パスティーシュ

トリヤマケイ

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ナルミ

エメラルドグリーンに輝く地底湖

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   メフィストフェレスは消え、ナルミは、いつの間にやら洞窟の奥へ奥へと彷徨いこんでいた。

 不思議なことに夜目が利くのか、暗いとは感じない。壁面には、雨水や地下水による侵食でおどろおどろしい造形がなされている。天井からも、ぶら下がるようにして、幾つもの鍾乳石が伸びている。

 ナルミは、なにか内臓のなかを進んでいるような気がしてくるのだった。いや、まさに恐竜だろうか、巨大生物の胎内としか、想えなかった。

 壁面いっぱいに繊細な縦溝が刻まれた、たおやかに風に靡くようなフローストーンの美しさに、ナルミは圧倒された。

 そして、じょじょに洞窟は狭く、そして低くなっていく。もう行き止まりが近いのかとナルミは思う。最後は、腹這いになって、進んだ。

 やがて、頭ひとつほどの穴から、さらに奥に伸びるドーム状の空間があることがみてとれた。

 その穴からナルミは、顔を覗かせた。そこには、満々と水を湛えた神秘の大地底湖が、音もなく横たわっていた。そして、妖しく揺らめく深い深いエメラルドグリーンに、ナルミは、吸い込まれるように魅了された。それは、心揺さぶるひとつのメロディだった。

     むろん、ナルミは契約書にサインなどしなかった。

   実際にメフィストフェレスとの取引きの記録として、フランスの司教が1634年に悪魔と交わした契約書が、フランス国立図書館に保存されているという。

   その契約内容はむろん、やりたい放題無双できる対価として魂を持っていかれるのだが、血の滲むようような修行を何年も何十年も積み重ねることでやっと得られるであろう、超人的なパワーを一瞬にして手に入れてしまうのは、チートそのものであり、つまり何もかもがマヤカシなのだ。

   異世界転生の話でスライムやらゴブリンやらを倒してレベル上げするのは、もちろんゲームから来ているので、すべてはゲームの世界での異世界転生物語なのだ。

    しかし、考えてみたらこのリアルの世界も高みの見物をしながらニヤケたり怒ったり涙ぐんでいる高次の存在がいるかもしれず、人間の泣き笑いする人生ゲームはハンパなく面白いにちがいなかった。

   それはともかく他愛ないゲームの世界での話ではなく、現実に悪魔は存在しているのはナルミにとっては明白だった。というか、契約書にサインしろとまで言われたのだし、その存在を否定できるはずもない。





   そんなこともあったなと、ナルミは、懐かしく思い出しながらたなびくピンクの雲のようになって自由気ままに、宙空をたゆたっていた。

   気分は悪くない。腕の切り傷が治りかけて、そろそろ痒くなりかけているので、恐る恐るカサブタに触れ傷をなぞってみたい、そんな時期がきたのかもしれない。

   鏡がないので、顔が元どおりなのかすらわからないが、傷は癒えてきたのだろうか。もう痛みはない。感じないだけなのかもしれないが。

   それよりなにより喉元まで出てはきてはいるのに、もう少しで思い出せそうなのに、思い出せない。そんな歯痒いような痛痒いようななんとも言えない気持ちだった。

   愛していた誰かがいたような、そんな気がしてならない。その愛する存在のために私は、またこのどうしようもなく理不尽で不条理な世界に戻ってきたのかもしれないと、ナルミは思った。

   蹉跌やら無常、軋轢、差別、偏見、虚しさ、貧しさによる惨めさ、嫉妬、肉欲、羨望、焦慮、葛藤等々、これら人にネガティヴな感情が生まれる複雑多岐に渡るエレメントとでもいうべきものは、実は生きていなければ味わえないものなのだろう。

   というか、幾重にも幾重にも折り重なる感情のレイヤーと、それを統御しようとする理性により、はじめからヒトは構成されているのだから、それら複雑怪奇な感情の持ち主こそが、ヒトのヒトたる所以なのだと思う。

  生きている誰もが人生の虚しさや不条理、無常感を感じることがあるはずで、それでも人は生きていかなくてはならない。

   決して、異世界転生してから本気出す、なんていうのはラノベのタイトルだからいいのであって、間違っても自分から人生を諦めてはいけない。

    ゲームや漫画、小説、アニメ、映画などの想像された世界で剣と魔法のファンタジーを楽しむとか、殺人を楽しむだとか、酒池肉林を楽しむだとか、BLでキュンキュンするように、自分の実人生もゲームみたいに楽しめたらいいのだけれど、苦しい場面や困難にぶつかるとなると誰も助けてはくれず、自分自身で障害物を乗り越えていかなければならない。

   ナルミは、幸せも哀しみも喜びも怒りも人並みに、享受してきた。幾度となく蔑まされ馬鹿にされることはあったけれど、ナルミも決して自分から死を望んだわけではないと思いたい。死にたいという気持ちが全然なかったといったらウソになるが。

   ナルミは特別に人生の辛酸を舐めたとか苦労したなどとは思ってはいない。五体満足でこの世に生まれ義務教育も受けさせてもらったし、恋愛もいっぱいしてきたけれど今思えば何にも知らなかった学生の頃の甘酸っぱい恋が、いちばん素敵だったかもしれないと思った。





    べつに疲れてもいないのに、決め事みたいにまた睡魔がやって来た。

ナルミは、微睡みながらふたたび、前の人生の出来事を夢に見るように思い出しはじめた。
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