パスティーシュ

トリヤマケイ

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リュミエール

シャブが切れて冷たい油汗が背中を伝う、みたいなとても落ち着かない感じ

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    二十二時に仕事が終り、タロウは、渋谷にあったジャズ喫茶に行くことにした。自分でもどういう風の吹き回しなのかわからない。

 だが、不意に行きたくなってしまったのだ。

 そのジャズ喫茶は、リュミエールといった……正式にはson et lumiereだと後になってママから聞いた……厳密にいうと、リュミエールのもとあった場所を不意に見にいきたくなった、というのが正しい。リュミエールが渋谷の街から消えてしまってから、もうすでに5年ほどになるという。

 実は、ほんの気まぐれでネットで「渋谷 リュミエール」で検索したところ、「2016年のクリスマスをもってリュミエールは閉店いたしました」の文字が目に飛び込んできて、愕然としたのだった。

 リュミエールは、タロウの青春がいっぱい詰まった空間だったといってもいい。

 タロウは、ジャズがわかるようになりたくて、足繁くリュミエールに通い、むさぼるようにジャズを聴きまくった。

 そして、いつしかリュミエールのマスター高島さんのお嬢さんである、ママに恋をした。

 ただそれだけの話だ。

 ただそれだけの話だが、どうしても今夜行かなくてはならないとタロウは思った。行けばママに逢えるような気がして仕方なかった。

 この感じは、いったいなんなのだろうとタロウは訝しんだ。シャブが切れて冷たい油汗が背中を伝うみたいな、とても落ち着かない感じといえばいいだろうか。覚醒剤を打ったことはないので想像に過ぎないけれど当たらずとも遠からずであろう不思議な感覚。それとも、たんなるノスタルジーなのだろうか。

 渋谷は、乗り換えで利用するだけで、このごろほとんどあのスクランブルを渡ったことなどなかった。あの巨大な岡本太郎作品『未来の神話』が掲げてある井の頭線の方から眺めるくらいだった。
 タロウは、中目黒で東横に乗り換えて、渋谷に向かった。

 リュミエールによく通っていた頃は、中目黒にタロウは住んでいた。その中目黒も大きく様変わりしつつあり、タロウは眩暈すら覚えた。

 今は地下になったが渋谷駅がまだ地上にあった時のあのだだっ広いホームに電車が着くのがタロウは好きだった。そして以前感じた疑問を思い出した。

 がらがらの電車に乗って渋谷のホームに降り立ったタロウは改札へと歩いていたのだが、自分は渋谷に到着したというのに、なぜまたこれから渋谷から発とうする人たちが大勢いるのかが、理解できなかったのだ。

 これはまあ、あたり前の話なのだけれど、若いタロウにはそれが不思議でならなかった。自分とは、真逆の考えを持ち、行動する人が存在するということが理解できなかったというわけだ。

 やがて、タロウにもそれらを受け入れる雅量といったものが備わったのだけれど、それを疑問に思ったということ自体が、タロウが多くの人とは異なる人生を歩むことになるという、暗示だったのかもしれない、などと今となったら思うのは穿ちすぎだろうか。

 タロウは、昔歩いていた同じコースを辿り、リュミエールに向かう。

    スクランブル交差点を渡り、曲がりくねっているセンター街を突っ切っていく。センター街が曲がりくねっているのは、蛇行する宇田川を暗渠にした、その真上に道路を作ったからだという。

 センター街をしばらく歩いて、通りをひとつ隔てた井の頭通りにゲーセンが見えたところで、右折するのだが、ゲーセンが消えていた。

 とりあえず、井の頭通りに出てそこを左折し、東急ハンズを目指して進んでいく。東急ハンズが見えてきたら、リュミエールはもうすぐだ。

 その昔、東急ハンズの前には、移転する前のタワーレコードがあったはずだ。
 そして、東急ハンズを過ぎてすぐの信号を渡って、二十メートルほど歩き、右に折れるゆるやかな坂道を上った左手にリュミエールは、あったはずだった。

 タロウは、胸躍らせながら信号を渡り、右に入る小道を捜した求めた。

 果たして小道はあった。
 左手の方向を注視する。
 そして、タロウは言葉を失った。

 思い出そのままに、リュミエールは、ひっそりと、しかし確かに存在しているではないか。見紛うかたなきリュミエールが、確かに現前しているのだった。

 タロウは、我が目を疑った。

 ネットの書き込みでは、ビル自体が取り壊されていたはずなのに……。タロウは、わけもわからぬまま重い扉を押して懐かしいリュミエールの店内に足を踏み入れようとした、その刹那!

    まばゆいばかりの光に包まれたタロウは、これが例の異世界転生の召喚というやつなのか、と思うなやいなや想い出が雷のように去来し電撃が全身に走って、わなないた。
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