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川崎市夜光編
ママチャリのおばちゃんとデブでヨロヨロの太陽
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先に進むことなど止め、このまま逃げかえりたいという欲求も確実に存在している。歩いている者などただのひとりもいない。
稀に人の気配にぎくりとして振り返ると、自転車に乗ったごく普通のおばちゃんだったりする。こんな場所で、それもママチャリに乗ったおばちゃんとすれちがうなんて。
それが、まさにデペイズマンといった異和効果を覚えさせ、逆に妙にリアルだった。
走り去るおばちゃんのどっしりとした腰を眺めながら、何故こんなところを炎天下に歩いてゆかねばならないのか、いったい、この行軍に何の意味があるというのか、固より意味などあるはずもないのだが、繰り返し自問してしまう。
それでも、肝だめしに来たわけではないのだから、ただ怖がっただけで帰ったのでは、何にもならない。
とりあえず、シャッターを切る。何でもいいからシャッターを切る。この場所にいたんだ、という単なる記録でもいい。一枚でも多くこの非現実世界をフィルムに焼き付けておこう。
しかし、どうしたものか、カメラがどうも面白くない。ファインダーを覗いても一向に興奮しない。これは致命的かもしれないなあと、徐々にナーバスになってゆく。
辺りには嫌な臭いがたちこめ、無気味な音が間断なく聞こえている。金網の隙間から二眼レフのレンズフードを突っ込み、エイリアンの基地と思しき建造物を撮る。
ただの時間かせぎ。延命行為。そんなフレーズが脳裏に浮かぶ。
と、不意に見晴らしの良いところへと出た。運河の上にかかる橋の上だ。左には真っ白なガスタンクが居並び、その岸壁には錆びどめを塗っただけかのような毒々しいオレンジ色の船舶が停泊している。
時折、拡声器から人声らしきものの断片が、風にのって聞こえてくる。
なんの変哲もない光景ではある。が、しかし、これが震えるほどに非現実性を帯びているのだ。遥か向こうに見知った羽田飛行場が見えてはいるものの、何か嘘っぽく、なんの気安めにもならない。
この空気を、異様な緊張に満ちているこの空気を、なんとか損なわずに多くの人達に伝えたいと考える。
すると、そのことから逆に、この光景に恐怖を覚える自分のその戦慄は、如実にネガに焼き込まれるだろうことは確かなのだから、写真は、ある光景を借りて己の内面を逆照射することにほかならないことがわかってくる。
ということは、つまり、写真を使って心のなかの恐怖を描き出そうとしているのだろうか。だが、自分の心に巣食っている恐怖とは、なんだろうか。いったい何に恐怖しているのか。そんな難しい分析はオレにはわからない。
唯、今まさに目の前に現前する恐怖、その正体が何かはわからないのだが、確かに何かを感じる。何かが確実に存在している
それは巨大なものだ。それも半端な大きさではない。
ギラつく真夏の陽射しに眩暈するほどにフレアを放ち、白く光り輝くガスタンクは、もしかしたら何百万羽のアメリカシロヒトリが羽を休めているだけなのかもしれない。
今にも燐粉を撒き散らしながら、一斉に空へと舞い上がり、今度はジェット機に化けて飛行場に向けて飛翔するのではないか。
しかし、そんな他愛ないものではない。もっと邪悪なもの。アメリカシロヒトリは単に、意のままに繰られているだけなのだ。
あるいは、橋の上にいるからだろうか。碧い運河に犇めき合いながら、今やおそしと獲物を待っている何万頭ものプレシオサウルスの群れを想像する。
それで思い出した。
まだ小学校にも上がらない頃。河原で独り遊んでいた時のこと。多分、色々な形の小石を集めていたのだろう。
ふと見上げた対面の崖上にあったトタン小屋のドアが、音もなく開き再び風もないのにバタンと閉まった。
すると、それを境に俄にわけの分からない恐怖に駆られ、それと同時に誘導されるようにして見た、川底のある一点から目が離せなくなり、猛烈な力で水底へと引き込まれそうになった。
それは、時間にしてみればほんの数秒の出来事だったかもしれないが、幼いながらにもオレは精一杯その力に抗った。
根負けしたらもうお終いだと思った。ぎりぎりのところでなんとか頑張っていると、やがて、ぷつりとその力は途切れた。
徐々に力が減衰していったというのではない。まるで諦めたかのようにぴたりと吸い寄せようとする力が消え去ったのだ。
それ以来、水が怖くなったし、目に見えぬものの存在を意識するようになった。
そして、今も眼下には窺い知れない恐怖が波打っている。橋はそれほど長くはないが、工事中の為、歩道が車道からだいぶ離れた位置に仮設されていて、その分だけ運河の上へと横に迫り出している。
そのせいか、橋桁があるようなないような、まるで歩道が中空にぽっかりと浮かんでいる気がする。
橋を渡りきると道路工事の作業員が、道端に散らばっている。
この工場地帯のど真ん中で、その連中と、風を切って疾駆するトラックの運転手のみが、生命を有する生き物かのようだが、実は彼等は人間らしくふるまってはいるものの、ロボトミーの手術を施され、ぽっかりと開いたお鉢にヘルメットを被せただけの木偶人形か、ステアリングを握るだけのサイボーグに違いない。
この場所には、やはりロボットのような非生命こそ相応しい。木偶人形たちは、言語中枢までをも奪われたのか、黙々と作業をこなしていく。
そんな彼等を尻目に、オレはとにかく道なりによたよたと進んでいく。相も変わらず背後から迫り来るトラックに煽られ、びくつきながら。なぜかピンク・フロイドの『デブでよろよろの太陽』のギターが掠れながら聞こえてくる。
稀に人の気配にぎくりとして振り返ると、自転車に乗ったごく普通のおばちゃんだったりする。こんな場所で、それもママチャリに乗ったおばちゃんとすれちがうなんて。
それが、まさにデペイズマンといった異和効果を覚えさせ、逆に妙にリアルだった。
走り去るおばちゃんのどっしりとした腰を眺めながら、何故こんなところを炎天下に歩いてゆかねばならないのか、いったい、この行軍に何の意味があるというのか、固より意味などあるはずもないのだが、繰り返し自問してしまう。
それでも、肝だめしに来たわけではないのだから、ただ怖がっただけで帰ったのでは、何にもならない。
とりあえず、シャッターを切る。何でもいいからシャッターを切る。この場所にいたんだ、という単なる記録でもいい。一枚でも多くこの非現実世界をフィルムに焼き付けておこう。
しかし、どうしたものか、カメラがどうも面白くない。ファインダーを覗いても一向に興奮しない。これは致命的かもしれないなあと、徐々にナーバスになってゆく。
辺りには嫌な臭いがたちこめ、無気味な音が間断なく聞こえている。金網の隙間から二眼レフのレンズフードを突っ込み、エイリアンの基地と思しき建造物を撮る。
ただの時間かせぎ。延命行為。そんなフレーズが脳裏に浮かぶ。
と、不意に見晴らしの良いところへと出た。運河の上にかかる橋の上だ。左には真っ白なガスタンクが居並び、その岸壁には錆びどめを塗っただけかのような毒々しいオレンジ色の船舶が停泊している。
時折、拡声器から人声らしきものの断片が、風にのって聞こえてくる。
なんの変哲もない光景ではある。が、しかし、これが震えるほどに非現実性を帯びているのだ。遥か向こうに見知った羽田飛行場が見えてはいるものの、何か嘘っぽく、なんの気安めにもならない。
この空気を、異様な緊張に満ちているこの空気を、なんとか損なわずに多くの人達に伝えたいと考える。
すると、そのことから逆に、この光景に恐怖を覚える自分のその戦慄は、如実にネガに焼き込まれるだろうことは確かなのだから、写真は、ある光景を借りて己の内面を逆照射することにほかならないことがわかってくる。
ということは、つまり、写真を使って心のなかの恐怖を描き出そうとしているのだろうか。だが、自分の心に巣食っている恐怖とは、なんだろうか。いったい何に恐怖しているのか。そんな難しい分析はオレにはわからない。
唯、今まさに目の前に現前する恐怖、その正体が何かはわからないのだが、確かに何かを感じる。何かが確実に存在している
それは巨大なものだ。それも半端な大きさではない。
ギラつく真夏の陽射しに眩暈するほどにフレアを放ち、白く光り輝くガスタンクは、もしかしたら何百万羽のアメリカシロヒトリが羽を休めているだけなのかもしれない。
今にも燐粉を撒き散らしながら、一斉に空へと舞い上がり、今度はジェット機に化けて飛行場に向けて飛翔するのではないか。
しかし、そんな他愛ないものではない。もっと邪悪なもの。アメリカシロヒトリは単に、意のままに繰られているだけなのだ。
あるいは、橋の上にいるからだろうか。碧い運河に犇めき合いながら、今やおそしと獲物を待っている何万頭ものプレシオサウルスの群れを想像する。
それで思い出した。
まだ小学校にも上がらない頃。河原で独り遊んでいた時のこと。多分、色々な形の小石を集めていたのだろう。
ふと見上げた対面の崖上にあったトタン小屋のドアが、音もなく開き再び風もないのにバタンと閉まった。
すると、それを境に俄にわけの分からない恐怖に駆られ、それと同時に誘導されるようにして見た、川底のある一点から目が離せなくなり、猛烈な力で水底へと引き込まれそうになった。
それは、時間にしてみればほんの数秒の出来事だったかもしれないが、幼いながらにもオレは精一杯その力に抗った。
根負けしたらもうお終いだと思った。ぎりぎりのところでなんとか頑張っていると、やがて、ぷつりとその力は途切れた。
徐々に力が減衰していったというのではない。まるで諦めたかのようにぴたりと吸い寄せようとする力が消え去ったのだ。
それ以来、水が怖くなったし、目に見えぬものの存在を意識するようになった。
そして、今も眼下には窺い知れない恐怖が波打っている。橋はそれほど長くはないが、工事中の為、歩道が車道からだいぶ離れた位置に仮設されていて、その分だけ運河の上へと横に迫り出している。
そのせいか、橋桁があるようなないような、まるで歩道が中空にぽっかりと浮かんでいる気がする。
橋を渡りきると道路工事の作業員が、道端に散らばっている。
この工場地帯のど真ん中で、その連中と、風を切って疾駆するトラックの運転手のみが、生命を有する生き物かのようだが、実は彼等は人間らしくふるまってはいるものの、ロボトミーの手術を施され、ぽっかりと開いたお鉢にヘルメットを被せただけの木偶人形か、ステアリングを握るだけのサイボーグに違いない。
この場所には、やはりロボットのような非生命こそ相応しい。木偶人形たちは、言語中枢までをも奪われたのか、黙々と作業をこなしていく。
そんな彼等を尻目に、オレはとにかく道なりによたよたと進んでいく。相も変わらず背後から迫り来るトラックに煽られ、びくつきながら。なぜかピンク・フロイドの『デブでよろよろの太陽』のギターが掠れながら聞こえてくる。
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