パスティーシュ

トリヤマケイ

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リュミエール

アルカイックスマイル

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   タロウは、鏡の中の新しい自分の顔に対峙した途端、爆心地の如くまばゆい閃光が炸裂し、あたりは真っ白になって何も見えなくなった。
    その刹那、タロウは雷の矢に串刺しにされ、全身が引き裂かれるように痙攣を繰り返しながら、やがて気を失った……





   二十二時に仕事が終り、タロウは、渋谷にあったジャズ喫茶に行くことにした。自分でもどういう風の吹き回しなのかわからない。

 だが、不意に行きたくなってしまったのだ。

 そのジャズ喫茶は、リュミエールといった……正式にはson et lumiereだと後になってママから聞いた……厳密にいうと、リュミエールのもとあった場所を不意に見にいきたくなった、というのが正しい。リュミエールが渋谷の街から消えてしまってから、もうすでに5年ほどになるという。

   その昔、東急ハンズの前には、移転する前のタワーレコードがあったはずだ。そして、東急ハンズを過ぎてすぐの信号を渡って、二十メートルほど歩き、右に折れるゆるやかな坂道を上った左手にリュミエールは、あったはずだった。

 タロウは、胸躍らせながら信号を渡り、右に入る小道を捜した求めた。

 果たして小道はあった。
 左手の方向を注視する。
 そして、タロウは言葉を失った。

 思い出そのままに、リュミエールは、ひっそりと、しかし確かに存在しているではないか。見紛うかたなきリュミエールが、確かに現前しているのだった。

 タロウは、我が目を疑った。

 ネットの書き込みでは、ビル自体が取り壊されていたはずなのに……。タロウは、わけもわからぬまま重い扉を押して懐かしいリュミエールの店内に足を踏み入れようとした、その刹那!

    まばゆいばかりの光に包まれたタロウは、これが例の異世界転生の召喚というやつなのか、と思うなやいなや想い出が雷のように去来し電撃が全身に走って、わなないた。







   リュミエールの店内に足を踏み入れたとたん、真っ白な猫ちゃんがタロウの足許にまとわりついてきた。

 タロウは、未だ信じられないといった面持ちで、猫を抱き上げ、足早にモニターの前を横切る。

 カウンターの前に楚々と佇んでいた神秘的な美女が、振り返る。
「あら、いらっしゃい。めずらしいこと」

 タロウは、泣きたい気持ちをぐっとこらえたまま、なにもいえなかった。
「なによ。なに怒ったような顔して突っ立てるのよ?」

 カウンターのなかでは、懐かしいジャズの老師が咥え煙草でコーヒーをいつものように淹れているではないか。

「だって、マスターは、一昨年の四月に九十二歳で……」

 その後は、もう声にならなかった。

「もうやめてよ、久しぶりに来てくれたんだから、無粋なこといわないの」

 タロウの手のなかから猫が床に飛び降りて、カウンターのなかへと消えていった。

 そのとたんに、今までタロウの耳にはなにも聴こえていなかったジャズが、堰を切ったように大音量で流れはじめた。
 コルトレーンのレガシーだった。

「さ、すわって。すわって。積もる話をしましょうよ。ほんとうに久しぶりね」
 タロウは、乞われるままママが座った奥のシートに座った。

「もしかしたらね、今日、コモリくんも来るかもしれないって。さっきお店に電話があったの」

 タロウは、もうなにがなにやらわけがわからないのだった。恥も外聞も打ち捨てて、無性に泣きたい気持ちでいっぱいだった。

 タロウの音楽で食べていこうという夢の実現は、ここからはじまったのだ。一音も逃すまいと必死になってジャズを聴き漁ったのは、ほかでもない懐かしいこの場所だった。

 これで泣くなというのが酷なことではないか。粋で頑固なマスターがいて、可愛いママがいて、猫がいて、ジャズが流れてて、すべてが、あのときのままだ。

 これで泣くなというは、酷だろう。
 タロウは、ついにこらえきれずに男泣きに泣いた。

「まあ、大の男がみっともないわよ」そういって、マスターの淹れてくれたコーヒーをテーブルに置いたママは、中目黒でタロウの背中をさすってくれた、あの優しいママにちがいなかった。

 タロウのなかで、あれが現実のことであったのか、そうでなかったのか、もう区別がつかなくなってくるのだった。

 タロウは、嗚咽を上げながらしどろもどろになって、しゃべりはじめた。

「きょうは、ママに謝りたいと思って……でも、またこうして逢えてほんとうによかった……こんなにうれしいことはありません……あのあと、ママと関係をもったあと……ぼくはママに電話しませんでした……急に……ママのことがあれほど好きだったのに……ぼくは、醒めてしまったんです……ごめんなさい……ごめんなさい……」

「あら、そんなこと気にしてたの? いいのよ、ぜんぜんいいの。またこうして逢えたんだし、男と女なんて、そんなものなのよ。だからね、もう気にしないでちょうだい」

「いや……ほんとうに申し訳ないです……ママを傷つけてしまった……ことは、アホなぼくにもわかります……ママの気持ちを踏みにじってしまった……ほんとうに身勝手で申し訳ありません……」

「わかった。わかったから。あなたの気持ちはよくわかりました。だから、もうそんなに泣かないで。ね、せっかくまた逢えたんじゃないの。楽しくお話しましょうよ」

「ありがとう、ママ。そのことがずっと気がかりだったんです」

そして、ママは、すべてを許す透徹した弥勒菩薩のようなアルカイックスマイルを浮かべた。

すると、ママもお店も何もかもがあっと思っている間に薄く薄く消え入ってゆき……

  気づけば、タロウは何もないリュミエールの跡地に、ひとり佇んでいた。いつまでも……いつまでも……
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