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川崎市夜光編

メスカリンドライブ〜孤独な魂

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    小森くんは、だいぶゴキゲンなご様子である。メスカリン・ドライヴってやつだろうか。ま、人のことはいえないけれど。

   んでね、んでもってさ、結局何が言いたかったのかってえと、取らぬ狸の皮算用ってやつでさ。そう言って小森くんは、すたすたと出口の方へと行きかけ――まるで刑事コロンボのお約束のように――再び戻ってくると、いやあ、ごめんごめん。くだらないお喋りしちゃって肝心なこと忘れてたよ。これ、と言って薄い冊子を手渡す。

「あいつ柄にもなく小説かいてるんだよ。で、これ読んでくれってことだった」

   そうして小森くんは、ちょっと肩をすくめるような仕種をし――オレは、小森くんのトレードマークでもある重ね格子?(あれれ。ユニオンジャックじゃなかったっけ?)の ハンチングが、ドアの向こうに見えなくなるまで見送った――今度こそスタジオの重い扉を開けて出ていった。

   手にした小冊子は、B4のコピー用紙を二つ折りにして束ね、浅葱色の手触りのすこしザラザラとする厚紙を表紙にして大きめのホッチキスで二ヶ所がとめられてあった。


   不意に何から連想したのかわからないが初夏の清々しい風が居間の濃いオリーブグリーンのレースのカーテンをふんわりとふくらませ、ラジオからドン・マクリーンの「アメリカン・パイ」が流れてきた場面を思い出した。 

   妄想ではなく、ほんとうに自分宛てのメッセージがもしかしたならテキストに具体的に書かれてある。あるいは具体的ではなくともコンテクストから感じられる、つまり、文脈やら行間から彼女の想いが滲み出てくる、そんな可能性が飛躍的に高まった今この状況を必要以上にサステインして持続して引き伸ばして継続して、この蓋然性の心地良いぬるま湯に首まで浸かり、ふわふわと紺碧の空をたゆたう白い雲のように余韻に浸っていたかった。

   だからこその余裕をぶちかまし、既に色褪せた過去だか空想だかを引き摺り出してきたらしい。

   それは、その曲が大好きでも懐かしいからでもなく――いや、実際大好きでもあり、とても懐かしいメロディなのだが――その旋律が流れて来た刹那、驚いたからだった。

   というのも、自分にとっての「アメリカン・パイ」とは、ドン・マクリーンの「アメリカン・パイ」以外に存在せず――実は、ラジオから聞こえてきた「アメリカン・パイ」は、別な歌い手によるリバイバルだった――久方振りに聴いた旋律が、ドン・マクリーンでないことに耳を疑ったからだ。

   メタルコア風のアレンジを施された「アメリカン・パイ」は、「アメリカン・パイ」に違いないのだけれど、やはり「アメリカン・パイ」ではないのであって、ドン・マクリーンの「アメリカン・パイ」を知らない若い人たちには、どのように聞こえているのだろうか、などと余計な心配をして――リバイバルしたのはメガデスいや、メタリカであり、ネームバリューからしてもドン・マクリーンには更に勝ち目はなく、はじめて聴いた人たちにとっては、スレイヤーの、いやメタリカの「アメリカン・パイ」ということになるわけで、元歌を知っている者としては、メタリカの唄う「アメリカン・パイ」によって、オリジナルのイメージが崩されてしまうのでは、と考えて――しまうのだが、固よりドン・マクリーンの唄う「アメリカン・パイ」が、メディアで頻繁に使われる筈もないのだから、老婆心以外のなにものでもないのだが。


   そして、いよいよ冊子を開いて読み始めたものの、フィネガンなんとかのように意味不明の文字の羅列がつづくばかりで、全く頭に入ってこない。

   いったいこれはなんだろう、というか、単に上の空なのである。冊子を放り出し、ひとつ大きく伸びをする。と、さらに過去の出来事がフラッシュ・バックする。

   柔らかな、それこそ綿飴のようにふんわりとして柔らかな紅い耳たぶを右手の親指と人差し指とで嬲りながら耳のおっぱいと呟くと、変態じゃないのと吐きすてるように言って親友の彼女は耳のおっぱいをオレからとりあげたけれども、当の本人はただにんまりとするばかりでなにも言わず、左足の膝の上に組んだ右足を前後に揺らしながら、マラルメ編みのような複雑な編まれ方をしたベルトというか、単なる平たい紐みたいなものの編みこみのない房の部分をいじくっては、ときどき思い出したように表情を曇らせて腕時計に視線を遣るのだが、客電が落ちても一向に始まらぬ映画を待って、不平ひとつも言わずにお行儀よく座っている観客のひとりとしてオレは、なぜこんなことになったのだろうと思った。

   夏休みに彼女の友達の女性を加えた四人で沖縄に行かないかと持ち掛けられた時、にべもなく断ってしまったのだけれど、それでは映画でも観にゆかないかという誘いが次に控えているとは思ってもみなかったので、その代替案に対して断固たる態度をとれず、いつしかずるずると蟻地獄のなかへと引きずり込まれてしまったのだが、沖縄に行かないかという誘いは、いわばエサであったのでり、はじめから断られることを想定しての罠だったわけで、親友としてオレが二つ目の誘いをことわれないだろうと敵は当初より踏んでいたのであり、となると鈍いオレでも敵の狙いがわかろうというものだが、とりあえずは親友の顔を立て――といっても主犯はまちがいなく彼女の方だが――術中にはまったふりをし、かくして、いつ始まるとも知れぬ映画を待ってこうしてシートに収まっているというわけなのであるけれども、主犯にも誤算があった。当の主役が現れないのである。急な用事が出来て、という寝耳に水のドタキャンなのである。むろんそれはほんとうなのかもしれないが、嘘だとオレは思った。

   というのも、頑として沖縄行きを聞き入れなかったオレは親友に、彼女の友達の女性の容姿を確認してから決めてくれと言われ、仕方なく指定された三人の待ち合わせ場所に偶然を装ってこっそりと見たのだけれど、その時その女性は、実は自分の容姿を確認されたことを知っていたのではないか、と思うからなのだが、実際はオレの方も容姿を確認されていたらしいと気付いた時にはもう後の祭り、敵はちょっとしたお見合いを目論んだ訳で、――まあ公平といえば公平だが、これが失敗だった――ともかく端から行く気などないオレは、この策略にのってはいけなかったのだ。ただオレとしては、親友があまりにもうるさく言うのでつきあったまでのことなのだけれど、女性としての誇りを傷つけられた――容姿が気に入らなかったので断られた――と、かんちがいされてしまったらしい。

   敵は偶然を装って逢ったオレを、沖縄に一緒に行くはずの相手だと賢明にも告げなかったのだろうが、友達は女の直感でそうと気付いてしまったのではないだろうか。

   それで今度は、こうして報復に転じたということであって、あんたなんてこっちこそお断りよ、というわけだ。

   そんなこともあったっけ。すると、あの時観た映画の断片が、妙に生々しく蘇ってきたりした。

  




  
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