを食べてからでないと死ぬに死ねませんものね。そして、私たちふたりは、絶対に結ばれる運命にないことを立証してみせないと」
アナスタシアは、ビニール袋からピロシキを取り出そうとして驚いた。それは、ピロシキなどではない、ただのタワシだった。
呆気にとられて何も考えられない様子のアナスタシア。その視線は、宙をさ迷っていたが、やがてゆっくりとイワンの眸をとらえた。その目は笑っている。
「ごめんなさい。つい言い出す機会を逸してしまって。ほら、このとおり本物のピロシキは、ここにあります。ね? だから言ったじゃありませんか、私は必ずピロシキを食すと」
アナスタシアは、どう答えたらいいのかわからない。
「それでは、と。ワインがほしいところですけれど、ふたりの未来を祝してピロシキを丸かじりってのもオツなもんでしょ?」
「ふたりの未来って?」
「きまってるじゃありませんか。ぼくたちは結ばれる運命にあるんですから」
「蒼い岸壁に粉雪が舞い降りる頃、ぼくらのほんとうの愛が、はじまるんだよ」
イワンはそういって、アナスタシアに冷えきったコロッケ(本当はロシアの雰囲気を少しなりとも醸し出せればと、消え物の小道具としてピロシキがほしかったのだけれど、商店街のお肉屋さんの前を通ったら、コロッケがどうしても食べたくなって逡巡する間もなく、ソッコウでコロッケを買ってしまっている自分がいて、たとえ重要な小道具であろうとも所詮は消え物であって、いずれ食ってしまうのだから、という考えが脳裏をよぎる。
つまり、実用性は芸術性に優るという教訓を得たのだった)を差し出すと、「アナスタシアよ、いまこそおまえと私が必ずや結ばれる運命にあることを立証してみせよう」と声高に宣言するのだった。
「いいかい、これから私はこの肉のいっぱい詰まった揚げたてのコロッケ、いやピロシキを空高く放ってみせる。もしこれが私に所有され食される宿命ならば、いかようなことが起ころうとも私はこのコロッケを、もといピロシキを食べられるに違いない。
そして私は、このピロシキが私に食される運命にあることを信じて疑わない」
イワンは、右腕を一閃させるとピロシキを空高く放った。ピロシキは青空に吸い込まれるようにしてスローモーションのごとく、ゆっくりと上昇してゆき、やがてその頂点に達して一瞬静止したかのように見えたその刹那、一陣の風の如く黒い影が舞い降りてくるや、ピロシキは忽然と姿を消してしまった。
口をあんぐりと開け、ピロシキの落ちてくるのをいまかいまかと待ち構えていたイワンは、目をひん剥いて驚いた。
「ウヲッ!」
「イワンさま。あれは魚ではございません。たぶんトンビかと」
「なにー! ナニヌゥネェノォォ! まあ、いい。ピロシキはまだ二個ある」
「まぁ。運命論者らしからぬ準備のよさですわね」
「いや。そういうことではないのですけれど」
ネフリュードフはふたつ目のピロシキを投げ上げた。そして、素早く落下地点に向け移動すると、顎がはずれるのではないのか思うほど口を大きく開けた。しかし落ちてくるであろうはずのピロシキは、発射された散弾銃の弾のように粉々に砕け散った。
「なんなんだ、これは?」
「ほんの偶然ですわ。ほら、そこの茂みの向こうには、クレー射撃場があるんですもの。流れ弾が飛んできたきたところで不思議でもなんでもありませんわ」
「しかし、それにしても見事に命中したもんだ」
「はい。もしかしたなら、ピロシキをクレーと間違えて撃ったのかもしれませんが……」
「そうだとしても、ううっ」
ネフリュードフはその場にくず折れた。
「ネフリュードフさま、どうなされたのですか?」
「いや。もう後がない……から(サマ~ズ大竹風)」
「そんなにピロシキのことを愛しておいでだったのですか」
「だから。そういうことじゃなくって」
「はい?」
「はいじゃなくって」
イワンは、意を決して第三のピロシキをビニール袋から取り出すや、半ばやけ気味にもう一度袋の中に突っ込み直し、やおらぐるんぐるんと大きく回転させた後、すっとその手を放した。
弾かれたように飛び出すイワンと、もうひとつの影。
美しい放物線を描いて落下してくるビニール袋の落下地点に、まっさきに到着したのは、イワンだった。だが、見事にキャッチしようとした瞬間、無常にも彼は前に突き飛ばされた。
イワンは、ムチウチ症になってはいやしないかと首を気遣いつつ、首を回さずに後ろを振り返る。
アナスタシアだった。
イワンは信じられないという眼差しで、カチューシャを見つめる。
「イワンさま、運命とは自らの手で掴み取るものなのです。待っていたのでは何ひとつ手にはいりませんわ。もうこれも運命と諦めていらっしゃるのでしょう? あなたの思考は手に取るようにわかりますの。どうしても手に入れたいものであったならば、力づくでも奪い取る、そういった気概がないようでは到底むりなのではないでしょうか。それを自分の思い通りにいかないならば、すぐに運命だからと諦めていらっしゃいませんか? それは逃避です。自分の都合のいいように運命の意味をはきちがえていっらっしゃる、そんなように感じます。わたしが奪い取ったこのピロシキのようにどうしてもほしいのならば、腕づくでお取りになればいいのに」
「それは運命に逆らうことになりはしないのだろうか?」
「ねぇ、イワンさま。運命とは自分で切り拓いてゆくものではありませんか」
イワンは咳払いし、肩をすくめる仕種をしてみせる。
「ところで。きみは忘れてはいないだろうか。いかようなことがあろうとも私はピロシキを食すと」
「はい。うかがいましたわ。では、まだ諦めたわけではないのですね?」
「諦めるも何も……」
「では、どうなさるおつもりですの? 私がこれを食してしまえばピロシキはなくなってしまいますけれど」
「そうです。食べられたならの話だけれども」
「まあ! 今度は心理作戦ですの? なるほど。わかりましたわ、イワンさまのお考えが。でも、あいにく私は、あなたのことを愛してはおりませんから、心理作戦は失敗ですわね」
イワンは力なく笑う。
「あなたに愛されてなどいないことを、私が知らないとでも思っているのですか」
「まあ! そんなことをおっしゃるなんて。イワンさまこそ、私ではなく私という存在の背景であるプロレタリアートという階級に、惚れこんでいるのではありませんか。卑賤なものを愛するブルジョア階級という図があなたにはたまらないのです。自分を貶めることに躍起になっているあなたは滑稽ですらあります。でも、頭の良いあなたはそれさえも計算ずくなのでしょう? 自分を汚し笑いものにすること、つまり己に罰を与えること、そこに喜びを感じているのです。そしてそれは、安っぽくて低劣な自己憐憫といったナルシシズムなどではなく、もっと高尚な贖罪といったものなのです」
アナスタシアの声はじょじょに震えはじめ、わけのわからぬ激情に囚われたのかいつもならば涼しげな眸は、不安の色を浮かべ、抜けるように白いはずの頬は、朱に染まっていて、自身も戸惑いを覚えているのがその眼差しにはっきりと見てとれた。
一旦解き放たれた感情の奔流はもう堰きとめることなどできなかった。アナスタシアは、我知らず声を荒げていた。
「ご自分に罰を与える、私はその道具ですか? この卑賤の民が、あなたにはどうしても必要なのでしょうね。どこの馬の骨ともつかぬ、けがらわしい生まれの私は、選ばれし貴種であるあなたをケガスためには恰好の材料ですもの。 あ。つまり、あなたに選ばれたということは、どれだけ私がケガレた忌避すべき存在であるのかの証明ですのね。あぁ、そうだったんだ。自分でもいまのいままで気付きませんでした。私は、あなたの自らを辱める高尚なご趣味のための、慰みものに過ぎないのですものね」
イワンは、すっとアナスタシアの前に歩み寄ると、無言のままその上気した頬を平手打ちした。
イワンは、美しい眸を見開いて驚いたが、じきに大粒な涙が頬を伝い落ちじめた。
「なにをなさるんです? 精神だけではあきたらず私の肉体までも、ずたずたに切り刻みたいのですか?」
イワンは何も言わず、大きく包み込むようにしてアナスタシアを抱きしめる。
「な、なんなんですか? 好きでもない女をよく抱けますね。それともまた憐れみですか」
アナスタシアの顔は涙で、もうぐしゃぐしゃになっている。
「いっそ、私に死ねとおっしゃってください、ただひとこと死ねと」
「わかりました。しかし、その前に腹がへりませんか?」
「まあ。忘れていましたわ。ピロシキを食べてからでないと死ぬに死ねませんものね。そして、私たちふたりは、絶対に結ばれる運命にないことを立証してみせないと」
アナスタシアは、ビニール袋からピロシキを取り出そうとして驚いた。それは、ピロシキなどではない、ただのタワシだった。
呆気にとられて何も考えられない様子のアナスタシア。その視線は、宙をさ迷っていたが、やがてゆっくりとイワンの眸をとらえた。その目は笑っている。
「ごめんなさい。つい言い出す機会を逸してしまって。ほら、このとおり本物のピロシキは、ここにあります。ね? だから言ったじゃありませんか、私は必ずピロシキを食すと」
アナスタシアは、どう答えたらいいのかわからない。
「それでは、と。ワインがほしいところですけれど、ふたりの未来を祝してピロシキを丸かじりってのもオツなもんでしょ?」
「ふたりの未来って?」
「きまってるじゃありませんか。ぼくたちは結ばれる運命にあるんですから」
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