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ナルミ
金属アレルギー
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夏になって、ナルミの身体にちょっとした異変が起こった。
耳鳴りがしばらく続いた後、左の耳がほとんど聞こえないといった状況になり、ナルミは相当にあせった。耳が聞こえなくなるというのが、これほどにも怖いものなのかと思った。
高い音は、耳が痛くなるほどに金属的な響きをまとって刺すように聞こえてくるのだが、それ以外の音は、水の中に潜っている時のようなモコモコとこもった曖昧な音の塊に過ぎなかった。
また、金属アレルギーだと思われるのだが、左手の中指と右手の親指がまるで腐ったようにぼろぼろになっていた。
最初は、左手の中指を切ったかして傷があったので、そこから黴菌が入って化膿しているのかな程度に思っていたのだが、やがて無傷のはずの右手親指も腐りだしてきて、これはいったいなんだろうと思った。
そして、あろうことか左脚の膝の横あたりも大きく楕円形に腐りはじめ、じゅくじゅくと膿を出しはじめていた。
それに、いつのまにか右側の鼠径部にも腐ったように膿みはじめている箇所が出現していた。だから、もしかしたら背中とか自分では見えない箇所にもまだ腐ったようになったところがあってもおかしくはなかった。
この金属アレルギーは花粉アレルギーのように短期間に症状が出るタイプとは異なり、遅延型のアレルギーと呼ばれるもので、金属に接触してからすぐに症状がでるタイプではないという知識はナルミにもあったのだが、まさか原因が金属だとはなかなか気付かなかった。
ことに夏は汗をかきやすいので、酸性である汗によって金属が溶出し、そのイオン化した金属が体内に入り、次に同じ金属が接触すると拒絶反応を起こすらしい。
ただし、金属自体がアレルゲンではないようで、体内に入った金属イオンが体内のタンパク質と結合し、アレルゲンとなるタンパク質に変質させる触媒となるということのようだった。
このアレルゲンとなるタンパク質に変質した物質を異常なものと認識した生体がアレルギー性をもつようになり、再び同じ金属が体内に入ってタンパク質と結合すると皮膚や粘膜を破壊する、これが、金属アレルギーのメカニズムらしかった。まあ、生命維持装置としてアレルギーが発動するんですかね?
そして、腐食した箇所の皮膚及び粘膜を観察していると、はじめは、水ぽっい膿が、皮膚の下に溜まって膨張しているが、やがて膿が出き切ると腐ったような外観となって、じょじょに皮膚やその下の粘膜が硬化して、やがて剥落し、その下から真新しい皮膚が覗くといった感じだった。
結局、両手に三箇所が腐ったようになってから、二ヶ月ほどで元の指の状態に復帰したが、これらは、金属との接触部に起こる接触皮膚炎というものらしく、さらに脚にできていた腐食部分は、金属イオンが血流によって全身に運ばれると全身性皮膚炎を起こすことがあるそうだから、これに違いないと思ったが、こちらの方は、指のように綺麗にもとどおりになるには時間を要するようで、未だに名残として茶色に変色したままだった。
その腐りはじめの皮膚の染みのようなものを、象のシッポのようだな、とナルミは、はじめ見たときにそう思った。
じっくり見れば見るほどに更にわけがわからなくなってゆく……というのも面白いが、結局のところ第一印象が象のシッポで、仔細に観察すればするほどにその実体があやふやになってゆくというそのこと自体が、そのものの実体を把握するという当初の目的よりも更に興味深い。
なんて嘯けるのはレトリックを弄しているからに過ぎぬのであって、実人生に於いては生き死にの問題なのだから、とんでもない話なのだ。
というのも、実生活に於いて考えに考え抜いてもその本質が杳として掴めないといった事柄がたくさんある。
たとえば……。
何よりも人生そのものが私たちには、さっぱり把握出来ない。人生というやつは、知れば知るほどわけがわからない。
しかし、この世には幸せになる方程式が必ずや存在しているのではないか、ナルミは、そんな気がして仕方ないのだ。それをただ私たちは知らないだけではないだろうか。
人生にナゾはいくらでもあるが、ナルミのこの身体の異変の物理的な因果関係はわかった。
そして、腐ってしまったような皮膚は硬化し、やがてぼろぼろになって剥離して、新しいきれいな皮膚がまた再生される。
それはわかったので、極力金属に直接触れないように手袋着用で作業するであるとか、そもそも夏場を過ぎれば金属イオンが金属から溶け出してくることもないだろうであるとか、それほど深刻な問題ではないのかもしれない。
だが、問題はそこにあるのではなかった。むろん、それも一要因ではあるけれども、ナルミの考えていることは一生かけて自分がやる仕事であるのか否かだった。
ナルミのいま担当しているレーザカットマシンひとつとっても、ほんとうに精度の高いいい製品を作るには熟練を要するのは当然で、一緒に働いているベテランの先輩たちは何十年もかけて職人となった人たちなのだ。
自分も職人になりたいのだろうか、いや、いずれにせよ、何かを作り出すという物作りを生業としたいが、金属加工がそれなのだろうか。ナルミは自問自答する。
耳鳴りがしばらく続いた後、左の耳がほとんど聞こえないといった状況になり、ナルミは相当にあせった。耳が聞こえなくなるというのが、これほどにも怖いものなのかと思った。
高い音は、耳が痛くなるほどに金属的な響きをまとって刺すように聞こえてくるのだが、それ以外の音は、水の中に潜っている時のようなモコモコとこもった曖昧な音の塊に過ぎなかった。
また、金属アレルギーだと思われるのだが、左手の中指と右手の親指がまるで腐ったようにぼろぼろになっていた。
最初は、左手の中指を切ったかして傷があったので、そこから黴菌が入って化膿しているのかな程度に思っていたのだが、やがて無傷のはずの右手親指も腐りだしてきて、これはいったいなんだろうと思った。
そして、あろうことか左脚の膝の横あたりも大きく楕円形に腐りはじめ、じゅくじゅくと膿を出しはじめていた。
それに、いつのまにか右側の鼠径部にも腐ったように膿みはじめている箇所が出現していた。だから、もしかしたら背中とか自分では見えない箇所にもまだ腐ったようになったところがあってもおかしくはなかった。
この金属アレルギーは花粉アレルギーのように短期間に症状が出るタイプとは異なり、遅延型のアレルギーと呼ばれるもので、金属に接触してからすぐに症状がでるタイプではないという知識はナルミにもあったのだが、まさか原因が金属だとはなかなか気付かなかった。
ことに夏は汗をかきやすいので、酸性である汗によって金属が溶出し、そのイオン化した金属が体内に入り、次に同じ金属が接触すると拒絶反応を起こすらしい。
ただし、金属自体がアレルゲンではないようで、体内に入った金属イオンが体内のタンパク質と結合し、アレルゲンとなるタンパク質に変質させる触媒となるということのようだった。
このアレルゲンとなるタンパク質に変質した物質を異常なものと認識した生体がアレルギー性をもつようになり、再び同じ金属が体内に入ってタンパク質と結合すると皮膚や粘膜を破壊する、これが、金属アレルギーのメカニズムらしかった。まあ、生命維持装置としてアレルギーが発動するんですかね?
そして、腐食した箇所の皮膚及び粘膜を観察していると、はじめは、水ぽっい膿が、皮膚の下に溜まって膨張しているが、やがて膿が出き切ると腐ったような外観となって、じょじょに皮膚やその下の粘膜が硬化して、やがて剥落し、その下から真新しい皮膚が覗くといった感じだった。
結局、両手に三箇所が腐ったようになってから、二ヶ月ほどで元の指の状態に復帰したが、これらは、金属との接触部に起こる接触皮膚炎というものらしく、さらに脚にできていた腐食部分は、金属イオンが血流によって全身に運ばれると全身性皮膚炎を起こすことがあるそうだから、これに違いないと思ったが、こちらの方は、指のように綺麗にもとどおりになるには時間を要するようで、未だに名残として茶色に変色したままだった。
その腐りはじめの皮膚の染みのようなものを、象のシッポのようだな、とナルミは、はじめ見たときにそう思った。
じっくり見れば見るほどに更にわけがわからなくなってゆく……というのも面白いが、結局のところ第一印象が象のシッポで、仔細に観察すればするほどにその実体があやふやになってゆくというそのこと自体が、そのものの実体を把握するという当初の目的よりも更に興味深い。
なんて嘯けるのはレトリックを弄しているからに過ぎぬのであって、実人生に於いては生き死にの問題なのだから、とんでもない話なのだ。
というのも、実生活に於いて考えに考え抜いてもその本質が杳として掴めないといった事柄がたくさんある。
たとえば……。
何よりも人生そのものが私たちには、さっぱり把握出来ない。人生というやつは、知れば知るほどわけがわからない。
しかし、この世には幸せになる方程式が必ずや存在しているのではないか、ナルミは、そんな気がして仕方ないのだ。それをただ私たちは知らないだけではないだろうか。
人生にナゾはいくらでもあるが、ナルミのこの身体の異変の物理的な因果関係はわかった。
そして、腐ってしまったような皮膚は硬化し、やがてぼろぼろになって剥離して、新しいきれいな皮膚がまた再生される。
それはわかったので、極力金属に直接触れないように手袋着用で作業するであるとか、そもそも夏場を過ぎれば金属イオンが金属から溶け出してくることもないだろうであるとか、それほど深刻な問題ではないのかもしれない。
だが、問題はそこにあるのではなかった。むろん、それも一要因ではあるけれども、ナルミの考えていることは一生かけて自分がやる仕事であるのか否かだった。
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