パスティーシュ

トリヤマケイ

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川崎市夜光編

可能性

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   唯一残された可能性として、ゴダールを撮っていたハンディカムが、もしかしたなら砂上に、あるいは、スタジオのどこかに残されていたオレへのメッセージを偶然にも撮影してあったのではないか。

   そして、そのメッセージを託した映像を、一本足の巨人モニタを介してオレは無意識の内に脳裏に刻印していたのではなかったか、ということに今となって思い到ったのだけれど、小森くんが妹の伝言を言付かってきたということは、要するに彼女はメッセージなど残していなかったことにほかならず、とんだ道化芝居を演じてしまった自分が情けなかったが、こうして兄である小森くんに伝言を託してくれたのだから、落胆するにはあたらないのではないかと一方では思うのだけれど、どうも素直に喜べない自分がいるのだった。

   となると、オレは単に彼女からのメッセージを欲しているのではなく、それを見つけだす過程を楽しんでいるということになるのだろうか――つまり、この感情は謎を解き明かす愉しみを奪われてしまったことから来るものではないか。

   だが、よくよく考えてみると、今まさに小森くんの口から語られようとしているメッセージは、彼女とオレにしかわからない記号の筈なのであり、他者に依ってそれが語られようが、ふたりの間に生じた秘密を何ら侵すものではないばかりか、メッセージを他者を介して伝えるということによって、逆にその秘匿性は一層たかめられ、恋の共犯者としてのシンパシーを生むに至るのだ。

   彼女が、ここまで考えて小森くんに伝言を託したのだとしたら、オレはもう脱帽するしかない。いや、きっとそうだ、そうに違いない。

   オレはそんな風に考えをまとめたのだけれど、肝心のメッセージを小森くんは、なかなか伝えてはくれないのだった。業を煮やしたオレは催促した。

「で、何よメッセージって?」

   ところが小森くんは、もうさんざっぱら喋っただろうに「いや、その前にちょっとだけ俺の話をきいてくんない?」なんて、どこかの国の政治家よろしくまるで核心に触れるのを恐れるかのように、のらりくらりとまたぞろ話しはじめるのだった。

  生前小森くんは、こんなにおしゃべりじゃなかったのに、亡くなってからまるで人がかわってしまったかのようだ―――なんて、馬鹿な事を考える。


「んーと、何から話したらいいか。あのさ、俺が青梅市の御嶽駅までの定期券持ってるの知ってるよね ?」

  以前に確かにその定期を彼は見せてくれたのだった。麻布十番から御嶽までの通勤定期。それも3ヶ月分で、95,270円なのだが「1ヶ月より5,020円もお得なんだよ」そう言って彼は破顔した。

   御嶽に勤め先があるわけでもなく、ただストレスやら何やらでぶちぎれそうになった時、いつでも森林浴してリフレッシュが出来るようにとの配慮かららしかった。

   しかし、定期券を買うとなると、ぶちぎれる頻度が尋常でないことを如実に物語っているようでもあるが、実のところ、いつでも行けるという安心感こそが定期券購入の理由であって、ある種のお守り、あるいは保険のような機能を果しているように思われた。

「でね、話しはそれとは全くちがうんだけれども――と、彼は膝を乗り出しいつになく真剣な眼差しで話しはじめる――最初に断っておくけどさ、これって夢じゃないんだよ。

   現実に俺がこの目で見た事なんだ。ほら、フラクタル図形ってあるでしょ、あれなんだけど。いや、あれとは直接関係ないのかもしれないけれども、ともかくね、その時光彩が幾つも折り重なって、ほら、小松っちゃんも(今は様々な事情があって小松ではないが、小松を名乗っていた当時に知り合った小森くんにとっては、いつまでもオレは小松っちゃんなのだった)カメラやってるから知ってるでしょ、例のレフレックスで光るもの撮ったときに出る丸い輪っか。あれに似てて、こう左右に動いているんだ。

   でね、よくよく見てみると実はそいつは、巨大な目ん玉なんかじゃなかったんだ。ごめん、ごめん。つい興奮しちゃって。俺興奮するとすぐ話し前後しちゃうから」

   そうだっただろうか?そんな記憶はないけれど。それに、生前小森くんはこんなにお喋りではなかった筈で、亡くなってから人がかわってしまったかのようだ――なんてバカな事を考える。小森くんの話は続く。

「それで、俺はね、そんとき中目黒の駅のホームにいたわけよ。ベンチに座って文庫本を読んでた。東急が見えてたから下りのホームだよ。え、文庫本?   確か松沢呉一の『魔羅の肖像』というやつだった――そんなの文庫になる筈がない――って言われても、そうだった気がするけどね。まあ、いいや。それは置いといて。

  とにかく光彩がいくつも重なり合っているのが見えたわけさ。文庫本から顔を上げたらね。東急のビルの向こうだよ。

   ずうっと向こうにね。そしてそれがゆっくりとではあるけれども、だんだん近付いてくる。何だろうって見つめている内にその幾つもの光の輪が、ひとつに重なり、と思ったら目玉なんだよ。

   マグロの目ん玉をその時は想起したけど、仔細に眺めてみると、白っぽいペンキを塗りたくった丸い板っぱりの中心に、無数のウシガエルが丸く盛り上がるようにして群がっていた。

   それがちょうど眸のように見えたってわけさ。ところが、更に近付いてくると、白いのは白ペンキなどではなく、シロアリがびっしりととまって羽をやすめているのがわかった。

   ウシガエルの実物を見た事はないのだけれど、その鳴き声は幾度となく聞いたことがあるからウシガエルと思ったのだけれど、実際はどうだろう。血走ったような目かぼたぼたとこぼれ落ちていた赤黒い液状のものはなんだったのか。いや、そうだ、たしかに先刻までは目玉だったはずだ。だから、きっとこいつは変容したのにちがいない。

   それが証拠に今しもこいつは、シロアリとウシガエルの塊から別なものへとメタモルフォーゼしつつあるようなのだから。
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