パスティーシュ

トリヤマケイ

文字の大きさ
上 下
3 / 82
タロウ

ガルガンチュワとパンタグリュエル、そして子供の領分

しおりを挟む
   数時間前。

 その日の夕方のこと。

 仕事帰りの電車でタロウは、気になる女のコに出会った。


 彼女がどの駅から乗り込んできたのかもう忘れてしまったけれど、車輛に入ってくるなり、右肩から下げていたカーキ色した大きめのバッグを床に置いて、バッグの口から飛び出していた筒状に巻かれた藤色の四本の薄手の生地をきれいに詰め直すと、またバッグを右肩に掛け、光沢を抑えたエンジっぽい色のスマホを眺めていた。


 タロウが読んでいる、さっき神保町の古本屋で買ってきたばかりの文庫本フランソワ・ラブレー『ガルガンチュワとパンタグリュエル』のテクストの向こうに「キャッホー! GAPでチュニック買った」というLINEの文頭のその部分だけが見えた。


 彼女は、黒のフローラルプリントのワンピースの上に、さらに黒のナイロンメッシュのロングジャケットを羽織っていた。

  長い丈だったけれど総レースなので、重たい感じにはなっていなかった。


  たっぷりした袖とドレープがエレガントなフロント、それにビーズのネックレスをしていた。



 なぜまたタロウが、こんなに仔細に憶えているのかといえば、彼女が直球ど真ん中のタイプだったからだ。


 見た瞬間、これは相当ヤバイと直感した。思考停止するくらいのヤバさだ。普段から大したことなど考えてはいないが、それでも何かしらくだらない事柄に頭を占拠されている。取越苦労や過越苦労がそのほとんどだが、お金。お金。お金。たまに恋の悩み。エロい妄想。自分の記憶なのかすらわからない映像の断片やら匂い、メロディが間断なく流れていたり、かと思えば怖いくらいの底なしの無音が続いていたりする。


 なので、というのもわけわからないが、何か彼女から心休まるような優しいメロディが聞こえてきたのだった。彼女の持つそのメロディというか波長が自分と似通っているということなのかもしれない。このまま世界の果てまでずっと一緒にメトロに揺られていられたなら、どんなに幸せだろうとタロウは思った。


 でも、案の定彼女は恵比寿で降りてしまった。タロウも引きづられるように降りてしまおうかと一瞬躊躇したが、なんとかそのわけのわからない衝動を押し留めると、その場で地団太踏むようにスキップしているのだった。

    かなりあぶない人に見えるだろうなと自分でも苦笑いしてしまうタロウだったが、知らぬ間に身体が動いてしまうのだから仕方ない。もしかして、離人症の症状でこんなケースもあるのだろいか、知らんけど。


 メトロが動き出すと、タロウはプラットホームを歩いているだろうはずの彼女の姿を未練がましく一生懸命捜した。


 しかし、カーキ色した大きめのバッグを持つ女性は見当たらなかったし、ブラック・オン・ブラックのシックな装いも目に入らなかった。


 ところで、くだんの女のコはというと、メトロに乗ったときからジロジロとねばつくような視線を感じていて、あまりにもキモかったので、いったん恵比寿で降りて隣りの車輛に移っていた。


 彼女は今、そのキモい体験を友達へのLINEに書き綴っているところだった。


 彼女は、多少妄想癖があるのかもしれない。

   余裕であることないことタッチパネルのキーをジェルネイルした爪でコツコツと叩いていた。


  ―――でさ、そいつの目がホントいやらしくてさ、なんていうの、視姦だっけ? そんな感じで舐めるようにヒトの身体を見てるの。

もうキモすぎだっつーの。

でね、そのうち乗り込んで来た人たちに無理やり押されたみたいな感じで、だんだん近付いてきて、混んでるのをいいことに身体をくっつけてきたんだよ。


  オシリに前の部分を密着させてくるわけ。

   もうサイテー最悪な男だよ。

 でもね、声が出ないんだ。

   キモすぎて後ろを振り返ることもできない。


 するとね、ソイツ調子に乗ってとんでもないことやりだすんだよ。


 なんかね、固いのを直接当ててグリングリンしてくるんだ。

   そしたらさ、もうアタシ、さっきまでのキモいとかそうゆうのふっとんじゃって、キレまくったんだ、知らないうちにバッグからカッター出してにぎってた。


 で、次なんかアクション起こしたら、後ろを振り向きざま、アタシのオシリに押しつけてるそいつの穢らわしいモノめがけて、めくらめっぽうカッターふりまわしてやると思ってた。


 くだんの彼女のLINEの中で滅多刺しされ血だるまになりかけている当のタロウは、直球ど真ん中だった彼女のLINEに自分が登場し、大切なところを切り刻まれそうになっているなんて夢にも思わずに、都営バスに乗りこんだ。


 そして、一番後ろの席に座ったタロウは、ピアノはぜんぜん弾けないんだけれども、イヤホンから流れてくるアルトゥール・ベネデッティ・ミケランジェリの弾く「子供の領分」に合わせて、エアピアノを上機嫌で弾きはじめた♪
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

会社の上司の妻との禁断の関係に溺れた男の物語

六角
恋愛
日本の大都市で働くサラリーマンが、偶然出会った上司の妻に一目惚れしてしまう。彼女に強く引き寄せられるように、彼女との禁断の関係に溺れていく。しかし、会社に知られてしまい、別れを余儀なくされる。彼女との別れに苦しみ、彼女を忘れることができずにいる。彼女との関係は、運命的なものであり、彼女との愛は一生忘れることができない。

うちでのサンタさん

うてな
ライト文芸
【クリスマスなので書いてみました。】  僕には人並み外れた、ある能力を持っていた。 それは『物なら一瞬にして生成できてしまう』能力だ。 その能力があれば金さえも一瞬で作れてしまう、正に万能な能力だった。 そして僕はその能力を使って毎年、昔に世話になった孤児院の子供達にプレゼントを送っている。 今年も例年通りにサンタ役を買って出たんだけど…。 僕の能力では到底叶えられない、そんな願いを受け取ってしまう…  僕と、一人の男の子の クリスマスストーリー。

長谷川さんへ

神奈川雪枝
ライト文芸
不倫シリーズ

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

イケメン彼氏は警察官!甘い夜に私の体は溶けていく。

すずなり。
恋愛
人数合わせで参加した合コン。 そこで私は一人の男の人と出会う。 「俺には分かる。キミはきっと俺を好きになる。」 そんな言葉をかけてきた彼。 でも私には秘密があった。 「キミ・・・目が・・?」 「気持ち悪いでしょ?ごめんなさい・・・。」 ちゃんと私のことを伝えたのに、彼は食い下がる。 「お願いだから俺を好きになって・・・。」 その言葉を聞いてお付き合いが始まる。 「やぁぁっ・・!」 「どこが『や』なんだよ・・・こんなに蜜を溢れさせて・・・。」 激しくなっていく夜の生活。 私の身はもつの!? ※お話の内容は全て想像のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※表現不足は重々承知しております。まだまだ勉強してまいりますので温かい目で見ていただけたら幸いです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 では、お楽しみください。

💚催眠ハーレムとの日常 - マインドコントロールされた女性たちとの日常生活

XD
恋愛
誰からも拒絶される内気で不細工な少年エドクは、人の心を操り、催眠術と精神支配下に置く不思議な能力を手に入れる。彼はこの力を使って、夢の中でずっと欲しかったもの、彼がずっと愛してきた美しい女性たちのHAREMを作り上げる。

壁乳

リリーブルー
BL
俺は後輩に「壁乳」に行こうと誘われた。 (作者の挿絵付きです。)

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

処理中です...