パスティーシュ

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川崎市夜光編

フェデリコ・フェリーニ

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「すかさず彼女にきく」と書かれたフリップを手にしたADらしき人物。

「なんにする?」

「うーんとね、テリヤキバーガーとオレジンのM。それと…」

「それと?」

「マンゴープリン。期間限定だよ、これってば」

 そんな具合に、訳が分からないまま、オレたちは次々と差し出されたフリップを読み上げていった。

 なんだ、声が出るじゃないか、そう呟いた私の背後から掛けられた「カット!」という大声。そして更に、歓声と拍手が鳴り響く。

   ブラボーという声さえもする。やがて、それらもおさまると、途端に周りの雰囲気が一変してしまう。

   ぐるりと輪をつくって方言で喋りまくっていた連中は口を閉ざしたまま、ぞろぞろと疲れた足取りでひきあげていく。

 だが、何よりも奇異なのは、海だ。波が……、寄せては返すあの波がまったく消えてしまっている。それでもなぜか波の音だけは暫くのあいだ聞こえていたが、やがてそれもとまった。

「撤収!   撤収!」

   オレの耳のなかでは未だに遠い潮騒のように波の音が鳴っているというのに、全ては幻想だったのだろうか。

  呆然と立ちすくむオレたちをよそに、周りでは多くの人たちが忙しそうに立ち働いている。

   それらの顔々は一様に皆明るい。どうやら飲みこめて来た。大仕掛けなセットのなかのようだ。モスのCM撮りが、クランクアップしたらしい。

 照明が落とされ、スタジオは徐々に暗くなってゆく。監督は誰なんだろう、と唐突に思った。そして、あっ! と気付く。

   じゃあ、《失語の海》ってなんだったんだ? ふざけんなよ、全部嘘っぱちだったのか? それにまさかあれがタイトルじゃないよな、などと考え、更に何故かそれを未だに言葉として発していない自分に想い至る。

   彼女もどうやら同様らしい。大きく見開かれた瞳にはつぶさに現前する現象世界が映じてゆき、それらによって感情の起伏が漣のように起こっては消えたが、いつまでも口を開く様子はなかった。

 不意に、アルマーニのダークグレーのスーツを粋に着こなした恰幅のいい紳士が近付いて来ると、抱えていた大きな花束のひとつを彼女へと手渡し、にこやかな内にも威厳たっぷりに「お疲れさま」と言うのだった。

   どうやらプロデューサーのようだが、こちらには一瞥もくれず、虫けらになったような気持ちを私にたっぷりと味わわせてくれた。

 彼女はどぎまぎしながらも、やはり花束に悪い気はしないようで、訳がわからないなりに処世術に長けたところを見せ、俄にヒロインの風格まで備えたような優美な表情を浮かべると、プロデューサーに促されるままディレクターズ・チェアに座る人物のところへとしゃなりしゃなりと歩を進めたのだった。

   オレもむろん影のように付き従ってゆく。

   そして……。遠目にはよくわからなかったが、傍までいって驚いた。それは、『真実の嘘よりも、嘘の真実の方がいい』と宣った彼の天才、フェリーニその人だったのだ。

   そうか、それで人工の海だったってわけか、と、オレは胸の内で呟いた。

 御大フェリーニは、わがプロデューサー氏の挨拶に対しては、木で鼻を括ったような全く感情を欠いたものだったものの、彼女にはもうこれ以上ないほどの慈愛に満ちた笑みをこぼした。

   それを見たオレは、矢も盾もたまらずプロデューサーを突き飛ばすようにして押しのけ、フェリーニの足元に跪き三拝九拝するや、映画『8½』での体験を訥々と話しはじめるのだった。

   このときばかりは呪縛がとけたのか、フリップなしで言葉がほとばしり出たのだから不思議だが、そうとは気付かぬままオレはこんなことを喋っていた。

「あの映画の後半部分でかなり長い間、台詞も音楽も一切ないという真に純粋映画の時間帯があるわけですけど、あの映像を眺めているうちに、なんということでしょう、私の耳にはか細いけれど、はっきりと音楽が聞こえて来たんです。あの時にはほんとうに泣き出しそうになりました。いや、実際私は涙しながら映像を食い入るように見つめていました。その音楽は、あまりにも甘美で切ない旋律だったんです。私はあれほどの妙なる調べを知りません。強いてあげるのならば、マイルスの『ブルー・イン・グリーン』くらいでしょうか。ともかく私は止めどなく溢れ出る涙をどうしようもありませんでした。あの時私は、正に感動に打ち震えていたのです。観終わった後で、あれはいったい何だったんだろうと不思議でなりませんでした。サイレントなのに確かに聞こえて来た切ないメロディ……。

   やがて私はこう結論づけました。あなたのフィルムには映像だけでなく、音楽までもが刻印されているのだと。あなたがカットとカットをつなぎ合わせることによって、この世のものとは思われない美しい旋律が現前するのだと。それは、サイレントだからこそわかったことであり、トーキーでは他の音に紛れて聞き取れなかっただけなのですね」

 再びあの時の感動が蘇って、はらはらと落涙しながら、オレは通訳の女性がフェリーニに話し終えるのを待った。

   何度も肯くフェリーニ。うっすらと笑みさえ浮かべている。そして、話しはじめるフェリーニ。なんと答えてくれるのだろう。通訳が待ちどおしい。
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