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川崎市夜光編
妹
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オレは突っ伏していたクリアガラスの丸テーブルから顔をあげる。いつの間にか居眠りしていたらしい。照明が落とされた薄暗いスタジオ内には、ひとっこひとりいない。
後ろを振り返ると、一本足で立つ大きなモニター画面。……そうだ、小森くん、小森くんはどこに消えたんだろう。ついさっきまで目の前に座っていたのに。それに例のデカ尻アドバルーンも消えている。
あ! と、そこで思わず声を上げてしまう。そうだ、小森くんはオレが、小説のなかで殺してしまったのではなく、ほんとうに亡くなってしまったんだっけ。
ということは、すべては夢だったのか。モスのCMも、ゴダールも自称フェリーニのニセモノも、人工の海も、マツキヨの巨大アドバルーンも、そして彼女も。
しかし、オレにはある確信があった。彼女と歩いた砂浜。失語の海の立看板。そしてグロテスクな? ミウバシラサカとやらを見ることは出来なかったけれども、あれはいったいなんだったんだろう。
映画の中でマストロヤンニが見たのは、名もない怪魚だったけれどもゴダールはエキストラの人たちに「ミウバシラサカ」と呼ばせていたっけ。ミウバシラサカ。
まあ、それはどうでもいいが、映画『そして舟は行く』のように、人力でもう一度人工の海を動かし、更に例の看板を探し出して来てあそこに立てたならば、きっと何かがわかるのではないか。
敷き詰められた砂だけは未だ手付かずのまま名残をとどめている。ほんとうに真っ白い砂だ。
おそらくお台場に撒かれた砂のように、中国あたりから運んできたのだろうが、これだけの量となるとたいへんなものだ。何百、いや何千トンくらいあるのだろうか。鳥取砂丘くらいの規模があるのではないか。なんせ、出来合いの砂浜といえども向こう側は、霞んで肉眼では確認できないほどなのだから。
といっても、殆どは巧妙に描かれた書き割りなのかもしれない。映画『ポンヌフの恋人』での途方もない書き割りは、メイキングを観なければまったく気付かないままだっただろう。それでもそこらの公園の砂場の比ではない、ちょっとした砂浜であることにはちがいない。
とまれ、彼女といた場所に立ってみよう。
もし、ほんとうにあれが夢でなかったならば、何か彼女がメッセージを残していってくれた筈なのだ、というなんの根拠もない希望的観測? いや、ご都合主義に突き動かされるまま、僕はそこらに打ち捨てられてあった、木製のモップを手に取ると中国製だろう砂をサクサクと踏んで、立看板の抜かれた穴にモップの柄を突き刺す。残念なことに本物の看板は見つからなかったのだ。
しかし、当然のことながら奇跡は起こらなかった。何もない。メッセージらしきものどころか、何かの記号と思えるものすらない。
やはり、モップではだめだったのか。いや。待てよ、まだあった。海を動かしてみなくては。それに照明をもっと強くして常夏のハワイのようにしなくては。配電盤はどこだろう。そんなもの知る筈もない。明るさはいい。この際仕方ない。とにかく海だ。でも、何か物足りないような……。
風? そうだ、風だ。彼女は亜麻色の髪を風になびかせていたっけ。となると、扇風機だ。巨大な扇風機の化け物をスタジオの隅から引っ張り出してくるや、スイッチを入れる。そう。この風だ。潮の匂いもしないし不自然な風にはちがいないけれど、ついさっきまで彼女がバラ色の頬に浴びていた風に相違ない。
が、何かが起こる気配もないし、何も見つからない。いや、あるいは単に風力が弱いせいではないか。と思ったらやめられない。微から弱へ、弱から中へ。すると、扇風機の乗った木製の台車は、にわかに後退しはじめる。
慌てて台車を押さえ様子を窺っている内に、わずかだけれど風紋が形作られてゆくような気配が芽生え、オレは快哉を叫ぶやいなや風力を強にする。
そうか、この手があったんだ。ずいぶんと彼女も手のこんだことをしたもんだ――などと感慨に耽っていると、あたりには砂埃がたちこめはじめ、彼女が残したであろうメッセージもろとも砂浜のセットは、跡形もなく風と共に消え去ってしまったのだった。
後に残ったのは、青いビニールシートと剥き出しになったリノリウムの床のように白茶けた、一抹の侘しさだけ。
すっかりしょげかえっていると、そこへ再び小森くん登場。アレレ? 小森くん? 今回の小森くんは、お馴染みのタータンチェックのハンチングではなしに、どハデなユニオンジャックなのだった。
「ハハハ、案の定だな。元気だしなよ」
「え?」
「妹からさ、伝言を言付かってきたよ」
「妹って?」
「だいぶご執心だったみたいじゃない」
「えー! まさか妹ってあの娘のこと?」
「そうさ。ほかに誰がいる? ね、俺が前に言った通りでしょ」
ウインクをしながらそう言う小森くんが、何を言わんとしているのかすぐわかった。まったくその通り。その時のシチュエーションさえもはっきりと覚えている。
それは小田急線の電車に乗って経堂に向かっていた時だ。彼の口から妹のことが何故かポロリと出た。
「妹、可愛いよ」
「高校生?」
「中退して今は家にいる」
「どうしたの? 子供でも堕したの」
ほんの冗談のつもりで言ったその問いに、小森くんは黙したままだった。目の前であれこれと喋りはじめる小森くんの口元を見つめながら、そんな事を思い出すとともに、オレはまた別な考えに囚われはじめていた。
後ろを振り返ると、一本足で立つ大きなモニター画面。……そうだ、小森くん、小森くんはどこに消えたんだろう。ついさっきまで目の前に座っていたのに。それに例のデカ尻アドバルーンも消えている。
あ! と、そこで思わず声を上げてしまう。そうだ、小森くんはオレが、小説のなかで殺してしまったのではなく、ほんとうに亡くなってしまったんだっけ。
ということは、すべては夢だったのか。モスのCMも、ゴダールも自称フェリーニのニセモノも、人工の海も、マツキヨの巨大アドバルーンも、そして彼女も。
しかし、オレにはある確信があった。彼女と歩いた砂浜。失語の海の立看板。そしてグロテスクな? ミウバシラサカとやらを見ることは出来なかったけれども、あれはいったいなんだったんだろう。
映画の中でマストロヤンニが見たのは、名もない怪魚だったけれどもゴダールはエキストラの人たちに「ミウバシラサカ」と呼ばせていたっけ。ミウバシラサカ。
まあ、それはどうでもいいが、映画『そして舟は行く』のように、人力でもう一度人工の海を動かし、更に例の看板を探し出して来てあそこに立てたならば、きっと何かがわかるのではないか。
敷き詰められた砂だけは未だ手付かずのまま名残をとどめている。ほんとうに真っ白い砂だ。
おそらくお台場に撒かれた砂のように、中国あたりから運んできたのだろうが、これだけの量となるとたいへんなものだ。何百、いや何千トンくらいあるのだろうか。鳥取砂丘くらいの規模があるのではないか。なんせ、出来合いの砂浜といえども向こう側は、霞んで肉眼では確認できないほどなのだから。
といっても、殆どは巧妙に描かれた書き割りなのかもしれない。映画『ポンヌフの恋人』での途方もない書き割りは、メイキングを観なければまったく気付かないままだっただろう。それでもそこらの公園の砂場の比ではない、ちょっとした砂浜であることにはちがいない。
とまれ、彼女といた場所に立ってみよう。
もし、ほんとうにあれが夢でなかったならば、何か彼女がメッセージを残していってくれた筈なのだ、というなんの根拠もない希望的観測? いや、ご都合主義に突き動かされるまま、僕はそこらに打ち捨てられてあった、木製のモップを手に取ると中国製だろう砂をサクサクと踏んで、立看板の抜かれた穴にモップの柄を突き刺す。残念なことに本物の看板は見つからなかったのだ。
しかし、当然のことながら奇跡は起こらなかった。何もない。メッセージらしきものどころか、何かの記号と思えるものすらない。
やはり、モップではだめだったのか。いや。待てよ、まだあった。海を動かしてみなくては。それに照明をもっと強くして常夏のハワイのようにしなくては。配電盤はどこだろう。そんなもの知る筈もない。明るさはいい。この際仕方ない。とにかく海だ。でも、何か物足りないような……。
風? そうだ、風だ。彼女は亜麻色の髪を風になびかせていたっけ。となると、扇風機だ。巨大な扇風機の化け物をスタジオの隅から引っ張り出してくるや、スイッチを入れる。そう。この風だ。潮の匂いもしないし不自然な風にはちがいないけれど、ついさっきまで彼女がバラ色の頬に浴びていた風に相違ない。
が、何かが起こる気配もないし、何も見つからない。いや、あるいは単に風力が弱いせいではないか。と思ったらやめられない。微から弱へ、弱から中へ。すると、扇風機の乗った木製の台車は、にわかに後退しはじめる。
慌てて台車を押さえ様子を窺っている内に、わずかだけれど風紋が形作られてゆくような気配が芽生え、オレは快哉を叫ぶやいなや風力を強にする。
そうか、この手があったんだ。ずいぶんと彼女も手のこんだことをしたもんだ――などと感慨に耽っていると、あたりには砂埃がたちこめはじめ、彼女が残したであろうメッセージもろとも砂浜のセットは、跡形もなく風と共に消え去ってしまったのだった。
後に残ったのは、青いビニールシートと剥き出しになったリノリウムの床のように白茶けた、一抹の侘しさだけ。
すっかりしょげかえっていると、そこへ再び小森くん登場。アレレ? 小森くん? 今回の小森くんは、お馴染みのタータンチェックのハンチングではなしに、どハデなユニオンジャックなのだった。
「ハハハ、案の定だな。元気だしなよ」
「え?」
「妹からさ、伝言を言付かってきたよ」
「妹って?」
「だいぶご執心だったみたいじゃない」
「えー! まさか妹ってあの娘のこと?」
「そうさ。ほかに誰がいる? ね、俺が前に言った通りでしょ」
ウインクをしながらそう言う小森くんが、何を言わんとしているのかすぐわかった。まったくその通り。その時のシチュエーションさえもはっきりと覚えている。
それは小田急線の電車に乗って経堂に向かっていた時だ。彼の口から妹のことが何故かポロリと出た。
「妹、可愛いよ」
「高校生?」
「中退して今は家にいる」
「どうしたの? 子供でも堕したの」
ほんの冗談のつもりで言ったその問いに、小森くんは黙したままだった。目の前であれこれと喋りはじめる小森くんの口元を見つめながら、そんな事を思い出すとともに、オレはまた別な考えに囚われはじめていた。
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