パスティーシュ

トリヤマケイ

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リアルからの離脱

ボコるボコればボコるとき

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    翌朝というか、もうお昼近くだが、頭の上でがなりたてる声に目を醒ました。

 目覚ましだった。異世界からの召喚は未だにない。

   全身が重だるく、もう一度ベッドで寝直したい誘惑にかられたけれど、そういうわけにはいかないのは自分が一番よく知っていた。もう行かなくてはならないのだが、いまひとつ気力が無い。
 
   起き上がると、節々が痛んだ。顔を洗い、歯を磨いて、トーストを齧りながら着替えると部屋を出たのは、自分ではなかった。

    どうやら本体はいま、誰かに乗っ取られているらしい。自分は、幽体離脱していてまだベッドで眠っている。

 夏休みのため学生がいないぶん、この時期は通勤が楽だ。ずっと夏休みであったくれたなら、などど勝手なことを思いながら電車に乗り込むたぶんナルミの念話なのか、テレパシーなのかわからないけど、直に聞こえてくる。

 若い頃の自分が、そんな風に周りから疎まれていたのかと思うと腹立たしくもあったが、逆に学生達からしてみると、リーマンオヤジは、それこそウザイ存在なだけだろう。こんなことを考えるようになったこと自体、タロウも紛れもないオヤジ予備群の一員にちがいなかった。

 学生の頃はなんでも出来ると思っていた。色々なものに首を突っ込みがむしゃらにやってきたつもりだけれども、結局はただ逃げていただけなのかもしれない。逃げおおせることは出来ないとわかってはいても、これからも自分は逃げ続けるのだろうかと、これはタロウの思念。

   車内は冷房が効きすぎるほどで、微熱のあるっぽいナルミには肌寒いようだ。でもそれ以上に気になるのは、ウォークマンのシャカシャカという音だった。

   ベッドにいるタロウにもそのシャカシャカが内耳から聞こえてくる。なんならその映像も見える。

 デスメタルでも聴いているのか、とにかくうるさすぎる。それで思い出したが、だいぶ以前になるけれども、この私鉄の同じ車輌で、ウォークマンのヘッドフォンから洩れ出る音がうるさくてたまりかねたあるリーマンが、何回も注意しても音量を下げないことに腹を立て、ついにヘッドフォンをそいつの耳から引き抜いてしまったらしい。すると、逆切れした若い男は、滅茶苦茶にリーマンを打ちのめしたということだった。

 その事件のあった翌日にタロウはやはり大きな音でウォークマンを聴いているヤツと同じ車輌に乗り合わせた。どんな人物が聴いているのかは満員電車のためわからなかったが、だいぶ離れているにもかかわらず、それでも尚、はっきりとシャカシャカという音が間断なく聴こえていた。

 それで、たまらなくなったひとりの人物が、電車が駅に停車した際に外に出て、駅員に向かって大声をあげた。

「すいません。ウォークマンがうるさいんですけど、注意してもらえませんか」

 これではまるっきり小学生だ、そう思いそのときは思わず苦笑した筈だが、確かにそれが一番の得策なのかもしれない。

    そして、いま。自分ならばこの状況をどうしたものか。 今ここでウォークマンを聴きながら小刻みにヘッド・バンキングしている若い男をナルミは眼前にしているのだった。なにやら度し難いほどの腹立ちを覚えているナルミの怒りを、タロウはどうすることも出来なかった。怒りは押さえ込もうとすればするほどに、いや増してくるようなのだ。

 何故これほど腹立たしいのだろう。微熱のせいだけでもないように思える。今はタロウにもあの返り討ちをくらったリーマンの感情の昂ぶりが手に取るようによくわかる気がし、ヘッドフォンを引き抜いてヴォリュームを下げろ! と大声で注意してやりたいという衝動にかられる。

 それは甘い誘惑だった。
 感情を表に出してはいけないと思う反面、堰を切ったようにこの場で一気に感情を爆発させたい、怒りを解き放ちたいという、それは甘い誘惑なのだった。

 ぼんのくぼあたりが、ちりちりと痺れている。目を瞑りタロウは想像する。

 先ず、男の股間めがけて右足の膝を軽く蹴り上げる。男がうっと唸って前かがみになって下げた頭を両手で押さえ、すかさず左膝をいやというほど顔面にぶち込む。グシャ。それで終わりだ。

 周りのひとに迷惑をかけるようなこともなく、男はその場にくず折れるだろう。ぼくは幾度となくその手順を頭のなかでシミュレートする。

1で右膝を急所に蹴りこみ、2で下げた頭を押さえて左膝を蹴り上げる。簡単なことだ。イチ、ニ。イチ、ニ。イチ、ニ。イチ、ニ。気がつくとじっとり手に汗をかいていた。

 乗り換えの中目黒駅に電車が着いて、ホームに押し流されながらもタロウは頭のなかでその動作を繰り返していた。
イチ、ニ。イチ、ニ。 

   しかし。自分が好きな曲を聴いていて、不意に誰かにイヤホンを耳から引っこ抜かれて「ボリュームを下げろ!」なんて怒鳴られたなら、むろんその相手の怒りに反応して、その怒りの沸点まで一気に上り詰め、怒りを破裂させてしまうだろうことが、手に取るようにわかるのだった。

   それは、過剰反応、過剰防衛と言われてしまうかもしれないが、確かにイヤホンで音楽を聴いているという、いわば世界から自分を遮断して自分だけの世界に引きこもり楽しんでいるのをいきなり邪魔された上に注意されたのでは、たまったものではない。

   いきなり異世界からリアルへと引き戻される、その焦燥は計り知れない。なのでその焦燥感が一気に怒りへと変貌し、相手をボコボコにしてしまうというのは、わからないでもないのだった。
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