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あゆみとあゆむ6

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ψ09

 あゆむは国分寺のアパートに戻ってくるとすぐにノートパソコンに向かった。

 病院からの帰りの電車で急に書きたい気持ちが昂じてきてどこにも寄らずに急いで帰ってきたのだ。

 なんでもいいから、とにかく書きなさい。日記でもいいから———と、医者に勧められるままに、書き出したものは、小説みたいなものだった。

 みたいなものだというのは、いわゆる現実のことを書いているのではないということであって、フィクションにはちがいないが、ストーリー性を濃厚に持っているようなものでもない。

 ただ書くままに浮かび上がってくるイメージを、文字に置換していっただけである。なぜかイメージは次から次へと苦もなく湧き出で、あたかも見たことのある現実の再現であるかのような錯覚すら覚えた。

 あるいは夢の中で、繰り返し繰り返し刷り込まれたのであろうか。画面のなかで点滅するカーソルを見つめながら、あゆむはそんなことを考えていた。

 書くこと自体には、それほどの魅力を覚えるわけではなく、書くという行為の合い間、合い間の切れ切れの思考が夢見心地へと誘うのだ———なんて格好つけていいたいが、それどころではない。すらすらと先に進めて怖いくらいなのだった。

 バタンとドアの閉まる音がして、いつものようにあいつの好きなパット・メセニーのギターの音が聞こえ出してから、もうどのくらい経っただろうか。あゆみはその音を子守唄にベッドで眠ってしまったのだった。

 大きく伸びをして、枕もとの時計を見ると、既に五時近く。ということは二時間ほど眠ったらしい。

 そこでやっと気がついた。音楽がやんでいる。しまったと思って壁に耳を押し付けようとしかけた時、あいつの部屋のドアが開く音がし、つづいてドアを閉めて鍵をかける音が聞こえた。

 たぶんまたパチンコにいくのだ。以前、あいつとちょうど通路で一緒になったことがあったのだが、そのとき、パチンコの景品ですけど、よかったらといって、チョコを大量にもらったことがあった。

 あゆみは、あと五、六時間はだいじょうぶと、ひとりごちる。

 安心した。

 というのも、この頃やけにぼうっとしていることが多いと友達に指摘され、自分でもそれを自覚しながら、どうしようもなくぼうっとしつづけてしまうことから逃れられないばかりか、逆に努めてそういう自分を演出してしまう傾向が見られ、ものを考えるということに背を向けて、ひたすら馬鹿になろう———皺や襞のまるっきりない、つるつるの大脳を目指して日夜奮励努力しよう———としているのではないかと思われもし、思考力、判断力、決断力、精神力、生命力、生活力、学力、戦闘力、労働力、発言力、精力、抵抗力、能力、聴力、視力、知力、体力、活力、魅力、筋力、筆力、統率力、反発力、迫力、想像力、脚力、政治力、構想力、購買力、眼力、権力等等、力という力ことごとくを欠いた全くの無気力な木偶の坊と化しつつあるのではないかと、内心危惧していたのである。

 だから、あいつを見張っているつもりが、いつの間にやら寝入ってしまうことも度々だけれど、ふと目を醒ましたのは、あのカタカタがやんだからではないか ———と考えるとすると、自分もまだイケるのではないか、決して死に体などではないのではないのかと、少しばかり晴れやかな気持ちになれたのだった。

 ———と、そこで時計に再び目を遣ると、あいつが出て行ってからもう十分も経っていた。言わんこっちゃない。またぼうっとしていたのだ。

 まずいまずいと、ベッドから重い腰を上げ、計画通り今日こそ決行しようと廊下に出ると、あいつの部屋にするりと忍び込んだ。あいつが無用心にも常にドアの郵便受けの中にガムテープでスペアの鍵をとめてあるのを、あゆみは知っていた。

 自分でも鍵をなくしたり、鍵を持たずにドアをロックしてしまった際のために鍵をどこかに隠しておこうかと考えたことは、過去にも何度かあった。

 いま住んでいるアパートではなく、以前に住んでいた中目黒のアパートでのことなのだけれど、深夜共同のトイレに行こうとドアを開けた際に、意識することなくドアノブのロックボタンを押してしまい、しまったと思いながらも既にドアを閉めていたということがあった。

   これには、ほんとうにまいった。夜明け前の二時頃であり、夏だからまあよかったものの、ドア前に座って朝になるのを待つしか手はなかった。とてもそのまま外出できるような格好ではなかったのだ。

 きっとそれに似たことがあいつにもあったのだろうと、鍵の秘密の隠し場所を知った時、あゆみは苦笑いした。

 あゆみは、脱いだ靴を行儀よく揃えてから、あいつの部屋に上がり込んだ。六帖一間だから、間取りも何もないが、自分の部屋とはだいぶ景色が異なって見えた。

   押入れの位置と台所の流しの位置がそれぞれ逆になっている。窓の位置も違う。

  しかし、そういった異なる部屋のつくりや調度品の違いから生じる違和感も確かにあるのだけれど、それよりもなによりも、誰もいないが故の圧倒的な存在感とでもいえばいいだろうか、ひっそり閑と静まり返った空間は空っぽなどではなく、確実に何者かが存在し、こちらを凝視し続けている———ような気がして仕方がなかった。

 あゆみはそれでもひるまず、デスクの上のノートパソコンを見つけると、すぐさま電源を入れてディスプレイを覗き込んだ。

   あいつが引越しして来てから住人が寝静まった深夜あるいは、住人の出払った日中に隣の部屋から聞こえてくる音楽はなんだろうと壁に耳を押し当てて必死に聴き取っていると、音楽とは別に間断なく聞こえてくるカタカタという乾いた音がパソコンのキーを叩く音だと気付いた時から、いったい何を書いているのだろうといてもたってもいられないほどに、見たくて見たくて仕方なかったのだ。

 むろん、それは隣人の相貌を見知った上でのことであり、つまりファースト・インプレッションは非常に好ましいものだった———というわけだ。

 マイドキュメントを開くまでもなく、デスクトップ上に、それらしきショートカットのフォルダが見つかった。あゆみは、それをWクリックし、頭から読み始めた。それは小説のようだった。

 偶然だろうか、驚いたことに自分と同じ名前の人物が登場している。郵便受けのプレートに姓は記されてあるものの、名は知るはずもないのだから、この物語の中の人物は自分ではないなと考えると、ちょっぴり寂しい気もした。

 現実の自分でなくとも、自分をモデルにしたとか、名だけ使われたとか……そんな風に想像してみると愉しかった。

「いやあ、初めて見かけた時から綺麗な人だなあと思いましてね」

「まあ、お上手ね」

「いえ、ほんとうですって。まわりの男性が放っておかないでしょうね、その美貌では」

「とんでもありません」

「まったくうらやましい限りだな、あなたの愛を一身に受けてらっしゃる男性は」

「いえ、そんな……」

「え? だって、いらっしゃるでしょう?」

「いえ、今は……」

「そうなんですか! じゃ、ぼくも早速、あなたの取り巻きの中の一員に加えさせてくださいませんか」

「そんな……取り巻きなんていませんから」

「またまたご謙遜を。でも、あれですねぇ。どうしたって、その美しさがアダとなって険のある顔だとか言われかねませんものね。いやぁ、そう考えてみると、どうしてどうして美し過ぎるというのも、たいへんなことなんですねぇ。どれほど同性から嫉妬や誹謗、中傷をお受けになっていられるやら……。殊に女性は同性に対しての敵愾心というものは、生半可なものじゃありませんからねぇ。一度それにはまったらもう、鬼ですね、丸っきりの鬼ですね、あれは。筆舌に尽くし難いほどの狂態を眼前にしたら誰しも恐怖のどん底へと突き落とされるでしょう。地獄ですよ、まさに生き地獄。……あ。いやぁ。すいません、こんなこというつもりではなかったんですが、……その」

「ずいぶん、ご苦労なさったんですね」

「うっ、う。……面目ない」

 あ、いけない。またぼうっとしながら空想してしまった。あゆみは、液晶ディスプレイに浮かび上がる字面に再び目の焦点を合わせようと試みるものの、いっかな合焦しないのだった。

   あげくの果ては、花粉症が出たときのように目が痒くなりはじめ、読むどころの話ではなくなってきたのだが、それでもなんとか読み進んでゆくうちに、徐徐に表情が青ざめていった。

 ここに書かれているあゆみとはまさしく自分のことであり、あいつこそが自分というキャラクターを作り上げた当の本人であったのだ。

   とうとう見つけたと思った。犯人はあいつだったのだ。しかし、どうにもこうにも目が痒くて仕方なかった。読み進むにつれ、痒みは増幅してゆくようなのだ。

 あゆみはどうしてまた急にといぶかしんだが、痒いものは痒いのであって、どうしようもない。

   少しだけなどと甘い言葉に誘われるがまま、ついつい気持ち良さに負けてひっかこうものなら,目もあてられぬほど腫れ上がってしまうのは、目に見えている。

 ここは、じっと我慢するしかないのだと、自分に言い聞かせ、目を瞑り、両手をなるべく顔から遠ざけるようにして足の方に伸ばし、深呼吸する———なんてやってらんない! もう痒くて痒くてぐりぐりとかきむしりたい! 

   これを我慢するなんて発狂しちゃう。もう! 頭をかきむしり、その場に倒れ伏して、手足をばたつかせ、首をふり、文字通り七転八倒する。

   そんなことをしてもむろん痒みは去る気配すらなく、今度は壁へと身体ごと突進し、ショルダーアタックをぶちかます。いったんはずるずるとその場にくず折れたものの、やがて決然と起き上がると、正座してまっすぐ壁に向き直り、額を壁に打ち付けはじめる。

 容赦なく等間隔にゆっくりと。やがて規則性は失われてゆき、打ち付けるのを止めるのかと思われるほど間遠になった後、不意に連打がはじまった。

   皮膚は裂け、白い壁も鮮血で汚れてゆく。それでもなお歯を食いしばり、血をしたたらせ真一文字に壁めがけて頭突きを食らわせるうちに、なぜこんなことをしているのかという思いが、ふとよぎる。

 しかし、もうそんなことはどうでもいいのだ。もう誰にも止められない。意識が遠退いていくのが気持ちいい。意識が遠退いていくのが気持ちいい。意識が……

 ———けっ、死ぬまでやってろ!
 こちとら目が痒いんでい! 痒くて痒くて意識が遠退いてゆくのが気持ちいい、わけねーだろが。

 しかし、そうこうしている内に、ふと気がつくと痒みが全くなくなっているではないか。

   痛みでも、歯痛などでは不意に痛みが去ると、ぽっかりと穴が開いたような何か拍子抜けした感じを覚えるものだが、痒みの場合は、それとは異なりそういった感覚が残らないのは何故だろうか。

 気も狂わんばかりの激痛を伴う歯痛は突き抜けるような外への直線的な痛みだけれども、痒みの方は、螺旋を描いて底なし沼に求心的に向かう蟻地獄のようなこもるような類いのものではないだろうか。

 あゆみは、痒みの去った安らぎの中で、そんなことを思い浮かべると共に、大胆にもある決心をしていた。

 それは、あいつの書いているものに手を加えてしまうというものだった。勝手に書き進めてしまおうというのだ。

   そう、これこそが破壊だ。あいつの書いた世界を破壊してやるんだ。それもそうとわからぬように微妙な匙加減で。

 あゆみは、意を決してラップトップに向かうと、キーボードを叩き始めた。       

   そして、時間の経つのも忘れて、カタカタと一心不乱にあいつのキーボードを勝手に打っていると、隣の204に誰かがやってきて、ドアが開く音が聞こえてきた。

 すると、あゆみは、なにやら不意に胸騒ぎを覚えラップトップの電源も切らずに、外へと飛び出し、自分の部屋である206へと逃げ帰った。 

 あゆみの勘は、当たっていた。その誰かさんは、再び204から出てきたと思ったら、鍵をがちゃがちゃいわせて開錠し、あいつの部屋である205へと入っていったのだ。あいつは間違えてひとつ隣の部屋へ入ってしまったのだと、あゆみは思った。

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