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ナルミ
ナルミの性体験(回想) サイドストーリー カヲル3
しおりを挟む病院を出たカヲルは、中目黒駅方面に向かいながら、いくらなんでも即答してしまったのは、まずかったかなと後悔しはじめていた。
橋の欄干にもたれ、目黒川を眺めやる。一羽の白鷺が、岩の傍らで羽を休めていた。
雨がしばらく降っていないので、川底がほとんど剥き出しになっている。
洪水防止のため、川を大幅に掘り下げ堤防も整備する護岸工事を行い、加えて二つの調節池を設けたことで、この川は、以前のように雨が降りつづくと容易に増水し、氾濫するなどということはなくなったようだ。
だが、カヲルがまだ住んでいた頃には、目黒川は、まだ暴れ川で、何度か氾濫したことがあった。
一度などは、中目黒の駅に溢れ出た水が溜まり、池のようになって、立ち往生させられたことがあった。
今はなくなったが以前には、改札を入ると距離にして十メートルほどのエントランスめいたところがあり、その先に、七、八段の階段があったのだが、その階段のところまでが、漏斗上に窪んでいたのか完全に水没していた。
これから乗車する客と、降車した客とで改札側と階段側とに分れてはいたが、皆一様に押し黙り、階段のところで諦めたように立ち竦んだまま、急ごしらえの美しくもない池に見入っていた。
ただ、ズボンの裾を捲り上げ、靴と靴下を脱げばいいだけのことだが、誰もそうしないのが不思議なほどだった。
自分はまた、あのときのように、誰もがやらないことをやろうとしているのか、と思った。
カヲルは、あのとき躊躇なく靴下を脱ぎ、靴を手に持って、目黒川が駅舎のなかに作った池へと踏み込んでいったのだ。
しかし、考えてみれば、家庭内のことだから、表立つことがないだけの話で、ほんとうは、当然のごとく日常的におこなわれているのかもしれない。それは、当事者間だけの「あたりまえ」なのだろうとカヲルは思った。そういった家庭が全体を占める割合は、案外一割強くらいあるのではないだろうか。
カヲルは、またプレッセに寄って買い物をする前に、久しぶりに図書館に行ってみることにした。
地下一階は、中央の広場を囲むようにしてプレッセ、スタバ、そして図書館などがあり、広場は、イベントなど行われているらしかった。
エスカレータで、下に降りてゆこうとすると、強風のため乗り降りの際には、お気をつけくださいという、看板が出ていた。少し大袈裟ではないかと思ったら、乗ってみると確かに、身体が揺れるほど風が強く当たることがあるので、びっくりした。
地下一階に降りたつと、広場には、胡坐をかき車座になって座る懐かしいガン黒ネーちゃんたちがいたり、パラパラを踊る一団や、スタバの前あたりには、まるで舞いを舞っているような太極拳の型をやっている人たちもいて、なにやらわけのわからない活気に満ちていた。
たぶん、図書館の向かいにある小さな会場でなにか催し物をやっていて、それの出演待ちの人たちなのだろうと、カヲルは思った。
また、それらの人たちとはまた異なる雰囲気のギターを弾いてるグループもいて、カヲルは興味を覚えた。それは、たまたまギターをもっていて、知り合いの女の子に、弾いてよ、みたいなノリではじまった、そんな感じだった。
聴いたことのあるメロディに、カヲルは思わず耳をそばだてた。そして、咄嗟にはでてこなかったが、風に吹かれてという曲であることを不意に思い出した。
若い子なのに、ボブ・ディランが好きなんて、かっこいいかもなんて思いながら、カヲルは広場の真ん中あたりに立ち止まり上を見上げると、四方がそそり立つ絶壁のようにビルに囲まれていて、まるで太い煙突の底にいるような気がした。この構造から、ときに突風が吹くのかもしれなかった。
やがて歌は、ニール・ヤングに変わった。
重たげな、雨雲だけの空を眺める、銀の針の雨が、雲を突き破って降ってくる、みたいな歌詞。
カヲルは、プチ整形してナルミに逢いにいく自分を想像する。眼だけなら、二日もあればいい。あるいは、全然別人になってナルミに抱かれる自分を想像する。どうもいけない。
すべてはナルミを中心に廻りはじめているのかもしれない、などと思った。なにか、とんでもない宿題を負わされてしまったようだ。
広場を突っ切り、重たいガラスの扉を押してなかに入れば、もう図書館だった。
しかし、私はほんとうにナルミとするんだろうか。あるいは、既にもうすることに運命づけられているんだろうか。あたしは、頭がどうかしちゃったの?
でも、むろん、ナルミとのことだから承知したのであって、ナルミ以外の誰かだったなら、こんな理不尽な申し出を受け入れるはずもない。だが、あまりにも過保護すぎるのではないだろうか、容子姉さんといい、あたしといいと、カヲルは思う。
そういえば、図書館というのは、静かなところであると相場がきまっているけれども、あれはみんなが気を使っておしゃべりをしないからとかいうのではないと、カヲルは何かで読んだ。
館内で大きな声でおしゃべりをしないというのは、常識なのだろうけれども、この独特な静謐な雰囲気は、紙が音を吸っているからなのだ。
考えるまでもなく、図書館というのは本の倉庫であって紙の山というか、海というか、とにかく、膨大な紙の巣窟なのだ。さまざまな言葉を表面に印字された紙たちは、音を喰って棲息しているらしい。
カヲルは、この、紙に音を吸われてしまった静謐さが、好きだった。
容易には、こころの整理がつきそうになかった。というか、ナルミにとって、私とのセックスなんて別になんでもないただの通過点に過ぎないだろうけれど、私にとっては、そうはいかないだろうとカヲルには容易に想像がつくのだった。
整理がつかないのは、ナルミに、この若くもなく美しくもない身体を与えることに対してではなく、抱かれてしまった事後のことだ。
こんなことはなんでもないと嘯くのは簡単だが、男を身体に受け入れるということは、若くない私にどのような影響をもたらすものなのだろうか。
そうなのだ。私がいちばん恐れているのは、自分なのだ、とカヲルは思う。カヲルは、自分が変わってしまうことに、恐怖しているのだった。
とりあえず馴染みのある作家さんの本をぺらぺらとめくっては、字づらをなぞっていく。いまでこそ、落丁や乱丁をあまり見かけなくなったが、落丁やら乱丁、あるいは、重複といったものは、テクストだけに頼らざるを得ない文字の世界では、読者は、それらに相当な衝撃を受けるものだ。
だが、そういった繋がらないという繋がり方もあるわけだから、決してコミュニケーションの断絶であるとか、拒否ではないと思うのだ。
恋人でもない男に抱かれるということ。若ければ、まだまだ恋も芽生えることもあるかもしれない。誰も振り返ってもくれない、歯牙にもかけられないような年齢になって、一度きりのセックスをするなんて。
いっそ、ナルミを恋人にしてしまおうかしら、なんて馬鹿なことをカヲルは考える。
わくわくして、そわそわして、まるで生娘みたいな自分がいる。ほんとうに馬鹿みたいだ。
たとえ一度きりだとはいっても、肉体は嘘をつかないだろうし、心は、千々に乱れるだろう。
そうなのだ、もうすでに私は、ナルミに抱かれているようなものだった。身も心も、ナルミに奪われてしまっているのだ、とカヲルは苦笑いする。
やがてカヲルは、ナルミとの毒のある甘い情事の幻影を打ち消すべく、手に取ったミステリアスな物語のアトモスフィアに当たられたように、頭の上に綿菓子みたいに乗っかる妄想にのめり込んだ。
そして、何者かにストーキングされる自分を脳内に墨流しするが如くに描き出しはじめながら、自分に言い聞かせるようにこんなことを呟いた。
「やっと、約束を果たすときがきたわ」
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