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同化
ストリートビュー
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長い夏がやっと終わりを告げ、金木犀が香りはじめた或る夜、ナルミは、二十四時すぎに回廊に出かけた。
実は、Googleストリートビューが好きなナルミは、たまたまホノルルを散歩していて、偶然それを発見したのだ。
社交的ではない、いや、半分ひきこもりのようなナルミは、当然自分のことを見つめていると死にたくなってしまうので、バーチャルな世界で生きていた。
なので、グーグル先生のストリートビューが面白くて仕方なくハマってしまったのだった。
ビューポイントでないところには、PHOTOだけがアップされていているのだが、そのなかの一枚のトンネルの写真にほんの気まぐれで、あのヒト型のカーソル? をドラッグしたところ、世界は一挙に暗転したあと、着いたところは、天王洲アイルの回廊だったというわけだった。
回廊には、すでに彼女がいて、また暗い運河を眺めていた。
ナルミも彼女と柱ひとつ隔てたいつもの場所に佇みながら、ぼーっと黒い運河を眺めた。
すると、運河の向う岸からだろうか、なにやら祭り囃子の笛のような、華やいだ雰囲気があるが、どこか哀しげな旋律が聞こえてきた。
こんな笛の音を、たしか佃大橋の近くで聞いたことがあった。
あのときは、川面を渡ってくる風に乗って聞こえる笛の音を追って、ふらふらと河川敷を彷徨ったのだ。
そぞろ歩きながら、何組もの幸せそうなカップルや、家族連れとすれちがった。
そして、ナルミはぼくらは同じ時間線を歩みながらも、決して交わることはないのだとな思った。
笛の音に導かれるようにして、やがてナルミは佃大橋のたもと付近にまでやってきた。
海がもうすぐそこにあるから、カモメが幾羽も飛び交っていた。そして、ナルミはパンがある事を思い出し、バッグからパンを取り出して千切り、カモメたちに投げ与えてみたのだった。
すると、どこにいたのかと思われるほどのカモメたちが何十羽と現われるや、千切ったパンは、一度としてきれいな放物線を描きながら海へと落ちてしまうことなく、すべて彼らの嘴に咥えられていくのだった。
あのとき、カモメたちは、翼を見事に繰って空中に静止しているかのように見えた。
そして、ナルミはいま、黒い運河を眺めながら記憶喪失のドラマのことを想い出していた。
それは、元妻が、記憶喪失となった元主人になんとかして失ってしまった記憶を取り戻させようとする物語だった。
元妻は、過去の想い出を語りつぎながら、記憶を回復させようと努めるのだが、一向に埒があかなかった。
ある日、妻は、不意に「もう、若くないし昔とはちがいます」といいながら、元主人の目の前でブラウスを脱ぎはじめる。
すると、元主人は、妻の名を思い出し、その名を呼ぶのだった。
というわけで、この人は、完全に奥さんとして彼女を再認知したわけであって、結果じょじょに記憶を取り戻していくのだが、乳房を見て思い出すのならば、まあ、納得しないでもないが、ブラを着けたままでなぜまた記憶が甦るのかが不思議だった。
眼前でブラウスを脱ぐという行為に妻に対する強い印象が纏わりついていた、強烈な思い出が付加されていた、ということならば、あり得るかもしれないが、やはりドラマにするのならば、そういったパブロフの犬的な条件反射を喚起するための何らかの伏線を張っておかないと、リアルさは生じてこないと思った。
なぜまた、ブラウスを眼前で脱ぐことが、自分の妻という個人を特定させる要因となったのか。
結局のところ、半裸になったのであるから、半裸になったら見える部位のホクロによって、妻であるという記憶が甦ってきたといいたいのだろうとは、思う。
もしくは昇り竜やら猪鹿蝶の筋彫りやら刺青はありえないとしても、アザのようなものによって、ということなのだろうか。
しかし、それを具体的に説明はしないのである。
「ああ、このアザは!」であるとか、「この大きなホクロは!」などといった台詞は、いっさいない。
このように観るものに判断を委ねているようなところが、ちょっとと思ったのだが、どうやら、真実は異なるようなのだ。
つまり、監督は、男の前で平然と服を脱ぎはじめる女性というものは、妻でしかありえないだろう、ということをいいたいのだと思った。
しかし、それは奇麗事の幻想ではないのか。玄人女も、あるいは奥さん意外の普通の女性でも房事のときには、男の前で平然としながら、衣服を脱ぎはじめるのだから。
が、監督は、さらにこういうだろう。男の前で平然とブラウスを脱ぎはじめる女性というものは、妻でしかありえない、否、絶対にそうあるべきなのだ、と。
だが、そういったこうあるべきであるとの個人的な貞操観とリアリティは、相容れないものがあるだろうと思うのだった。
ただ確かに夫婦の絆とは、斯様に強いものなのである、とナルミも信じたい。
このシーンの最後のカットは、奥さんの名を思い出した旦那さんに、半裸の奥さんが擦り寄って手をつなぎ、奥さんは嬉しさのあまり、泣き崩れるというカットだった。
実は、Googleストリートビューが好きなナルミは、たまたまホノルルを散歩していて、偶然それを発見したのだ。
社交的ではない、いや、半分ひきこもりのようなナルミは、当然自分のことを見つめていると死にたくなってしまうので、バーチャルな世界で生きていた。
なので、グーグル先生のストリートビューが面白くて仕方なくハマってしまったのだった。
ビューポイントでないところには、PHOTOだけがアップされていているのだが、そのなかの一枚のトンネルの写真にほんの気まぐれで、あのヒト型のカーソル? をドラッグしたところ、世界は一挙に暗転したあと、着いたところは、天王洲アイルの回廊だったというわけだった。
回廊には、すでに彼女がいて、また暗い運河を眺めていた。
ナルミも彼女と柱ひとつ隔てたいつもの場所に佇みながら、ぼーっと黒い運河を眺めた。
すると、運河の向う岸からだろうか、なにやら祭り囃子の笛のような、華やいだ雰囲気があるが、どこか哀しげな旋律が聞こえてきた。
こんな笛の音を、たしか佃大橋の近くで聞いたことがあった。
あのときは、川面を渡ってくる風に乗って聞こえる笛の音を追って、ふらふらと河川敷を彷徨ったのだ。
そぞろ歩きながら、何組もの幸せそうなカップルや、家族連れとすれちがった。
そして、ナルミはぼくらは同じ時間線を歩みながらも、決して交わることはないのだとな思った。
笛の音に導かれるようにして、やがてナルミは佃大橋のたもと付近にまでやってきた。
海がもうすぐそこにあるから、カモメが幾羽も飛び交っていた。そして、ナルミはパンがある事を思い出し、バッグからパンを取り出して千切り、カモメたちに投げ与えてみたのだった。
すると、どこにいたのかと思われるほどのカモメたちが何十羽と現われるや、千切ったパンは、一度としてきれいな放物線を描きながら海へと落ちてしまうことなく、すべて彼らの嘴に咥えられていくのだった。
あのとき、カモメたちは、翼を見事に繰って空中に静止しているかのように見えた。
そして、ナルミはいま、黒い運河を眺めながら記憶喪失のドラマのことを想い出していた。
それは、元妻が、記憶喪失となった元主人になんとかして失ってしまった記憶を取り戻させようとする物語だった。
元妻は、過去の想い出を語りつぎながら、記憶を回復させようと努めるのだが、一向に埒があかなかった。
ある日、妻は、不意に「もう、若くないし昔とはちがいます」といいながら、元主人の目の前でブラウスを脱ぎはじめる。
すると、元主人は、妻の名を思い出し、その名を呼ぶのだった。
というわけで、この人は、完全に奥さんとして彼女を再認知したわけであって、結果じょじょに記憶を取り戻していくのだが、乳房を見て思い出すのならば、まあ、納得しないでもないが、ブラを着けたままでなぜまた記憶が甦るのかが不思議だった。
眼前でブラウスを脱ぐという行為に妻に対する強い印象が纏わりついていた、強烈な思い出が付加されていた、ということならば、あり得るかもしれないが、やはりドラマにするのならば、そういったパブロフの犬的な条件反射を喚起するための何らかの伏線を張っておかないと、リアルさは生じてこないと思った。
なぜまた、ブラウスを眼前で脱ぐことが、自分の妻という個人を特定させる要因となったのか。
結局のところ、半裸になったのであるから、半裸になったら見える部位のホクロによって、妻であるという記憶が甦ってきたといいたいのだろうとは、思う。
もしくは昇り竜やら猪鹿蝶の筋彫りやら刺青はありえないとしても、アザのようなものによって、ということなのだろうか。
しかし、それを具体的に説明はしないのである。
「ああ、このアザは!」であるとか、「この大きなホクロは!」などといった台詞は、いっさいない。
このように観るものに判断を委ねているようなところが、ちょっとと思ったのだが、どうやら、真実は異なるようなのだ。
つまり、監督は、男の前で平然と服を脱ぎはじめる女性というものは、妻でしかありえないだろう、ということをいいたいのだと思った。
しかし、それは奇麗事の幻想ではないのか。玄人女も、あるいは奥さん意外の普通の女性でも房事のときには、男の前で平然としながら、衣服を脱ぎはじめるのだから。
が、監督は、さらにこういうだろう。男の前で平然とブラウスを脱ぎはじめる女性というものは、妻でしかありえない、否、絶対にそうあるべきなのだ、と。
だが、そういったこうあるべきであるとの個人的な貞操観とリアリティは、相容れないものがあるだろうと思うのだった。
ただ確かに夫婦の絆とは、斯様に強いものなのである、とナルミも信じたい。
このシーンの最後のカットは、奥さんの名を思い出した旦那さんに、半裸の奥さんが擦り寄って手をつなぎ、奥さんは嬉しさのあまり、泣き崩れるというカットだった。
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