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タロウ
ガルガンチュワとパンタグリュエル、そして子供の領分
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数時間前。
その日の夕方のこと。
仕事帰りの電車でタロウは、気になる女のコに出会った。
彼女がどの駅から乗り込んできたのかもう忘れてしまったけれど、車輛に入ってくるなり、右肩から下げていたカーキ色した大きめのバッグを床に置いて、バッグの口から飛び出していた筒状に巻かれた藤色の四本の薄手の生地をきれいに詰め直すと、またバッグを右肩に掛け、光沢を抑えたエンジっぽい色のスマホを眺めていた。
タロウが読んでいる、さっき神保町の古本屋で買ってきたばかりの文庫本フランソワ・ラブレー『ガルガンチュワとパンタグリュエル』のテクストの向こうに「キャッホー! GAPでチュニック買った」というLINEの文頭のその部分だけが見えた。
彼女は、黒のフローラルプリントのワンピースの上に、さらに黒のナイロンメッシュのロングジャケットを羽織っていた。
長い丈だったけれど総レースなので、重たい感じにはなっていなかった。
たっぷりした袖とドレープがエレガントなフロント、それにビーズのネックレスをしていた。
なぜまたタロウが、こんなに仔細に憶えているのかといえば、彼女が直球ど真ん中のタイプだったからだ。
見た瞬間、これは相当ヤバイと直感した。思考停止するくらいのヤバさだ。普段から大したことなど考えてはいないが、それでも何かしらくだらない事柄に頭を占拠されている。取越苦労や過越苦労がそのほとんどだが、お金。お金。お金。たまに恋の悩み。エロい妄想。自分の記憶なのかすらわからない映像の断片やら匂い、メロディが間断なく流れていたり、かと思えば怖いくらいの底なしの無音が続いていたりする。
なので、というのもわけわからないが、何か彼女から心休まるような優しいメロディが聞こえてきたのだった。彼女の持つそのメロディというか波長が自分と似通っているということなのかもしれない。このまま世界の果てまでずっと一緒にメトロに揺られていられたなら、どんなに幸せだろうとタロウは思った。
でも、案の定彼女は恵比寿で降りてしまった。タロウも引きづられるように降りてしまおうかと一瞬躊躇したが、なんとかそのわけのわからない衝動を押し留めると、その場で地団太踏むようにスキップしているのだった。
かなりあぶない人に見えるだろうなと自分でも苦笑いしてしまうタロウだったが、知らぬ間に身体が動いてしまうのだから仕方ない。もしかして、離人症の症状でこんなケースもあるのだろいか、知らんけど。
メトロが動き出すと、タロウはプラットホームを歩いているだろうはずの彼女の姿を未練がましく一生懸命捜した。
しかし、カーキ色した大きめのバッグを持つ女性は見当たらなかったし、ブラック・オン・ブラックのシックな装いも目に入らなかった。
ところで、くだんの女のコはというと、メトロに乗ったときからジロジロとねばつくような視線を感じていて、あまりにもキモかったので、いったん恵比寿で降りて隣りの車輛に移っていた。
彼女は今、そのキモい体験を友達へのLINEに書き綴っているところだった。
彼女は、多少妄想癖があるのかもしれない。
余裕であることないことタッチパネルのキーをジェルネイルした爪でコツコツと叩いていた。
―――でさ、そいつの目がホントいやらしくてさ、なんていうの、視姦だっけ? そんな感じで舐めるようにヒトの身体を見てるの。
もうキモすぎだっつーの。
でね、そのうち乗り込んで来た人たちに無理やり押されたみたいな感じで、だんだん近付いてきて、混んでるのをいいことに身体をくっつけてきたんだよ。
オシリに前の部分を密着させてくるわけ。
もうサイテー最悪な男だよ。
でもね、声が出ないんだ。
キモすぎて後ろを振り返ることもできない。
するとね、ソイツ調子に乗ってとんでもないことやりだすんだよ。
なんかね、固いのを直接当ててグリングリンしてくるんだ。
そしたらさ、もうアタシ、さっきまでのキモいとかそうゆうのふっとんじゃって、キレまくったんだ、知らないうちにバッグからカッター出してにぎってた。
で、次なんかアクション起こしたら、後ろを振り向きざま、アタシのオシリに押しつけてるそいつの穢らわしいモノめがけて、めくらめっぽうカッターふりまわしてやると思ってた。
くだんの彼女のLINEの中で滅多刺しされ血だるまになりかけている当のタロウは、直球ど真ん中だった彼女のLINEに自分が登場し、大切なところを切り刻まれそうになっているなんて夢にも思わずに、都営バスに乗りこんだ。
そして、一番後ろの席に座ったタロウは、ピアノはぜんぜん弾けないんだけれども、イヤホンから流れてくるアルトゥール・ベネデッティ・ミケランジェリの弾く「子供の領分」に合わせて、エアピアノを上機嫌で弾きはじめた♪
その日の夕方のこと。
仕事帰りの電車でタロウは、気になる女のコに出会った。
彼女がどの駅から乗り込んできたのかもう忘れてしまったけれど、車輛に入ってくるなり、右肩から下げていたカーキ色した大きめのバッグを床に置いて、バッグの口から飛び出していた筒状に巻かれた藤色の四本の薄手の生地をきれいに詰め直すと、またバッグを右肩に掛け、光沢を抑えたエンジっぽい色のスマホを眺めていた。
タロウが読んでいる、さっき神保町の古本屋で買ってきたばかりの文庫本フランソワ・ラブレー『ガルガンチュワとパンタグリュエル』のテクストの向こうに「キャッホー! GAPでチュニック買った」というLINEの文頭のその部分だけが見えた。
彼女は、黒のフローラルプリントのワンピースの上に、さらに黒のナイロンメッシュのロングジャケットを羽織っていた。
長い丈だったけれど総レースなので、重たい感じにはなっていなかった。
たっぷりした袖とドレープがエレガントなフロント、それにビーズのネックレスをしていた。
なぜまたタロウが、こんなに仔細に憶えているのかといえば、彼女が直球ど真ん中のタイプだったからだ。
見た瞬間、これは相当ヤバイと直感した。思考停止するくらいのヤバさだ。普段から大したことなど考えてはいないが、それでも何かしらくだらない事柄に頭を占拠されている。取越苦労や過越苦労がそのほとんどだが、お金。お金。お金。たまに恋の悩み。エロい妄想。自分の記憶なのかすらわからない映像の断片やら匂い、メロディが間断なく流れていたり、かと思えば怖いくらいの底なしの無音が続いていたりする。
なので、というのもわけわからないが、何か彼女から心休まるような優しいメロディが聞こえてきたのだった。彼女の持つそのメロディというか波長が自分と似通っているということなのかもしれない。このまま世界の果てまでずっと一緒にメトロに揺られていられたなら、どんなに幸せだろうとタロウは思った。
でも、案の定彼女は恵比寿で降りてしまった。タロウも引きづられるように降りてしまおうかと一瞬躊躇したが、なんとかそのわけのわからない衝動を押し留めると、その場で地団太踏むようにスキップしているのだった。
かなりあぶない人に見えるだろうなと自分でも苦笑いしてしまうタロウだったが、知らぬ間に身体が動いてしまうのだから仕方ない。もしかして、離人症の症状でこんなケースもあるのだろいか、知らんけど。
メトロが動き出すと、タロウはプラットホームを歩いているだろうはずの彼女の姿を未練がましく一生懸命捜した。
しかし、カーキ色した大きめのバッグを持つ女性は見当たらなかったし、ブラック・オン・ブラックのシックな装いも目に入らなかった。
ところで、くだんの女のコはというと、メトロに乗ったときからジロジロとねばつくような視線を感じていて、あまりにもキモかったので、いったん恵比寿で降りて隣りの車輛に移っていた。
彼女は今、そのキモい体験を友達へのLINEに書き綴っているところだった。
彼女は、多少妄想癖があるのかもしれない。
余裕であることないことタッチパネルのキーをジェルネイルした爪でコツコツと叩いていた。
―――でさ、そいつの目がホントいやらしくてさ、なんていうの、視姦だっけ? そんな感じで舐めるようにヒトの身体を見てるの。
もうキモすぎだっつーの。
でね、そのうち乗り込んで来た人たちに無理やり押されたみたいな感じで、だんだん近付いてきて、混んでるのをいいことに身体をくっつけてきたんだよ。
オシリに前の部分を密着させてくるわけ。
もうサイテー最悪な男だよ。
でもね、声が出ないんだ。
キモすぎて後ろを振り返ることもできない。
するとね、ソイツ調子に乗ってとんでもないことやりだすんだよ。
なんかね、固いのを直接当ててグリングリンしてくるんだ。
そしたらさ、もうアタシ、さっきまでのキモいとかそうゆうのふっとんじゃって、キレまくったんだ、知らないうちにバッグからカッター出してにぎってた。
で、次なんかアクション起こしたら、後ろを振り向きざま、アタシのオシリに押しつけてるそいつの穢らわしいモノめがけて、めくらめっぽうカッターふりまわしてやると思ってた。
くだんの彼女のLINEの中で滅多刺しされ血だるまになりかけている当のタロウは、直球ど真ん中だった彼女のLINEに自分が登場し、大切なところを切り刻まれそうになっているなんて夢にも思わずに、都営バスに乗りこんだ。
そして、一番後ろの席に座ったタロウは、ピアノはぜんぜん弾けないんだけれども、イヤホンから流れてくるアルトゥール・ベネデッティ・ミケランジェリの弾く「子供の領分」に合わせて、エアピアノを上機嫌で弾きはじめた♪
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