パスティーシュ

トリヤマケイ

文字の大きさ
上 下
38 / 78
ナルミ

ブルガリ2

しおりを挟む
   小笠原で見た紺碧の空を、また見たい   ナルミとはふと思う。無言のまま、ケータイに出る。

「あのさ、懸案の件なんだが。大方の意見としては、かねてから問題視されてきたKに対して、それほど気兼ねすることはないのではないのか、ということなのだが、やはり老舗として常に業界を牽引してきたKの功績も考慮しないわけにはいかないわけで、こちらを立てれば、あちらが立たずといった二律背反的な微妙な問題であるからして軽率なまねはできないといったわけなんだ。

 そんなこんなで、実はこちらとしても往生しているわけなのだけれど、考えてみればもっとフランクに捉えてもいいのかもしれないのだが、フランクに徹しきれないのは、昭和生まれのよいところでもあり、悪いところでもあるといったところだろうか。

 そんなわけで、キミのことを閑却していたわけではけっしてなく、むしろこちらとしては、積極的に関わっていきたい所存なのだが、どうしてもこの時期Kがらみの処理問題が山積するので、いかんとしがたいというわけなんだ。

 まあ、部外者からすれば、なにを馬鹿なということで一笑に付されてしまうかもしれないのだが、当事者としては非常にデリケートな問題なんだよ」

 ということで、わたしのできる唯一のことといえば、なんのことはない、それらのことをすべて棚上げし、ほっかむりしてこの場をなんとかやり過ごす、これしかないんだよね。

「ほうほう。なるほど。そうなんでしょうね。あなたがそうおっしゃるんですから」
   そう言ってナルミはどこの誰やら知らないけれど、間違い電話のおかげでやっと御輿を上げる気になった。

 これほどフルボッコされたのは、高校の時以来だった。ダンゴ虫のように右半身を下にして丸まっていたので、主に左の太腿のあたりがやられていた。

 ナルミは、左脚を引きずりながら、歩き出した。







 そして。一時間後、ナルミは隼人の部屋にいた。またぞろHしてエンドルフィンを大量に分泌したかったから。

 というのも、電車に乗り込んだとたん、安心したのか痛みが倍加したからだった。

 ま、隼人は、セフレといった感じの男の娘で、バイト先で知り合って、はじめはそんなHみたいなことをするつもりもなかったんだけれども、それなりに仲良くなった頃、たまたまその日がヒマで遊びに行っていいかと電話したら、速攻OKであれよあれよという間に、若いふたりだからしてそんな関係になってしまった。

 その隼人の部屋で、ナルミは、自分の部屋みたいに寛いでいた。むろん、彼氏がいない今だからこそ、こんな関係が続いているのだろうことはわかっていて、彼氏が出来た時点でこんな関係は清算するつもりでいる。

 つもりでいるけれども、肉の繋がりというものは当人たちの考えているよりも、すさまじいほどの執着を生じさせるものなので、その時は結構辛いだろうなあ、とナルミは思うのだけれど、自業自得なんだからしょうがないっしょって感じ? 

 で、きょうはじめて気づいたが、意外なことに隼人の部屋にナルミの大好きなジャクソン・ブラウンのCDがあって、驚いた。

 ジャクソン・ブラウンを知っていること自体驚かされたのだが、話を訊いてみると案の定、そのCD「late for the sky」は、隼人がバースデイプレゼントで上司のおじ様から貰ったということだった。

 やっぱり隼人のセンスではなかったのだとナルミは思って、なんかちょっと安心なんていうとおかしいけれど、辻褄が合ったという感じだったんだけれども、隼人も好きでよく聴いているということだった。

 隼人は、東北の出身でとっても穏やかで優しい性格の持ち主だった。だから、ちょっとマズったかなとナルミは思っていた。

 もっとアバズレだったなら、平気でボロ雑巾みたく捨てられたのにって。ナルミは、いつも言いたい放題やりたい放題。

 隼人はそんなナルミに優しく頷くだけ。ナルミは優しくて包容力のある隼人に母親を見ているのかもしれない。

 どうしても隼人の顔を見ると、甘えてしまう。まるでナルミの母親のような、しぐさや眼差し。

 そうなんだ。ヨーロッパかどっかの綺麗な湖水を思わせる、そうたとえば、スワン城を映す鏡面のごときレマン湖みたいな? そんな隼人の穏やかな光を湛えた眸。

 この眸に見つめられると、ほんとうに落ち着くということはあった。けれども、やはり母親は母親であって恋の対象ではなかった。

 きょうは、はじめからなんか隼人はやけにはしゃいでいて、けど不意に塞ぎ込んだと思ったら、ナルミにこう言い出した。

「ボクって都合のいい女なんでしょ? わかってる。それ以上でもそれ以下でもない、ただの都合のいい女。そうよね?」

 これには、ほんとうにまいった。

 彼女の人の良さにつけ込んで、自分が寂しいときにだけやってきて、やるだけやって隼人のことなど丸っきり考えていないナルミ。

 俺はクズだとナルミは思った。
 
 いつだったか青空文庫で耳無芳一の話をナルミは読んだ。全身くまなく書き入れたはずの般若心経が、実は耳にだけ書き忘れられていて、耳だけむしり取られてしまうという、えぐい耳無芳一の話。

 あれは、いったい何を示唆しているんだろう。そもそも琵琶法師というのは、琵琶を弾くことを生業とする盲目の僧のことらしいけれども、盲目である上に更に耳まで奪われてしまう芳一。

 実際の話、どうなんだろうか。

 外耳がなくても中耳・内耳は壊されてはいないのだから、聴覚を完全に奪われてしまったわけではないとは思うのだけれども、外耳をむしり取られてしまうという表象は、そのまま聴覚を奪われるということを象徴的に言い表しているのだろうと思う。

 しかし、なにも経文を書き忘れる箇所は、耳ではなく、鼻でも、口でもよかった筈なのであり、あえて耳を選択した理由とは、なんなのかということなのだ。

 もっとも重要な視覚と聴覚のふたつをも喪失するという苦悩。

 俺も隼人に対して二重に苦悩をもたらしたのではないか、とナルミは思うのだ。デートらしいデートもしたことはなかったし、むろん、交際してほしいなどといったこともない。

 いきなり彼の部屋を訪ね、関係は始まってしまった。真面目な隼人が関係を持ってナルミに惹かれない筈はなく、その隼人の真摯な気持ちと肉体を蹂躙しているナルミ。

 ナルミは、隼人から、友達や恋人と過ごすであろう大切な時間を奪い、無垢な心を穢した。

 あのポートレートの少女の眸。
 ナルミを責め苛む目。
 ナルミを非難し、救いを求める目。

 実はあれは隼人の眸だったのだ。

 クズなナルミのできる唯一のことといえば、解決しなければならないすべてを棚上げし、ほっかむりしてこの場をやり過ごす、これしかなかった。
しおりを挟む

処理中です...