パスティーシュ

トリヤマケイ

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リュミエール

演歌や歌謡曲を聴きながら育ちましたという世界線からは、最もかけ離れた存在

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 まばゆい光が消えるとスウィングの白いドアの前に立つタロウの耳にカウント・ベイシーだろうか、ビッグバンドの音が微かに漏れ聞こえてきた。

    タロウはハンカチで額から流れ落ちる汗を拭いながら、思いドアを肩で押した。
 
    店内は薄暗く、ひんやりとして心地いい。一番奥のシートにタロウは座ると、ママにホットを頼んだ。曲はやはりカウント・ベイシーだった。

 リュミエールは、マスターが新し物好きのせいか、早くからレコードに見切りをつけて、いまは殆どレコードをかけないのだった。いや、正確にいえばかけれないのだ。多分、何千枚もあったであろうレコードは、全て処分してしまい、
いまは殆どDVDやBlu-rayなのだった。

 それ故、硬派なジャズマニア達は蔭をひそめ、お客の主流は専らカップルが占めていた。でも、ここは来日するジャズミュージシャンの多くが、必ず一度は来店するといわれる知る人ぞ知る、ジャズ喫茶の老舗だった。

 店の壁の一面を占有して3台の超大型モニターが、ずらりと並んでいる。そして、そのモニターの一台一台が異なる色調に調節されていた。

 リュミエールは、以前円山町の一角にぽつんとあって、客もまばらだった。タロウはその頃からのいわば常連だったけれど、こちらの場所に移ってからは、お客の入りも上々だった。

 リュミエールに通いたての頃のタロウはまだ学生で、授業の帰りに寄ってはコーヒーを何杯もお替りして、貪るようにジャズを聴いていた。でも今は、もう以前とは違ってリクエストすることもなく、ただ他の客のリクエストしたアーティストを、なるほどこういうのが好きなんだ、と妙に感心しながら聴くようになっていた。  

 ママがコーヒーを持って近づいてきた。彼女はとっても神秘的な美人ママだった。

「ごぶさたね。外暑いでしょ」
「うん。でもこういう暑い日には、とってもジャズがよく似合うね」
「そうね。でも雨がしとしと降ってる日もいいんじゃない」

 ママは独身なのかどうか、5年近くも通いつめているタロウにもわからなかった。というか、こういったジャズ喫茶のママなんてものは、生活の臭いなんてまったく感じられない方が、客としては面白い。

 だからタロウは、つまらない詮索をするよりは、想像を逞しくするほうを敢えて選んだというわけだ。結婚しているのかな? それとも早くに旦那さんを交通事故で失ったとか、でも子供が三人もいるとか、そんな馬鹿げた想像をしている方が、現実のママの私生活をを知るよりよっぽどましだ。ただ、タロウにわかっていることといえば、ママはマスターの娘で、銀座に住んでいるということだけだった。

 ママは、小柄でコケティッシュな魅力のある女性で、うまくはいえないがいかにも演歌や歌謡曲を聴きながら育ちましたという世界線からは、最もかけ離れた存在のように思えた。

 タロウはコーヒーを一口すすると、カウンターへ引き返していたママのところへいって、「ねぇ、このごろ小森くん来てる?」と訊いた。
「そういえば、このごろ見ないわね。どうしたのかしら」

 ママは可愛らしく小首を傾げる。
 と、不意に店内が静かになった。カウント・ベイシーが終わったのだ。

 ママは、ちょっと、ごめんなさいねと、言い残してモニターの方へとしなやかな獣のように近づいていくと、次のDV Dをセットした。

 マイルスの「ソー・ホワット」。モノクロの映像のやつだ。
 タロウはやっぱりマイルスが一番好きだ。昔からそうだった。マイルスが亡くなったと知ったとき、タロウは偶然にも彼の部厚い自伝を読んでいた。

 タロウがマイルスどころか、ジャズをまったく知らない頃、友達が貸してくれた何枚かのCDのなかにマイルスの「ゲット・アップ・ウィズ・イット」があった。

    タロウはそれを何の先入観もなしに聴いたけれど、ネイマという曲で何故かはらはらと涙を流してしまったことがある。でも、その感情の昂ぶりは、哀しいとかいった言葉で簡単に片付けられるような類いのものではなかった。

 それは、なにか心の奥深いところにある、言葉では言い表すことのできないような何かを、強く揺さぶるといった感じだった。

 あれはなんだったんだろうかと、その後で時々思い出しては考えてみたけれども、結局わからずじまいだった。

 そんな風にタロウの涙腺は、普通の人とはちょっと違うのかなと思うことが度々ある。

 音楽のほかにタロウは映画も好きで、一日に三館も名画座のはしごをやったことがあったけれど、普通の人が泣くであろう哀しいシーンには、全くといっていいほど涙は出てこなかった。

 タロウが泣くのは、哀しい場面ではなくて、むしろスクリーンいっぱいに歓びの光りが満ち溢れているようなシーンなのだ。タロウは、そういう場面にでくわすと、あーよかったねとほろほろ泣いてしまうのだった。やっぱり何か変なのかもしれない。

 タロウがさっきママに訊いた小森くんというのは、常連客のひとりで、ちょくちょくタロウも見かけていて、その一風変わった風貌も手伝って、以前から気にはしていたのだけれど、ある日なにを思ったのか、タロウから彼に話したことがきっかけとなって、友達になったやつだった。

 後になって話してくれたことだけれど、あのとき小森くんはタロウに話しかけられて本当にびっくりしたと言っていた。自分が人に話し掛けられることなんて滅多にないからな、と。

 小森くんはタロウよりもふたつくらい年下で、サックスをやっているということだった。今にして思えば、タロウの方こそよく声を掛けたものだと自分ながら感心してしまう。でも、タロウの直感は当たっていたのだ。ダメ人間同士で、妙に気心の通じ合うものがあったのかも知れない。

 マスターがやってきた。
 するともう十一時かと、タロウは腕時計に目をやった。マスターは必ずこの時刻になると店にやってくる。そして、マスターがやってくると、ママの今日のお勤めは終りってことなのだ。

 ふたりが一緒に店にいるときはせいぜい三十分ほどで、マスターは朝十一時の開店に間に合うように店に来ると、サクッと掃除機をかけて店を開く。それから三時にママが来るまでひとりできりもりして、ママがくるとさっさと帰ってしまう。そしてまた夜の十一時になったらやってくるというわけだ。

 どうでもいいことだけれども、マスターは店に居ない間はなにをやっているんだろう。そんな素朴な疑問に考えをめぐらしていると、ママがそばにやってきて優しく微笑みながら言った。

「じゃあ、またいらっしゃいね。小森くんが来たらなにか伝えることある?」
「あ、うん。じゃ、これ」と言って、タロウはレシートの端を千切って、そこに番号を走り書きした。

「これ、ぼくの電話番号だけど、電話くれって言っといてください」
 ママは紙片を手に取ると、にっこり笑って頷いた。

「じゃあね。ゆっくりしていって」

 そう言ってママは、華やかな雰囲気を振り撒きながら店を出ていった。
 残されたタロウの周りには、暫くママの残り香がたゆたっていた。それは甘いミルクのような匂いだった。タロウはその甘く切ない残り香を全て吸い尽くしたいと思った。

 そうなのだ。タロウはいつの間にやらママに思いを寄せていた。むろん、それは一種の遊びに過ぎなかったけれど、夢のなかでタロウとママは幾度が寝たことになっている。

 ママのいなくなった店内を、ふとタロウは見回してみる。

 ドラムのスネア、アップライトのベース、そしてわけのわからない民族楽器が低い天井から吊り下げられている。白い壁はざらざらとした手触りの仕上げで、そこかしこに凹凸のある岩肌を思わせる。薄暗い照明も手伝って、自分がまるで洞穴のなかに潜んでいる小動物のような気がしてくる。タロウはそのざらついた岩肌の放つオーラを背中に感じながら、冷めたコーヒーを飲む。

 ビルディングのようにそそり立つ二機のアコースティックのスピーカーからビートが弾け飛び、壁の凹凸で乱反射して狭い洞窟いっぱいに青白き残像の糸をひきながら発条のように飛び廻る。 

 物質化し、眼前に立ち現われる音の粒子が幾重にも折り重なり、とぐろを巻いてうねりながら打ち寄せてくる。すると、死後硬直のような強張りが全身を支配して、金縛りにあったみたいに手指の一本すら意のままにならなくなる。が、不意にその音の緊縛が解かれると、次にはダリの溶けた時計を想わせる停止した時間がやってくる。

 とろとろに蕩けた身体は、グリーンにシートのコーヒーの染みのようにへばりつき、アメーバー状に拡がってゆく。シートはいつしかアメーバに覆い尽くされ、その毛羽立った表面をぼこっ、ぼこっと硫黄の吹き出るように隆起させながら身をくねらせ、海綿のごとく音の粒子を吸って徐々に肥大化する。そして部屋いっぱいに拡がった海綿は、神経質な胴震いを繰り返し、仕舞いには、ひきつけたように痙攣しはじめる。

 自分はどこにいこうとしているのか。
 何が正しくて、何が正しくないのか。
 とりとめのない思考が渦巻き、さまざまなイメージが飛び交っていく……


                 
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