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川崎市夜光編

真っ黒なラブラドール

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    再び冊子を開いて読みはじめる。微熱のある時、あるいは病みあがりの時などには読めないようなシロモノだった。

    ベッチンのような滑らかで冷たい光沢を身にまとった真っ黒なラブラドールが、一心に何やら見つめているのは、警戒のためだろうか、興味をそそられたせいなのだろうか、あるいは通りの角をまがってやってくるであろう主人を待っているかのようにも見えるのだが、ほんとうのところはわからないし、あがったばかりの雨に濡れ光っている石畳の急な勾配や、遠く白く霞んでみえる山並み、朝市に集う人々の服装や交わされる言葉、所狭し とならべられた露天の品々――色とりどりの果物やら、野菜、乾物、布地等々――それらいっさいがっさいの醸し出す空気が、あるジャズ・ギタリストの言っていた言葉――匂い立つようなジャズの色香――を思い起こさせたのは、濡れたようでいて乾いた――表面は濡れていながらも、内は乾いている――キャメラの視線からくるものと思われるが、それは、つまりすべては官能だということなのだろうけれど、その、生の凝縮された一瞬の艶っぽさに呼応するかのように、孤独な魂たちは天高く舞い上がってゆく。

   教会の鐘の音が風に乗って運ばれてくるその直前に、ラブラドールは待っていたかのようにむっくりと起き上がるや、鐘の音が完全に鳴りやむまでその音に合わせるようにして高く低く吠えつないでゆき、何気なく――この喜びを分かちあいたくて――隣のふたりの存在を意識すると、不意に女ひとり、男ふたりの三人で同じように並んで映画を観たことが遠い昔に一度だけあったことを思い出し、今はなき国立スカラ座で観た二本立ての内、センチメンタルな一篇――たしか哀しみのセレナーデとかいった感じのタイトルで記憶が曖昧なのだが、もう一篇は「カサンドラ・クロス」とはっきり憶えている――で、一緒に行った女性――ひとつ年上で、この女性で童貞とおさらばした――が、号泣し、それを見て大笑いしてしまったのだけれど、それは、あまりにも安っぽい、それこそお涙ちょうだいみえみえの一篇であったからで、涙を流すなんてことはおよそ出来そうにない内容だったからだが(今一度、二篇をカップリングで観てみたい気もする)、しゅろの木陰のベンチで母親たちが、時間を忘れておしゃべりしているあいだ子供たちは冒険ごっこをはじめたようで、太い古タイヤのゆるやかに蛇行する長いトンネルや、ダムみたいなセメントの大きな滑り台、そして天蓋付きの砂場へと次々と世界を拡大してゆきながら、少しずつ少しずつ母親たちから遠ざかってゆき、それでもフライパンの上で爆ぜるポップコーンのように弾け散る歓声が、公園内に木霊している内はよかったものの、なんの前触れもなくいきなりはしゃぎ声の残響を残して、ぷつりと声がとだえてしまうと、それまでののどかで牧歌的な雰囲気は一気に消し飛んで、わが子の名を叫ぶように呼びながら母親たちが、あたりを駆けずり廻りはじめると、幾らもしない内にそこかしこから顔をのぞかせた子供たちが、かくれんぼしてるんだからまだ帰らないと怒ったように口々に言うので、胸をなでおろした母親たちは再び話しはじめ、義経千本桜のすし屋の段がどうたらこうたらとか、デュアルプロセッサだからちがうのよね、とか、果ては馬頭星雲の話や、パラアミノ安息香酸というのが欠乏するとネズミなんて白毛化がおこるらしいわよ、なんてわけのわからない話まで飛び出して来て、あらもうこんな時間、たいへん!と、誰かが言い出すまでおしゃべりは果てることなく――この世が果てることはあっても、おしゃべりは止まらないといった調子で――延々とつづくのだったが、と、そこで冷たい飲み物を盆にのせた由美が部屋に入ってくるなり、どう、このスカート、おニューなのと言う。

    光沢のあるシルバーグレーのロングスカートは、足首までそっくり隠れてしまうほど丈が長く――近付いてくる由美を片手で制止して、人差指でゆっくりまわってと合図すると、蔓バラが裾前から這いのぼって太股のあたりから腰の方へと消えている――折角の脚線美が見られないのは残念だけれども、刺繍がほどこされた裾から絡み合いながら咲き誇る蔓バラの大輪を、一つ二つと数えながら見上げてゆくと、溜め息が洩れるほど見事な――きゅッと引き締まった――ヒップに行きあたり、つい見とれていると、由美は背中に眼が付いているのか、 「Hね、まるで痴漢じゃん」と蔑んだような口ぶりで言うので、「失礼な奴だな、バラを見てんだろ」と、ヒップから無理矢理剥がした視線を宙に泳がせながら、読み差しの小説に手を伸ばし読んでいるふりをしていると、由美は盆をテーブルに置き、スカートを気にしながら――皺のよらないように――畳にぺたりと座り込み、豊かな黒髪をかきあげて「ねえ、なに読んでるの」と呟くように言ったまま頬杖をついて、黙ってしまう。

    やがて「あーつまんないなあ」と言いながら、タンブラー――麦茶にしてはやけに薄目の液体が入っていて、汗をかいている――を傾け、一気に半分ほどのんでしまい(「おい、それ俺に持ってきたんじゃないの」と上目づかいで非難する)、「あ、ごめん。すぐ作ってくるから」と言い置いて、見事な腰をくねらせながら部屋から出て行ったのだけれども、すぐ戻ってくるはずが、スマホが鳴り出して――友達かららしい――暫くすると、いよいよ本格的にしゃべりはじめたので、仕方なく――ちょっぴりHな気分になっていたのに——また小説のなかへのろのろと入ってゆく。
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