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ナルミ
ブルガリ
しおりを挟むあれはいつのことだったか、たぶん土曜日。ナルミは、アテネフランセにフレディ・M・ムーラー監督作品『山の焚火』という映画を観にいった。
そして、その帰りに本郷三丁目の方へと抜けていく小径をのんびりと歩いていったのだけれど、順天堂前の信号あたりで、ブルガリのサングラスをかけた女が、黄色いニュービートルに乗り込む際に胸の谷間がそっくり見えて、ぶっちゃけ卒倒しそうになった。冗談だが。
実際鼻血が出ていたかもしれない。理由はいたって単純。その女はとっても綺麗でセクシーだったから。
つまり、嫉妬したのだ。
ついさっきアテネフランセの本屋さんで、底知れぬ哀しみを宿しているとっても荒みきった眸をした、『ベニスに死す』のタジオのような美少年のポートレートを見てきたばかりだったから、ナルミは、なぜか一瞬だけれど深い胸の谷間に救われたような気がした。
けれども、胸の谷間が見えたくらいじゃ、あの少年の哀しみは消せやしない。というか、男たちのサソリの毒針のような視線がそんなにほしいのか、この売女が!
少年のあの視線が、レーザーで脳裏に焼印されたかのように離れない。
どうしたらいいんだろう。
ナルミは痺れたような感じになった頭を振って、軽く途方に暮れる。だが、考える前にもう身体の方は、突進していた。
そう。
ニュービートルに。
ニュービートルの素敵な女性に。
三十秒くらいで女をニュービートルから引きずりだして、頬に平手打ちを食らわす。
そして、これ以上ないような軽蔑の眼差しを浴びせかせ、ただひとことこういった。
「脱げッ!」
どれだけの苦悩に打ちひしがれてきたのだろう、その視線の暗い煌きのなかに、きみの心の奥深くに巣食う哀しみの焔(ほむら)がいままさにゆらりと立ち昇るのを垣間見た、ただそれだけでナルミはやられてしまった。
でも、きみに恋したってわけじゃない。きみのコールタールみたいなどす黒い戦慄するほどの哀しみに、頬を伝い落ちる血のように赤い涙に、恋をした。
嵐のごとく吹き荒れる激情に翻弄されるまま、ナルミは、女の上に馬乗りになって、ビンタを浴びせ続ける。
はなからすべてを諦めているような投げ遣りなきみの視線。その視線の先にはいったいなにがあるの?
なにを見つめているの?
底知れぬ哀しみを宿したその眸がいけないんだ。
俺を狂わせる。
そんな目で俺を見つめないでくれ。
俺には、きみを助けてあげることなんてできないんだよ。祈ることくらいしかできはしないんだ。そんな眸で俺を見つめないでくれ。
気づくと、ブルガリのサングラスはどこかに吹っ飛び、鼻骨の曲がったパプロ・ピカソも真っ青な美人の顔がそこにあった。
きみは、どこにもいない。
「ねえ。これがあたしへの愛情表現ってわけ?」
口腔が切れたらしく、紅い血を見せながら女は、そういって笑った。
どMなのか、この女はとナルミは思う。すると、不意に女が抱きついてきた。まったく予想していなかった女の行動にナルミは反応できなかった。
次の刹那、ふわっと身体が浮かび上がり世界が反転すると、巴投げでアスファルトに叩きつけられたナルミ。
すぐさま股間やら腹、果ては顔に至るまでメチャクチャにヒールの雨が降ってくる。
「調子コイテンジャねーぞ、ゴルァあ! この鼻どうしてくれんだよ、整形にいくらかけたか知ってんのか、このタコがぁああ!」
鬼神も逃げるだろう凄まじい形相で、女はわめきながら太腿を大きく上げて踏みつけてくる。
フェラガモだった、そのヒールは。
なんて言ってる場合じゃなかったけれど、どうしても気になってチェックしてしまうナルミ。
ただのおバカさん?
そのおバカさんの頭のなかでは、ロキシー・ミュージックが鳴り出していた。
『Re-Make/Re-Model』
なぜまたロキシーなのかなんて考えない。バカだから。
フェラガモのヒールが打ち下ろされる度ごとに、とてつもない快感が、爪先から脳天へと駆け上がってゆく。
そうよ、そうなの、私こそどMなの。
もっともっと踏みつけて!
フェラガモ最高!
ナルミは、そんな風に思うようにした。
痛みを快感に変換する術は知らないが、モルヒネに比べて6.5倍の鎮痛作用があるという、脳内麻薬エンドルフィンを即座に分泌したのだと思う。
たぶん。
てか、これは、罰なんだと思ったら、マジにもっと踏みつけてほしいとすらナルミは思った。
これから俺はどうしたらいいんだろう。正直なところ、もうどうでもいい。エンドルフィンが効いてきたのか、じょじょに感覚が薄れてきつつある。
こんな風に実人生の痛みも感じられなくなったらいいのに。
女は、いっさい抵抗しない相手につまらなくなったのか、最後にナルミの顔に唾を吐きかけるやニュービートルで走り去った。
アスファルトは、大地ではないけれども、それでもやはりアスファルトに頬をつけていると地球との一体感があった。
90度回転した世界。ひねくれたナルミには、ちょうどいいのかもしれない。
と、スラックスのポケットで、ケータイが震えはじめた。
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