パスティーシュ

トリヤマケイ

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川崎市夜光編

天井桟敷爪弾き

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「そんなはずないじゃない」

「いや、あの甲高い声は間違えようがないよ」

   通りを隔てた向い側にハンズが見えるルノアールで、些細なことからふたりは口喧嘩をはじめる。ふたりの座っている席からだいぶ離れた席に着いた一団のなかに、こちらに背をむけているので顔は確認できないけれど、甲高く特徴のある声の男がいて、彼はそれをあの寺山修治に違いないと言い、彼女はそんな馬鹿なはずはないと言張るのである。


    確かに寺山修司が令和に生きているはずもないのだが、彼にはあの天井桟敷の寺山が蘇ったとしか思えなかった。ふたりは互いに譲らず、やがて彼女は口を閉じそっぽを向いてしまう。

   その口論のせいで気まずくなり、折角のデートが台無しになってしまったことを今でも彼は、はっきりと記憶しているのだが、似たようなケースでもないのに今またなぜ思い出したのかをいぶかしんでいる。

   思うに、現象面では今置かれている状況とさしたる類似はないものの、彼女たちの降って湧いたような不機嫌さは、女としての矜持を傷つけられた、ということの現れなのだろうか。

   ま、いずれ、ムカつくなんらかの言動をとってしまったということなのだろうけれど――こちらのそんな超然としたところが、相手の癇に障るのかもしれないが――「あの人はいいひとよ」と呼ばれるよりは、相手を傷つけてしまうことになろうが、「自分に正直にふるまいたい」――と彼は思うのだ。


   気まずくなったふたりは、嵐の前の静けさのように会話のないまま、座っている。口論の因となった一団は、ふたりを置き去りにして店から出ていってしまう。

   彼は諦めきれないないのか、階段を降りきって通りを右に折れ姿を現すはずの一行を待って、窓から下を眺めやる。

   だが、予期に反して姿は見えず、ということは――ここからは見えないけれど寺山は、左に折れて渋スタに向かったのではないか――追いかけていき、背中に「毛皮のマリー」と言葉の礫を投げつけてやりたかった。

   彼は〔シャーラインが一致して解錠する仕組みのシリンダ錠のように、ぼくらもカチリという音とともに眼前に異なる世界が開ければいいのに〕なんて都合のいいようにはいかないことを承知していたけれども、そう願わずにはいられなかったのは、激しくなった雨足にいよいよ濡れそぼる街を見遣りながら、ふたりの行く末に思いを馳せたからだった。

   だが、そんなことを殊更思い出してしまうのは、やはり歳を食ったせいだろうかと内心密かに苦笑いし、別れ話を持ち出す事すら面倒なほど疲れきっている自分に途方に暮れつつ、今日こそは引導を渡さなければと自分を励ますのだったが、彼女の泣き顔が目の前にちらつき、どうしても別れる事を先送りにするという安直な選択に身を任せてしまうのだったが、むろんそれは、相手を傷つけたくないというのではなく、単にもうどうでもいいからだった。

   彼女は彼女で別れが避けられないことであることはわかっていて―― わかっているからこそ(必死に)――しがみついているに過ぎなかった。

  あの後、ふたりはどうなったのだったか。わだかまりをもったまま、その日は別れたのだろうか。彼の記憶は、ルノアールの店内でぷつりと途切れてしまう。

   そして彼は、たぶん二百万光年前の光を浴びながらディスプレイを見つめている少年を想い浮かべる(むろんそれは彼自身なのだろう)。アンドロメダ銀河がゆっくりと回転しながら、近付いたり遠退いたりしているスクリーン・セイバ。

   だが、やがてそれはケンタウルス座のオメガ星団から、ペルセウス座の二重星団へ、そしておうし座のスバルへと陽炎のように虚ろに移ろってゆき、次いで暗転すると今度はじわじわと滲むように、少年自身の静止画像が浮かび上がってくるや、カチリというクリック音と共に画像が動きはじめる。


   ゆらゆらと揺れる花陰の向こうに男が独り、うつむき加減にたたずんでいる。濃紺のスーツを着ている彼の後方には、ぼろぼろに腐蝕したドラム缶(を半分に横から切断したもの)があり、雨水が溜まっているのだろう、その上で気忙しげに蚊柱が震えている。戸板の隙間や節穴から洩れさす光の紗幕のなかで、埃の粒子たちはダイアモンドの輝きにも似て、きらめきながらうねるように対流している。

   ディスプレイの中の少年はその節穴のひとつから、外を飽かずに覗き見ているのだが、男は相も変わらずうつむき加減のままひっそりとたたずんでい、動きのあるものといえば、蚊柱ぐらいなものだが、少年はこれから起こるであろうことを心待ちにするかのように――それが何度も何度も繰り返されるので全てを知悉しているかの如く(ということは、彼はこの映像を以前にも見たことがあるということだが)――まんじりともせずに節穴を覗き込んでいて、やがてお約束のようにドラマがはじまるのか、と彼が思った刹那、上手からドラム缶をよけてブースカの着ぐるみを着た人物が登場して来ると同時に、件の男はおもむろに右の掌を手鏡を覗くように顔の前に掲げると、指折りながら、なにやら数えはじめる。ブースカの着ぐるみの人物は、音もなくその彼の背後に忍び寄り、そっと肩に手を置く――と、彼は飛び上がるほど驚いて(そのあまりにも不自然な演技に赤面しかけたが、実のところそれが狙いなのかもしれず、となると、当然そこにあざとさが要求されるわけであって、そのあざとさが一服の清涼剤とは全く逆の豚の背油のようなギトギトしたあだっぽさを放っていて、調和と不調和あっての大調和とすれば、それはそれでたいへん結構なことに違いないが)、ゆっくりと(それこそ五分ほどかけて)後ろを振り返る(ものだから、見ている彼としても殆ど動いていないように思われ、この映像は中断を繰り返しつつ進むのかと首をひねったのだが、しかし、ここではカット割りはせずにワンシーン、ワンカットの長回しを用いているため、どうしたって視野に入ってくるのだけれど、信じがたい超微速度で動いていることがわかると、それからは息の詰まるような思いで)、その彼の気の遠くなるような忍耐力と集中力を慮って食い入るようにディスプレイを見つづけ、首のひねりがいよいよ限界に達すると、次いで腰を軸に上半身の回転がはじまったのだけれど、ついにすべての動きが終了したときには、着ぐるみの人物は、既にブースカの被りものをとってうまそうに紫煙をくゆらせながら、あらぬ方向を見つめている。


   以上を節穴から覗き見ていた少年は、こちらを振り返りニヤリと笑い、ディスプレイを見つめていた少年もニヤリとしながら振り向いて、こちらに片目をつぶってみせたが、そこで彼は思わず破顔してしまいそうになったのを咳払いしてなんとか誤魔化すと居ずまいを正し、きっと彼女を見据えると「やっぱりさ、俺たち別れるべきだよね」そう言った。


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