66 / 82
川崎市夜光編
可能性
しおりを挟む
唯一残された可能性として、ゴダールを撮っていたハンディカムが、もしかしたなら砂上に、あるいは、スタジオのどこかに残されていたオレへのメッセージを偶然にも撮影してあったのではないか。
そして、そのメッセージを託した映像を、一本足の巨人モニタを介してオレは無意識の内に脳裏に刻印していたのではなかったか、ということに今となって思い到ったのだけれど、小森くんが妹の伝言を言付かってきたということは、要するに彼女はメッセージなど残していなかったことにほかならず、とんだ道化芝居を演じてしまった自分が情けなかったが、こうして兄である小森くんに伝言を託してくれたのだから、落胆するにはあたらないのではないかと一方では思うのだけれど、どうも素直に喜べない自分がいるのだった。
となると、オレは単に彼女からのメッセージを欲しているのではなく、それを見つけだす過程を楽しんでいるということになるのだろうか――つまり、この感情は謎を解き明かす愉しみを奪われてしまったことから来るものではないか。
だが、よくよく考えてみると、今まさに小森くんの口から語られようとしているメッセージは、彼女とオレにしかわからない記号の筈なのであり、他者に依ってそれが語られようが、ふたりの間に生じた秘密を何ら侵すものではないばかりか、メッセージを他者を介して伝えるということによって、逆にその秘匿性は一層たかめられ、恋の共犯者としてのシンパシーを生むに至るのだ。
彼女が、ここまで考えて小森くんに伝言を託したのだとしたら、オレはもう脱帽するしかない。いや、きっとそうだ、そうに違いない。
オレはそんな風に考えをまとめたのだけれど、肝心のメッセージを小森くんは、なかなか伝えてはくれないのだった。業を煮やしたオレは催促した。
「で、何よメッセージって?」
ところが小森くんは、もうさんざっぱら喋っただろうに「いや、その前にちょっとだけ俺の話をきいてくんない?」なんて、どこかの国の政治家よろしくまるで核心に触れるのを恐れるかのように、のらりくらりとまたぞろ話しはじめるのだった。
生前小森くんは、こんなにおしゃべりじゃなかったのに、亡くなってからまるで人がかわってしまったかのようだ―――なんて、馬鹿な事を考える。
「んーと、何から話したらいいか。あのさ、俺が青梅市の御嶽駅までの定期券持ってるの知ってるよね ?」
以前に確かにその定期を彼は見せてくれたのだった。麻布十番から御嶽までの通勤定期。それも3ヶ月分で、95,270円なのだが「1ヶ月より5,020円もお得なんだよ」そう言って彼は破顔した。
御嶽に勤め先があるわけでもなく、ただストレスやら何やらでぶちぎれそうになった時、いつでも森林浴してリフレッシュが出来るようにとの配慮かららしかった。
しかし、定期券を買うとなると、ぶちぎれる頻度が尋常でないことを如実に物語っているようでもあるが、実のところ、いつでも行けるという安心感こそが定期券購入の理由であって、ある種のお守り、あるいは保険のような機能を果しているように思われた。
「でね、話しはそれとは全くちがうんだけれども――と、彼は膝を乗り出しいつになく真剣な眼差しで話しはじめる――最初に断っておくけどさ、これって夢じゃないんだよ。
現実に俺がこの目で見た事なんだ。ほら、フラクタル図形ってあるでしょ、あれなんだけど。いや、あれとは直接関係ないのかもしれないけれども、ともかくね、その時光彩が幾つも折り重なって、ほら、小松っちゃんも(今は様々な事情があって小松ではないが、小松を名乗っていた当時に知り合った小森くんにとっては、いつまでもオレは小松っちゃんなのだった)カメラやってるから知ってるでしょ、例のレフレックスで光るもの撮ったときに出る丸い輪っか。あれに似てて、こう左右に動いているんだ。
でね、よくよく見てみると実はそいつは、巨大な目ん玉なんかじゃなかったんだ。ごめん、ごめん。つい興奮しちゃって。俺興奮するとすぐ話し前後しちゃうから」
そうだっただろうか?そんな記憶はないけれど。それに、生前小森くんはこんなにお喋りではなかった筈で、亡くなってから人がかわってしまったかのようだ――なんてバカな事を考える。小森くんの話は続く。
「それで、俺はね、そんとき中目黒の駅のホームにいたわけよ。ベンチに座って文庫本を読んでた。東急が見えてたから下りのホームだよ。え、文庫本? 確か松沢呉一の『魔羅の肖像』というやつだった――そんなの文庫になる筈がない――って言われても、そうだった気がするけどね。まあ、いいや。それは置いといて。
とにかく光彩がいくつも重なり合っているのが見えたわけさ。文庫本から顔を上げたらね。東急のビルの向こうだよ。
ずうっと向こうにね。そしてそれがゆっくりとではあるけれども、だんだん近付いてくる。何だろうって見つめている内にその幾つもの光の輪が、ひとつに重なり、と思ったら目玉なんだよ。
マグロの目ん玉をその時は想起したけど、仔細に眺めてみると、白っぽいペンキを塗りたくった丸い板っぱりの中心に、無数のウシガエルが丸く盛り上がるようにして群がっていた。
それがちょうど眸のように見えたってわけさ。ところが、更に近付いてくると、白いのは白ペンキなどではなく、シロアリがびっしりととまって羽をやすめているのがわかった。
ウシガエルの実物を見た事はないのだけれど、その鳴き声は幾度となく聞いたことがあるからウシガエルと思ったのだけれど、実際はどうだろう。血走ったような目かぼたぼたとこぼれ落ちていた赤黒い液状のものはなんだったのか。いや、そうだ、たしかに先刻までは目玉だったはずだ。だから、きっとこいつは変容したのにちがいない。
それが証拠に今しもこいつは、シロアリとウシガエルの塊から別なものへとメタモルフォーゼしつつあるようなのだから。
そして、そのメッセージを託した映像を、一本足の巨人モニタを介してオレは無意識の内に脳裏に刻印していたのではなかったか、ということに今となって思い到ったのだけれど、小森くんが妹の伝言を言付かってきたということは、要するに彼女はメッセージなど残していなかったことにほかならず、とんだ道化芝居を演じてしまった自分が情けなかったが、こうして兄である小森くんに伝言を託してくれたのだから、落胆するにはあたらないのではないかと一方では思うのだけれど、どうも素直に喜べない自分がいるのだった。
となると、オレは単に彼女からのメッセージを欲しているのではなく、それを見つけだす過程を楽しんでいるということになるのだろうか――つまり、この感情は謎を解き明かす愉しみを奪われてしまったことから来るものではないか。
だが、よくよく考えてみると、今まさに小森くんの口から語られようとしているメッセージは、彼女とオレにしかわからない記号の筈なのであり、他者に依ってそれが語られようが、ふたりの間に生じた秘密を何ら侵すものではないばかりか、メッセージを他者を介して伝えるということによって、逆にその秘匿性は一層たかめられ、恋の共犯者としてのシンパシーを生むに至るのだ。
彼女が、ここまで考えて小森くんに伝言を託したのだとしたら、オレはもう脱帽するしかない。いや、きっとそうだ、そうに違いない。
オレはそんな風に考えをまとめたのだけれど、肝心のメッセージを小森くんは、なかなか伝えてはくれないのだった。業を煮やしたオレは催促した。
「で、何よメッセージって?」
ところが小森くんは、もうさんざっぱら喋っただろうに「いや、その前にちょっとだけ俺の話をきいてくんない?」なんて、どこかの国の政治家よろしくまるで核心に触れるのを恐れるかのように、のらりくらりとまたぞろ話しはじめるのだった。
生前小森くんは、こんなにおしゃべりじゃなかったのに、亡くなってからまるで人がかわってしまったかのようだ―――なんて、馬鹿な事を考える。
「んーと、何から話したらいいか。あのさ、俺が青梅市の御嶽駅までの定期券持ってるの知ってるよね ?」
以前に確かにその定期を彼は見せてくれたのだった。麻布十番から御嶽までの通勤定期。それも3ヶ月分で、95,270円なのだが「1ヶ月より5,020円もお得なんだよ」そう言って彼は破顔した。
御嶽に勤め先があるわけでもなく、ただストレスやら何やらでぶちぎれそうになった時、いつでも森林浴してリフレッシュが出来るようにとの配慮かららしかった。
しかし、定期券を買うとなると、ぶちぎれる頻度が尋常でないことを如実に物語っているようでもあるが、実のところ、いつでも行けるという安心感こそが定期券購入の理由であって、ある種のお守り、あるいは保険のような機能を果しているように思われた。
「でね、話しはそれとは全くちがうんだけれども――と、彼は膝を乗り出しいつになく真剣な眼差しで話しはじめる――最初に断っておくけどさ、これって夢じゃないんだよ。
現実に俺がこの目で見た事なんだ。ほら、フラクタル図形ってあるでしょ、あれなんだけど。いや、あれとは直接関係ないのかもしれないけれども、ともかくね、その時光彩が幾つも折り重なって、ほら、小松っちゃんも(今は様々な事情があって小松ではないが、小松を名乗っていた当時に知り合った小森くんにとっては、いつまでもオレは小松っちゃんなのだった)カメラやってるから知ってるでしょ、例のレフレックスで光るもの撮ったときに出る丸い輪っか。あれに似てて、こう左右に動いているんだ。
でね、よくよく見てみると実はそいつは、巨大な目ん玉なんかじゃなかったんだ。ごめん、ごめん。つい興奮しちゃって。俺興奮するとすぐ話し前後しちゃうから」
そうだっただろうか?そんな記憶はないけれど。それに、生前小森くんはこんなにお喋りではなかった筈で、亡くなってから人がかわってしまったかのようだ――なんてバカな事を考える。小森くんの話は続く。
「それで、俺はね、そんとき中目黒の駅のホームにいたわけよ。ベンチに座って文庫本を読んでた。東急が見えてたから下りのホームだよ。え、文庫本? 確か松沢呉一の『魔羅の肖像』というやつだった――そんなの文庫になる筈がない――って言われても、そうだった気がするけどね。まあ、いいや。それは置いといて。
とにかく光彩がいくつも重なり合っているのが見えたわけさ。文庫本から顔を上げたらね。東急のビルの向こうだよ。
ずうっと向こうにね。そしてそれがゆっくりとではあるけれども、だんだん近付いてくる。何だろうって見つめている内にその幾つもの光の輪が、ひとつに重なり、と思ったら目玉なんだよ。
マグロの目ん玉をその時は想起したけど、仔細に眺めてみると、白っぽいペンキを塗りたくった丸い板っぱりの中心に、無数のウシガエルが丸く盛り上がるようにして群がっていた。
それがちょうど眸のように見えたってわけさ。ところが、更に近付いてくると、白いのは白ペンキなどではなく、シロアリがびっしりととまって羽をやすめているのがわかった。
ウシガエルの実物を見た事はないのだけれど、その鳴き声は幾度となく聞いたことがあるからウシガエルと思ったのだけれど、実際はどうだろう。血走ったような目かぼたぼたとこぼれ落ちていた赤黒い液状のものはなんだったのか。いや、そうだ、たしかに先刻までは目玉だったはずだ。だから、きっとこいつは変容したのにちがいない。
それが証拠に今しもこいつは、シロアリとウシガエルの塊から別なものへとメタモルフォーゼしつつあるようなのだから。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説

会社の上司の妻との禁断の関係に溺れた男の物語
六角
恋愛
日本の大都市で働くサラリーマンが、偶然出会った上司の妻に一目惚れしてしまう。彼女に強く引き寄せられるように、彼女との禁断の関係に溺れていく。しかし、会社に知られてしまい、別れを余儀なくされる。彼女との別れに苦しみ、彼女を忘れることができずにいる。彼女との関係は、運命的なものであり、彼女との愛は一生忘れることができない。

KAKIDAMISHI -The Ultimate Karate Battle-
ジェド
歴史・時代
1894年、東洋の島国・琉球王国が沖縄県となった明治時代――
後の世で「空手」や「琉球古武術」と呼ばれることとなる武術は、琉球語で「ティー(手)」と呼ばれていた。
ティーの修業者たちにとって腕試しの場となるのは、自由組手形式の野試合「カキダミシ(掛け試し)」。
誇り高き武人たちは、時代に翻弄されながらも戦い続ける。
拳と思いが交錯する空手アクション歴史小説、ここに誕生!
・検索キーワード
空手道、琉球空手、沖縄空手、琉球古武道、剛柔流、上地流、小林流、少林寺流、少林流、松林流、和道流、松濤館流、糸東流、東恩流、劉衛流、極真会館、大山道場、芦原会館、正道会館、白蓮会館、国際FSA拳真館、大道塾空道
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。


後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる