パスティーシュ

トリヤマケイ

文字の大きさ
上 下
17 / 82
リュミエール

アルカイックスマイル

しおりを挟む


   タロウは、鏡の中の新しい自分の顔に対峙した途端、爆心地の如くまばゆい閃光が炸裂し、あたりは真っ白になって何も見えなくなった。
    その刹那、タロウは雷の矢に串刺しにされ、全身が引き裂かれるように痙攣を繰り返しながら、やがて気を失った……





   二十二時に仕事が終り、タロウは、渋谷にあったジャズ喫茶に行くことにした。自分でもどういう風の吹き回しなのかわからない。

 だが、不意に行きたくなってしまったのだ。

 そのジャズ喫茶は、リュミエールといった……正式にはson et lumiereだと後になってママから聞いた……厳密にいうと、リュミエールのもとあった場所を不意に見にいきたくなった、というのが正しい。リュミエールが渋谷の街から消えてしまってから、もうすでに5年ほどになるという。

   その昔、東急ハンズの前には、移転する前のタワーレコードがあったはずだ。そして、東急ハンズを過ぎてすぐの信号を渡って、二十メートルほど歩き、右に折れるゆるやかな坂道を上った左手にリュミエールは、あったはずだった。

 タロウは、胸躍らせながら信号を渡り、右に入る小道を捜した求めた。

 果たして小道はあった。
 左手の方向を注視する。
 そして、タロウは言葉を失った。

 思い出そのままに、リュミエールは、ひっそりと、しかし確かに存在しているではないか。見紛うかたなきリュミエールが、確かに現前しているのだった。

 タロウは、我が目を疑った。

 ネットの書き込みでは、ビル自体が取り壊されていたはずなのに……。タロウは、わけもわからぬまま重い扉を押して懐かしいリュミエールの店内に足を踏み入れようとした、その刹那!

    まばゆいばかりの光に包まれたタロウは、これが例の異世界転生の召喚というやつなのか、と思うなやいなや想い出が雷のように去来し電撃が全身に走って、わなないた。







   リュミエールの店内に足を踏み入れたとたん、真っ白な猫ちゃんがタロウの足許にまとわりついてきた。

 タロウは、未だ信じられないといった面持ちで、猫を抱き上げ、足早にモニターの前を横切る。

 カウンターの前に楚々と佇んでいた神秘的な美女が、振り返る。
「あら、いらっしゃい。めずらしいこと」

 タロウは、泣きたい気持ちをぐっとこらえたまま、なにもいえなかった。
「なによ。なに怒ったような顔して突っ立てるのよ?」

 カウンターのなかでは、懐かしいジャズの老師が咥え煙草でコーヒーをいつものように淹れているではないか。

「だって、マスターは、一昨年の四月に九十二歳で……」

 その後は、もう声にならなかった。

「もうやめてよ、久しぶりに来てくれたんだから、無粋なこといわないの」

 タロウの手のなかから猫が床に飛び降りて、カウンターのなかへと消えていった。

 そのとたんに、今までタロウの耳にはなにも聴こえていなかったジャズが、堰を切ったように大音量で流れはじめた。
 コルトレーンのレガシーだった。

「さ、すわって。すわって。積もる話をしましょうよ。ほんとうに久しぶりね」
 タロウは、乞われるままママが座った奥のシートに座った。

「もしかしたらね、今日、コモリくんも来るかもしれないって。さっきお店に電話があったの」

 タロウは、もうなにがなにやらわけがわからないのだった。恥も外聞も打ち捨てて、無性に泣きたい気持ちでいっぱいだった。

 タロウの音楽で食べていこうという夢の実現は、ここからはじまったのだ。一音も逃すまいと必死になってジャズを聴き漁ったのは、ほかでもない懐かしいこの場所だった。

 これで泣くなというのが酷なことではないか。粋で頑固なマスターがいて、可愛いママがいて、猫がいて、ジャズが流れてて、すべてが、あのときのままだ。

 これで泣くなというは、酷だろう。
 タロウは、ついにこらえきれずに男泣きに泣いた。

「まあ、大の男がみっともないわよ」そういって、マスターの淹れてくれたコーヒーをテーブルに置いたママは、中目黒でタロウの背中をさすってくれた、あの優しいママにちがいなかった。

 タロウのなかで、あれが現実のことであったのか、そうでなかったのか、もう区別がつかなくなってくるのだった。

 タロウは、嗚咽を上げながらしどろもどろになって、しゃべりはじめた。

「きょうは、ママに謝りたいと思って……でも、またこうして逢えてほんとうによかった……こんなにうれしいことはありません……あのあと、ママと関係をもったあと……ぼくはママに電話しませんでした……急に……ママのことがあれほど好きだったのに……ぼくは、醒めてしまったんです……ごめんなさい……ごめんなさい……」

「あら、そんなこと気にしてたの? いいのよ、ぜんぜんいいの。またこうして逢えたんだし、男と女なんて、そんなものなのよ。だからね、もう気にしないでちょうだい」

「いや……ほんとうに申し訳ないです……ママを傷つけてしまった……ことは、アホなぼくにもわかります……ママの気持ちを踏みにじってしまった……ほんとうに身勝手で申し訳ありません……」

「わかった。わかったから。あなたの気持ちはよくわかりました。だから、もうそんなに泣かないで。ね、せっかくまた逢えたんじゃないの。楽しくお話しましょうよ」

「ありがとう、ママ。そのことがずっと気がかりだったんです」

そして、ママは、すべてを許す透徹した弥勒菩薩のようなアルカイックスマイルを浮かべた。

すると、ママもお店も何もかもがあっと思っている間に薄く薄く消え入ってゆき……

  気づけば、タロウは何もないリュミエールの跡地に、ひとり佇んでいた。いつまでも……いつまでも……
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

うちでのサンタさん

うてな
ライト文芸
【クリスマスなので書いてみました。】  僕には人並み外れた、ある能力を持っていた。 それは『物なら一瞬にして生成できてしまう』能力だ。 その能力があれば金さえも一瞬で作れてしまう、正に万能な能力だった。 そして僕はその能力を使って毎年、昔に世話になった孤児院の子供達にプレゼントを送っている。 今年も例年通りにサンタ役を買って出たんだけど…。 僕の能力では到底叶えられない、そんな願いを受け取ってしまう…  僕と、一人の男の子の クリスマスストーリー。

私の入る余地なんてないことはわかってる。だけど……。

さくしゃ
恋愛
キャロルは知っていた。 許嫁であるリオンと、親友のサンが互いを想い合っていることを。 幼い頃からずっと想ってきたリオン、失いたくない大切な親友であるサン。キャロルは苦悩の末に、リオンへの想いを封じ、身を引くと決めていた——はずだった。 (ああ、もう、) やり過ごせると思ってた。でも、そんなことを言われたら。 (ずるいよ……) リオンはサンのことだけを見ていると思っていた。けれど——違った。 こんな私なんかのことを。 友情と恋情の狭間で揺れ動くキャロル、リオン、サンの想い。 彼らが最後に選ぶ答えとは——? ⚠️好みが非常に分かれる作品となっております。

長谷川さんへ

神奈川雪枝
ライト文芸
不倫シリーズ

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

イケメン彼氏は警察官!甘い夜に私の体は溶けていく。

すずなり。
恋愛
人数合わせで参加した合コン。 そこで私は一人の男の人と出会う。 「俺には分かる。キミはきっと俺を好きになる。」 そんな言葉をかけてきた彼。 でも私には秘密があった。 「キミ・・・目が・・?」 「気持ち悪いでしょ?ごめんなさい・・・。」 ちゃんと私のことを伝えたのに、彼は食い下がる。 「お願いだから俺を好きになって・・・。」 その言葉を聞いてお付き合いが始まる。 「やぁぁっ・・!」 「どこが『や』なんだよ・・・こんなに蜜を溢れさせて・・・。」 激しくなっていく夜の生活。 私の身はもつの!? ※お話の内容は全て想像のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※表現不足は重々承知しております。まだまだ勉強してまいりますので温かい目で見ていただけたら幸いです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 では、お楽しみください。

💚催眠ハーレムとの日常 - マインドコントロールされた女性たちとの日常生活

XD
恋愛
誰からも拒絶される内気で不細工な少年エドクは、人の心を操り、催眠術と精神支配下に置く不思議な能力を手に入れる。彼はこの力を使って、夢の中でずっと欲しかったもの、彼がずっと愛してきた美しい女性たちのHAREMを作り上げる。

壁乳

リリーブルー
BL
俺は後輩に「壁乳」に行こうと誘われた。 (作者の挿絵付きです。)

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

処理中です...