パサディナ空港で

トリヤマケイ

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#64 黒のラブラドール

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*月*日

    ベッチンのような滑らかで冷たい光沢を身にまとった真っ黒なラブラドールが、一心に何やら見つめているのは、警戒のためだろうか、なにかに興味をそそられたせいなのだろうか、あるいは通りの角をまがってやってくるだろう主人を待っているかのようにも見える。

   あがったばかりの雨に濡れ光っている石畳の急な勾配や、遠く白く霞んでみえる山並み、朝市に集う人々の服装や交わされる言葉、色とりどりの果物やら、野菜、乾物、布地等々所狭しとならべられた露天の品々。それらいっさいがっさいの醸し出す空気が匂い立つような色香を感じさせた。

   官能の光の凝縮された一瞬の生の煌めきのような教会の鐘の音が風に乗って運ばれてくるその直前に、ラブラドールはむっくりと起き上がるや、鐘の音に合わせるようにして高く低く吠えつないでゆくのだった。

 公園では、棕櫚の木陰のベンチで母親たちが、時間を忘れておしゃべりしているあいだ子供たちは冒険ごっこをはじめたようで、太い古タイヤのゆるやかに蛇行する長いトンネルや、ダムみたいなセメントの大きな滑り台、そして天蓋付きの砂場へと次々と世界を拡大してゆきながら、少しずつ少しずつ母親たちから遠ざかっていく。

   それでもフライパンの上で爆ぜるポップコーンのように弾け散る歓声が、公園内に木霊している内はよかったものの、やがてなんの前触れもなくいきなりはしゃぎ声の残響を残して、ぷつりと声がとだえてしまうと、それまでののどかで牧歌的な雰囲気は一気に消し飛んで、わが子の名を叫ぶように呼びながら母親たちが、あたりを駆けずり廻りはじめる。

   だが幾らもしない内にそこかしこから顔をのぞかせた子供たちが、かくれんぼしてるんだからまだ帰らないと怒ったように口々に言うので、胸をなでおろした母親たちは再び話しはじめ、義経千本桜のすし屋の段がどうたらこうたらとか、デュアルプロセッサだからちがうのよね、とか、果ては馬頭星雲の話や、パラアミノ安息香酸というのが欠乏するとネズミなんて白毛化がおこるらしいわよ、なんてわけのわからない話まで飛び出して来て、あらもうこんな時間、たいへん! と、誰かが言い出すまでおしゃべりは果てることなく、この世が果てることはあっても、おしゃべりは止まらないといった調子で延々とつづくのだった。
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