パスティーシュ

トリヤマケイ

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川崎市夜光編

未来は女のものである

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「よう、ひさしぶりじゃん。どうしてた?」

 ただ酒をたらふくきこし召した小森くんは、上機嫌だった。

「どうしてたって? そりゃこっちがききたいよ。葉書出しても返事くれないし」

「あ、葉書くれたの。ごめん。今、実家の方にいないからさ」

「あ、そう。彼女と一緒ってわけだ」

「うん。まあ、そうなんだけど」

「で、ドラムの方はやってる?」

「いや、今はちょっと休んでる。っていうか、映画の方が面白くなちゃってさあ」

「なるほど。彼女の影響?」

「え、なんで知ってんの。そうなんだよね、メイクやってる娘なんだけど、映画好きでさ、もう殆ど毎日観てるって感じ」

「ふーん。それで一緒に観ているうちにハマっちゃったってわけね」

「そ。自分でも意外なんだけどね」

「で、最近観たので面白いのあった?」

「そうこなくっちゃ。そうだなぁ、新作は殆ど観てないんだけど、マルコ・フェレーリかな、やっぱ。『未来は女のものである』」

「ああ。オルネラ・ムーティのやつね」

「そう。まったくさ、男ってえのは種付け馬としての役目を担うのみで、外には何の役にも立たない存在なのかね。未来に向かって「オス」の存在理由の稀薄性は、更に加速度的に増してゆくとともに、「オス」そのものの絶対数もまた減少してゆくんじゃないか、などと憂えたんだけど」

「ハンナ・シグラも出てたね。『パッション』を思い出したよ」

「うん。オルネラ・ムーティ扮するマルベールと、ハンナ・シグラのアンナ。そしてゴードンて男の三人でフォークだかのコンサートに行くシーンがあるでしょ。あの時、ゴードンは暴徒と化した観客からふたりを護るために身を挺し、いともたやすく踏み潰されて死んでゆくよね。あのエピソードも象徴的だけれど、それと共にシンボリックなのは、悲哀に打ちひしがれてベッドに横たわっているふたりのところに、いつもアンナにつきまとっていた訳のわからない男が、たて笛を吹きながら近付いてくるシーンだね。

『ねえ、僕も寂しいんだよ。そこに行ってもいい?』とか言いながら、男は片手でズボンをおろしてオチンチンをもろだしにする。アンナは言う。『お願いだから、あっちへ行って!』そっぽを向いてしまったふたりの向こうで、男はオチンチンを出したまま、再びたて笛を「ピーヒョロロ」と吹く。あれほど情けない図もないね。あまりにも情けなさ過ぎて、笑いがとまらないほど笑ったよ。殊にさ、小道具として用いられたたて笛がいいよね。あれが情けなさを幾層倍にもたからしめているんだと思うね。だってさ、オチンチンもろ出しでたて笛だよ。

   ま、それはともかく、子を授かったマルベールがアンナと出会った時点から、既に男は全て不要なんだよね。種付けが終われば「オス」はお払い箱なんだ。このオチンチンもろ出したて笛男は、そのカリカチュアであって、世の男性諸氏は彼を笑える筈もないんだけどね。実際は身につまされて彼と共に泣かなければならない。で、結局奇妙な三角関係の愛の形見としてマルベールはアンナに子を託してゆくんだけれども、別れのときの台詞がやけに印象に残っているんだよね。名台詞ってわけじゃないけど」

「え、どんなだっけ?」

「アンナがマルベールに『どこへ行くの』って訊くじゃない? すると、『どこにも行かない、あなたの心のなかにいる』って言うんだよ。いや、そうじゃなかったかな、『素敵なところ、あなたの頭のなかにずっといる』そんな感じかな」

「うーん。なるほどね、思い出したよ。――エンドタイトルがゆっくりと流れる中、アンナはまっすぐに歩み去ってゆく。そのアンナの胸に抱かれている子が男の子なのか女の子なのかは、言わずもがなだね」

「そ。未来は女のものである」

「で?」

「え?」

「お次は?」

「ええと。じゃ、ピーター・グリーナウェイはどうかな。『コックと泥棒、その妻と愛人』てやつだけどね、観たのは」

「はいはい。で、どうだったの」

「そうだなぁ、なんか不思議な生理感覚を持った作家って感じかな。前半、移動撮影がやけに目についたけど―――ま、それはあんまし関係ないけど、とにかく一切自然光での撮影がないんだよね、この作品。でも、それは全てのシーンの設定が夜であることに起因しているのではないのではないか、そんな風に思えたね。

   つまり、たとえ屋外での昼という設定に於いても、この映像作家は人工的な光というものを用いるのではないか、と思わせる―――そういった生理感覚の持ち主なように思えた。で、中身なんだけれども、ボスの妻ジョルジーナと本屋のマイケルの最初の情事が行われるレストランのトイレは、何から何までまっ白なんだよね。それに対して、レストラン内は赤という色調に統一されている。だから、トイレのドアを開けると、トイレのなかの白い壁はピンクに染まる。そして、厨房は緑。この対比はどういうことなんだろうか、それを先ず考えさせられたね。

 不浄な場所であるトイレという空間が白。お客が食事を摂っている空間が赤。裏方である厨房が緑。レストラン内のこの三つの空間をカメラは忠実に捉えてゆくけれども、これらを換言すると、お客が食事をしている空間は、何ものも否定出来ない紛れもない現実世界で、トイレはその現実からの唯一逃避可能な場所、つまり虚構世界。厨房はそれら現実と虚構の言わば中間に位置し、表である美しい現実を支えている、裏側のもうひとつの現実―――そんな風に考えてみた。

 で、現実に不満を抱いているジョルジーナがマイケルと行う情事は、はじめは現実からの逃避による言わば虚構の出来事であったけれど、徐々にそれが虚構ではなくなり現実味を帯びてくることにより、つまり、浮気ではなく本気になってくるに従って、ふたりの情事の場所も現実と虚構の中間に位置する、より現実に近いところである厨房の貯蔵室へと移行してゆく。      

   そして、ふたりは、腐敗しきった汚物を積んだトラックの荷台のなかに閉じこめられるわけだけれども、その臭気ふんぷんたる汚物というものは、料理をつくる際にどうしても出てくるものであって、即ちそれは、創造が為される際には回避出来難い、実に生臭い現実のもうひとつの貌だよね。

   だから、ふたりが汚物まみれになることは、けだし無理からぬことであって、つまり、愛の創造とは、このもうひとつの現実の側面、《きれいごとでは済まされない》をかいくぐらなければならない、という象徴だと思うね。

   つまりさ、清濁併せ持つものが生なのであって、愛を成就させる為には汚物にまみれなければならない。だけど、その醜怪で生臭いものこそが、真の現実なんだよね。皮肉にも。

 音楽はたしかマイケル・ナイマンだったっけ? 音楽や異質な生理感覚は面白いんだけどもね、どうもワン・ショットのなかに滲み出てくるような生命の官能をそこに感じ取ることが出来なかったね。

   そのことで逆に気付かされたんだけど、どうやら僕が映画に魅せられているのは、ワン・ショット、ワン・ショットのなかに込められた生の官能なんじゃないか、と思うんだよね。でもさ、この作品は固より闇の映画であってさ、そこに生の官能を求めるなんて、おかどちがいもいいとこかもね」
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