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ローラ編
前世はヒカルだったローラの記憶II
しおりを挟むそれから一ヶ月後の結婚記念日であるその日、ふたりは、村ごと水のなかに沈んでいるという美しいダム湖を眺めに出かけた。ヒカルが、そのダム湖のことをどこからか聞きつけてきて、急遽行くことになったのだ。ほんとうのところエミとしては、ヒカルと出会った頃のように一緒に映画を観にいきたいようで、それも「あの頃みたいに小さな名画座で」とエミはいうのだが、なんというか、それはやはり女の勘なのかもしれず、別れが迫っていることをなにかがエミに告げているのかもしれないのだが、よりによってそんないじらしいことをエミが言い出すとはヒカルは想いもしなかった。出会った頃みたいになんて……。
いつもならば、たまには美味しいもの食べさせてよね、全然いい思いしてないんだからとか、流石にこの結婚は失敗だったとまでは言わないが、もう少しあなたは出世すると思ったのに、などと言外に後悔していることを仄めかすのだったが、まあ、それもわからないではないというか、むしろ当然のことでヒカルがずっとミュージシャンになると言いつづけて来たのも、何者にもなれないことを受け入れることから、ただ逃げつづけるための口実に過ぎなかっただけなのかもしれない、と思っていた。
ふたりは車から降りると、順路と書かれた看板の矢印に従って歩きはじめ、長い階段をそろりそろりと降りてゆく。本来ダム湖だけを見るのならば、わざわざ階段を下りて水底の長い通路を進むのが順路であるわけもなく、好きに見ればいい話なのであり、わざわざ一旦地下に潜って長い通路を渡り、端までいって再び階段を上って地上にへと出てから、ダム湖を眺めるという、遠回りのコースを順路とするからには、なにか無論理由があるはずだとヒカルは思ったが、たしかに単に上からダムを眺めることだけでは、ダムを知ることにはならないと思うわけで、つまりそれは、地下に潜って通路の隔壁が、膨大な量の水の水圧やら重量によって、実際には聞こえないにしても、それこそぎしぎしと鳴るような気配を身近に感じながら、その圧倒的な重量感、圧迫感を知った上で湖を眺める、それこそがダムを知ることなのだと思い至った。
自然にできた湖は、重量やら重圧といった怖さを感じさせないのだが、人工物であるダム湖は、ヒカルにとって恐怖する対象だったので、ヒカルは、この場に恐怖と対面しにきているわけなのであって、そんなこととは知らないエミは、ヒカルにともかくついていくほかはないというわけで、やっと階段が終わり平らな通路にふたりは降り立つと、よほど階段よりは閉塞感を覚えなかったが、なにからなにまでアイボリーに塗られてある壁面は、生きて収縮を繰り返すなにやら洗浄されたばかりの内臓のようにも見えるとともに、その青白い光に満たされた地下通路がまっすぐ果てしなく伸びているように見えたのだが、それは、アーチが巨大であるがためRを感じさせないゆえだろうとヒカルは思った。
ヒカルが、その印象を口にしてもエミは、そんなことには頓着なく、むしろエミは気づかないだろうとヒカルが考えていた、膨大な水量とその水圧やらを、ひしひしと感ずるといい、長い通路を歩いていかなければならないことを危惧するのだったが、このエミの反応は、ヒカルにとって実に意外であり、水圧で今しも押し潰されそうな通路の天井が水ふうせんのように膨らんで、撓って見えると、エミは言うのだった。
ヒカルも、もちろん大地が引き裂かれるような、その眩暈するほどの重圧を感じ取っていたが、それこそがヒカルが欲していたもので、いつ天井やら壁面を突き破り、怒涛の如く水流が押し寄せてくるかわからない、その強迫観念が、ヒカルにはたまらなかった。
通路の真ん中あたりまでいくと、右側の壁面に額縁に入った絵画のようなものが見えてきた。いや、それはたしかにかなりな大きさの絵だったのだが、ヒカルがじっと目を凝らして見ている内に、描かれていた女は小刻みに震えだしたのだ。
それは、絵などではなかった。たしかにそれは、血が通っている人間であり、それも美しいうら若き女性なのであって、長い髪の頭の上には、いまではほとんどみることがなくなってしまった大きな金盥が乗っかっており、それを両手で彼女は支えているのだが、金盥は、直径五十センチはありそうで、まあ、なにも入っていなければ大した重さもないのだろうが、どうやら彼女の頭の上にある金盥には、なみなみと水がはってあるようであり、重さに耐え切れずに腕の筋肉がぶるぶると震えつづけているのであるが、どうかすると金盥から水が零れ落ちてくるのだった。
しかし、どう考えてもか弱き女性がなぜまた震えながらも金盥を頭の上に載せ続けていなければならないのか、何かの罰ゲームでもあるのか、そんなことを考えてしまうほどの理不尽さではあるのだが、しかし、よくよく見たならば、理不尽でもなんでもないことがわかるのだった。
彼女がもし力尽きて盥を下に落としようものならば、盥に幾本も張りめぐらされているピアノ線が引っ張られることにより発条が解き放たれると同時に刃が飛び出して、ボーリングの玉ほどもある鉄球を吊っている縄が断ち切られるという仕掛けになっており、その鉄球のまっすぐ落ちてゆく軌跡を目で追ったならば、そこにはバスケットのなかで淡いピンクの産衣にくるまれて安らかに眠っている赤ん坊がいることが誰の目にも明らかだった。
そうなのである。だから、彼女は歯を食いしばり、冷や汗を流しながら、必死の形相をしてぶるぶると震え金盥を支え続けていかなければならないのだ。
金盥の女。
しかし、エミには、まったく何も見えていないらしい。
「ね、なにやってるのよ、早くいこうよ」
そう言って、先をゆくエミは、ヒカルを促すのだった。
ふたりは、やがてセメントを申し訳程度に軽く吹き付けたような雑な作りの竪坑にたどりつき、ケージ剥き出しの昇降機に乗って地上にあがると、蛇腹の扉を再びガシャガシャいわせて外に出た。ダムは、重力式のアーチダムだったが、その眺めるアングルによって、だいぶ印象が変わるようで、いちばん山際のダムの端から見るそのアーチの曲線の優美さは、なんともいえず美しい女性を想わせた。
ヒカルが、金色に染まるダム湖の湖水を眺めながら実は話があるんだと切り出すと、エミの表情がさっと曇った。
「あのね、実は、去年のさ、夏前だったか、派遣されてきた女性に恋してしまったんだよ。ま、いつもみたいにさ、小説の中での空想の恋だからと想像を逞しくして愉しんでいたんだけど、どうやらほんとうに好きになってしまったようなんだ。浮気じゃなくて、本気で好きなんだ」
長い沈黙があった。
「で?」エミは、哀しげな笑みを浮かべる。「私にどうしろというわけ?」
「いや。ほんとうにエミには申し訳ないと思ってる。けど、やっぱりこのままの宙ぶらりんな状況は、まずいよね? それに今度こそは、ほとほと愛想が尽きたでしょ?」
しかし。エミは意外なことを言い出すのだった。
「なるほどね。ヒカルくんらしいよ。いままでは、つまみ食い程度だったけど、今回は、本気で好きになっちゃったか……。それで、私に別れてほしいんでしょ。お話の主旨は、わかりすぎるほどよくわかりました。でね、私の答えは、NOよ。申し訳ないけれども、私、あなたと絶対に離縁しません。死ぬまで地の果てまで、あなたと一緒にいますから」
「そう」とヒカルはいった。「でもね、いいの? むろん、エミのことが嫌いになったわけじゃないけど……。とっても生臭いことをいうかもしれないけど、泊まってくるとかで、帰らない日も多くなると思うんだ。そんなんでもいいの?」
「どうぞどうぞ、ご随意に。私は私で自分だけの時間を愉しむわ。だって、子どもが生まれたら自由に学んだり、遊んだりまったくできなくなっちゃうから」
ヒカルは、唖然とした。
「え! 子どもって?」
「そう。まだ言ってなかったわね、ごめんなさい。出来たのよ。三カ月だって。私は、この子のためにもヒカルくんとは別れられないの。わかるでしょ? 片親がいない子どもにはしたくないの、絶対に」
「どう? 私が憎いでしょ? この世から消えてほしいでしょ? ねえ、ヒカルくん、今がチャンスだよ。こんな人里離れた山中なんだし、幸い私たちのほかに誰もいないんだし、この背中を押しさえすればいいんだよ」
ヒカルに殺意がよぎったことは確かだったが、それは、夫婦喧嘩の際にはいつものことであって、何回かヒカルは、エミの首を絞めたことがあり、その時エミは、ほんとうに殺されると思ったと言った。
エミは、ヒカルに背中を向けたまま、言葉を継ぐ。
「さ、なにぐずぐずしてるわけ? 早くやっちゃいなさいよ。それで楽になるって。お腹にあなたの子どもまでいるのよ。私が離縁しないんだから、生まれてきたら邪魔になるだけなんだから」
そういうエミの背中は、わなわなと小刻みに震えている。
「これから、親子三人で楽しくやっていこうと思ったのに。笑っちゃうわよね。ほんとバカみたい」
ヒカルは、もうどうしたらいいのかわからず途方に暮れるほかなかった。
と、ダム湖の中でなにかが光った気がした。いや、まちがいなくキラリと輝いたはずだった。すると、不意に嵐の前触れみたいに太陽が雲に隠れ、あたり一面が暗くなるのを待っていたかのように、湖水の深いところで何かが輝きはじめ、回転するミラーボールみたいにキラキラと煌めきながら、浮きあがってくる。
煌めきは、それがなんなのかわからないほどの強力なもので眩しくて見れないほどだったが、ざばざばと水音を立てて湖面から宙に浮き、さらに上昇してくるその畏怖すべき存在感に圧倒されて、ヒカルは尻もちをつきながら、まるで空全体を覆うかのように見える光源の塊を仰ぎ見るばかりだった。
ヒカルはそうやって、空ばかりをながめていたが気づけばダム湖は、金色に染まる大海原になっていて、小舟のシルエットが波間に浮ぶ絵葉書のようなその美しさに思わず息をとめ、このまま死んでもいいとさえ思うほどの絶景に見惚れていたが、さっきまであった手すりもエミも消えて、ヒカルは今、絶壁にひとり取り残されているのだった。
むろん、冷静に考えたならばこれもさっきの金盥の女も、ヒカル自身のオブセッションの賜物にはちがいないのだろうが、ヒカルには圧倒的な存在感をもって現実よりもリアルに迫ってくるのだ。
そして、ヒカルは思い出した。あの繊細な指をした男には、どんな未来が待っていたんだろう。そう。あの男は、自分にちがいないと、いまさらながらに思うのだ。ヒカルの頭のなかで映写機がまた壊れたようにカタカタとまわりはじめる。
薔薇の香りがするシャルムーズのシャツを着た男は、ドアを開け、首をめぐらし、右手に見える丘とは反対側を眺めやると、そこは墨絵の世界のようで、幾重にも重なる稜線の、たおやかなカーブを描きながら奥へ奥へと陰影のトーンが淡くなっていくその様は、なんともいえない美しさで、気持ちが昂揚するのでもなく、沈静するでもなく、どこまでもこころが澄み渡っていくのだった。
その女性は、気がつくと傍らの杉の切り株のひとつに座っていた。はじめて見た顔であるにもかかわらず、どこか懐かしいような雰囲気を纏っているのは、気のせいだろうか。
「こんにちは。きょうはとっても天気がよくって気持ちいいですよね」
「ああ。そうですね。ところで、きみは、ここでなにしてるの? それに、さっきまでそこにはいなかったよね?」
「てへ。ばれちゃいましたか。実は私、生まれてはこなかったあなたの娘なんです。なんていっても、信じるわけないですよね?」
「はい? ぼくには、確かに隠し子がいるけれども、生まれてこなかったってことは、つまり」
「そう」
「身に覚えがあるでしょ?」
彼女は、そういって少し前かがみになって、笑った。もうほとんど赤といってもいいくらいなホットピンクのごく薄いカーデと、その下には白のカットソーを着ていたが、笑った拍子に、胸の谷間がちらりと見えたのには心底どきりとした。
その見せ方が、わざとらしくなく、ごく自然に思われたので、なおさらだったのだが、今回は、「生まれてはこなかった娘」という、泣けるシチュエーションのようで、そのバイアスの掛け方は、間違ってはいないのだろうかと疑問に思うのだが、むろん、あちらの目論見は丸見えであり、全裸に剥いて胸をもみしだきながら雌しべを舐めまわし、花園をめちゃくちゃに蹂躙させようというわけだ。
そんな人の道に悖る行為を涼しい顔でやってしまえる人間さまは、やはり素晴らしい生き物なのだろうが、その人間さまを人間さませしめている最も崇高なこころがけは「差別」であり、これにより、人は人を人と思わず踏みつけにして人の上に立てるのであるから、人は常に差別することを忘れてはならないらしい。
彼女は、幾層にも重なるミルフィーユみたいなシフォンのレイヤースカートを一気に捲り上げ、見事にすらりと伸びた輝く美しい脚を見せ、その脚の作るトライアングルから覗いて見える家家のスレート葺きやら瓦屋根のむこうの、妊婦の膨らんだお腹みたいな青い海原が、のたりのたりとソラリスみたいに蠢いているかに見えるのだが、しかし、それは、たぶん気のせいなのだ。
やがて、彼女はふっと消えてしまい、トライアングルのフレームも掻き消えると、先カンブリア紀みたいな古い地層が剥き出しになっている崖の石に浮き出しているリザードめいた染みが気になって仕方ないのだった。リザードに見えてしまうこと自体、もうかなりヤバイのかもしれない。あのロールシャッハテストはあてになるのだろうか。
そこで、ヒカルは覚醒した。意識を飛ばしてしまったら、問題は時間が解決してくれる。わけもなかった。
眼前には、もとの美しいアーチに縁取られたダム湖が悠然と横たわってはいるものの、エミはやはりいない。
ヒカルは咄嗟に手すりに飛び付いて真下を覗き込み、取水口の網になにか引っかかってはいないだろうかと、取水口まで取って返して捜してみても、それらしきものは見当たらず、ほんとうにおれはこの手で、エミを突き落としたのだろうか、それとも言い争っている内に誤ってエミは落ちてしまったのだろうか、あるいはやはり、お腹にいる赤ちゃんもろとも、エミを殺してまんまとおれは自由を手に入れたのか、とヒカルは手すりにもたれかかって力なくうなだれ、気が触れそうなほどの静寂に震えながら止まってしまった時間のひしゃげた空間にぺたりと張り付いていた。
気づけば、日の沈んだ直後の泣きそうな夕空を背景にして、ぽかりと巨大な血走った一つ目が中空に浮かんでいて、異様な力を漲らせていくようにさらに目が充血していくのだった。たとえていうならば、風船にはち切れるほど毒ガスを詰め込んでゆくような、はじけたら、一瞬で酸鼻なジェノサイド、阿鼻叫喚の地獄絵と化すようなそんな怒りを感じた。
すると、ダム湖の景色は土砂崩れのようにズリ落ちていく感覚で上書きされ、眼前には川べりに建つサナトリウムのような白亜の建物があるロケーションが広がりはじめた。
どうやら薄暗い小部屋の窓から日がな一日飽かずに川面を眺めているというシチュエーションらしい。
運河の上に何層にも重なり合い、たなびいていた気怠げな朝靄がゆるやかに切れてくると、対岸に咲く見事なしだれ桜の大樹のもとに、いつの間にか七八人の男女が寄り添うようにして佇んでいるのが見えた。
運河を隔てたビルの三階からヒカルはそれを眺め、とうとうと流れゆく大河の如き運河に身を任せたり、うたたねをしたり、あるいは空想に耽ったりしている。
窓によって矩形に切り取られた青空を背景にして、ぽかりと中空に浮かぶ巨大な顔が、軋むように嗤っている。といっても歯を見せて笑っているのではなく目だけが笑っているのだ。なぜかどこかで見たような気がしないでもない。顔だけというのも不気味だが、その圧倒的な存在感は投影とかホログラムなどとは思えないほどのリアルな迫力があった。どこでこの顔は生まれ育ったのだろう。あるいは、この顔の親もまた巨大な顔なのだろうか。
すると、その顔を見ながら、ずっと以前に吉祥寺で観た寺山修司のある作品の中にインサートされていた、ワンシーンを想い出した。それは、力士の格好をした……つまり、大銀杏のヅラをかぶり、まわしだけをした……マッパの女性が、大きなおっぱいを丸出しにしながら、日本間の奥から右、左と突きを繰り出しつつ、すり足で出てくる、といったカットであり、その前後の映像とまったく関連性のない、その脈絡のなさが笑いを誘うインパクトある映像だった。
もうとうの昔にそのお相撲さんの格好をした女の、おっぱいの形状やら質感らしきものなど記憶の井戸の底をいくらさらっても、欠片すら見あたらないのにもかかわらず、彼女は笑っていた、いぎたなく笑っていた、それは、はっきりと憶えているのだった。
中空に浮ぶその巨大な顔が、あの女力士の顔に似ていたかというと、さにあらず、笑い方が似ていたとかでもなく、なんというか、怖い笑い、笑いの奥に不気味さが潜んでいるのがいっしょだったのかもしれない。
さて。桜の樹の下ではいくら待っても酒盛りがはじまるわけでもないようだし、なにか陰気この上ないアルペジオの旋律が聴こえてくるような、敢えていうならば集団自殺でもするかのように思われもし、そうであるならばたぶん、彼らはこれから穴を掘るのだろうという気がし、それもひとりひとりに寸法を合わせた棺としての穴を掘るのであって、土の棺は、ひんやりと冷たくさぞや深い眠りへと旅人を誘うことだろうが、ただしかし、春の地中は啓蟄の虫やらなにやらお祭り騒ぎにはちがいないのだが。
七八人だとばかり思っていた一団は、七八人どころではなかった。
それは、七八百、いや、七八千でもなければ七八万でもなく、何億もの人々が、各々自分の墓穴を掘り、ひとりまたひとりと糾える縄の如く自死を繰り返してゆき、最後の男がピストルで頭をぶち抜き血飛沫をあげながら穴のなかへと転げ落ちる、その一部始終を私ヒカルは春のおぼろで眠たげな運河越しに涙をぼろぼろと零しながら眺めるのだ。
そしてまた、別のグループだろうか、いつの間にか数名の男女が寄り添うようにして対岸の桜の樹の下に佇んでいるのが見えた。
一団はぐるりと桜の樹を囲んで輪になったかと思うと、一斉に服を脱ぎはじめ、一糸纏わぬ全裸となって、手を繋ぎ、ぐるぐるぐるぐる太陽をめぐる惑星の公転のように廻りはじめたが、不思議なことに、眼の水晶体がいかれてしまったのか、遠近感というか屈折率がやたらでたらめで、男の股間からぶらさがるものが大写しになったり、屈んだ拍子に女の乳首がくっきりと見えたりもした。もしかしたたなら、これがゲシュタルト崩壊というやつなのかもしれないなどと思った。
やがて私ヒカルは、病室のようなところで目覚めた。微睡みながら夢を見ていたようで、壁もカーテンも全体が白っぽく、天井もアイボリーだったが、気分はだいぶよくなっていた。そういう設定らしい。ベッドから抜け出して、窓際に歩みよる。
レースのカーテンを少しだけ引っ張って外を覗くと、ピンクの雲が、空いっぱいに広がっていて、下を見ると何十人もの人たちが、わらわらと隣りの建物からでてくるや同じ方向に駆けてゆくのだが、その顔には一様に恐怖が貼りついていて恐ろしかった。隣りの老健施設でなにかあったのだろうか。すると、再び声が聞こえはじめ、見なくてもそれがなんなのかわかっていた。
巨きな顔は、意外にも優しく繊細な声で、なにか朗読しはじめ、聞くともなしに聞いていると、それはなんと川端康成の「千羽鶴」であり、菊治がなんたらとか言っていて、つまり巨きな顔は、カワバタがお好きらしいのだが、あの人は畢竟、絶望みたいなものしか描かないのだろうか。
その川端は車上荒らしにあって、阿蘇関連のノートが盗まれてしまったため、阿蘇心中が結末であるこの物語の続編にあたる波千鳥は、未完のまま終わってしまったらしく……ちなみに、千羽鶴は五十歳、波千鳥は五十四歳での執筆……ただしかし、面白いことに結婚してしまう稲村ゆき子が、後編では菊治と結婚し、阿蘇での心中相手は、どうやら文子らしい、ということで、つまりは、逆転してしまうわけだ。
この千羽鶴の主人公である菊治は、富裕層に属する人で茶道なども嗜む好事家であるものの、やっていることは、市井の輩となんら変わるところはないどころか、もっと悪辣かもしれず、というのも彼には罪の意識など皆目ないのだ。
菊治は、花園にずかずかと分け入り、好き勝手に蹂躙するのみで、まるで盛りのついた犬並みであり、自殺する者は、自殺を選択する本人が悪いとか言い出すものもあるかもしれないが、ふたりの女の自殺には、菊治がみな関わっているというか、直接の原因はすべて菊治にある。
文子の母親を会ったその日に抱くというのも、あまりにも理不尽で、まあ、それが男と女であるといってしまえばそれまでなのだが、その母親を自殺へと追い込みながら自分は、栗本に口では縁談を断ってくれと再三言うのだが、結局押し切られる形で、ゆき子と結婚するつもりであったのではないかと思うわけで、まるでそれは、お笑い芸人がよく使う、れいのお約束のようだ。
無垢な感じがよくわかり、文子の母親の魅力は、存分に伝わってくるのだが、お母さんには感謝している、であるとか、文子を我がものにした後、彼女の純潔が自分を救ってくれた、などと平気で宣う菊治は、自分がなにを言っているのかわかっているのだろうか、まったくもって女性を玩弄物視しているわけであって、女はいともたやすく蹂躙され踏み台にされるのみである。
構図的には、文子の母親は、菊治に菊治の父をダブらせていたのであり、また、菊治は文子に文子の母をダブらせていた、というもので、志野の筒茶碗を割ると言いはる文子は、母親を忘れてくれといっているのであり、同時に人にやるのは最高のものをと言い、そして、あなたは志野の茶碗をみながら、もっといい志野があるのだと思うのでしょうと言うのであるが、文子のいう最高のものとは、己の純潔ということだったのかもしれず、母親が湯飲みとして使っていた志野の筒茶碗を菊治に与えてからそれを割ったように、自分の純潔を菊治に与え、そして、それも割ったのだ。
というわけで、菊治はやりたい放題なわけで、彼には、最後まで手を出さなかった、おとこおんなのような栗本ちか子こそお似合いなのではないのかと思うのだが、波千鳥で、ちか子は、急死してしまうらしい。
読んだことのない小説の話ほどわけのわからないものもないのが、トンネルを抜けると、そこは酒池肉林だった。川端康成は実は凄まじくエロいので興味のある方はぜひご一読を。
やがて、巨きな顔の朗読が終わり、次にホーミーをやりだしたのには驚いたが、その途端、左の小指の先、第一関節のところが、ずきりと痛んで、その息を呑むほどの差し込むような痛み、目には見えない宿命みたいなその疼きを、モルヒネのパッチは、ものの見事に相殺してくれているようだった。
ときどき、見舞いに来てくれるきれいな女性が、誰なの皆目わからないのだが、看護士さんによると、週に一度月曜日に来てくれるようで、しかし、いったいあの人は誰なんだろう。モルヒネのパッチは、亡くなった母がやっていたので、よく知っているが、デュトロのパッチを母さんは、つけてもらっていて、そのパッチの説明で、この病院で一番の薬だときかされたらしいが、それを声が小さくなってしまって、加えて呂律が回らない感じの母から、やっと聞きだしたわたしは、たしかに、一番かもしれないと思ったが、むろん麻薬はなんといってもサイコーにちがいないのだ。
母のそのパッチは、副作用があまりないし経口ではないからいいなと思ったら、パッチだけでなく、ロキソニンを服用してたらしく、そのための胃薬も飲んでいたようだったが、何度も下血し、脈がとれないほど血圧が下がってしまうという状態を繰り返していて、やがて再び点滴もとれ、流動食みたいなものを、一口、二口食べることができるようにはならないまま、あまりにも呆気なく逝ってしまった。
パッチを貼る箇所を、しきりに気にしていた母は、たぶん昔からある膏薬、たとえばトクホンとかサロンパスとかと同じ感覚であったようで、それで痛む部分ではないところに貼りつけてあるから、効果がないのではと心配していたらしい。
母は、末期癌だった。老いた母親の僅かばかりの年金をあてにしているような、うだつの上がらない不肖の息子のために気力だけで奇跡的に一日また一日と命の火を灯すように繋いでいてくれていたが、あっというまに他界してしまった。
やがて運河がトワイライトに滲む頃、数名の男女は、雅なしだれ桜の樹の太い幹の根元で火を起し、薪として本を燃やしはじめるや、焚書の焔は樹齢百年にも垂んとするだろう桜の樹に燃え移り、山火事となって、夜空の天蓋をも焦がしはじめると、運河はどこまでもどこまでも赤く赤く燃え上がり、その美しさ、その気高さに一気にわたしはやられてしまい、すると、途端に絶叫が聞こえ、いつものあの映像が、脳裏にフラッシュバックする。
「助けてー、ヒカルくん、助けてー」
手すりから宙ずりになっているエミの全体重が、肉食獣の強靭な顎の力による牙となって、ヒカルの愛を確かめるかのように、肩から手にかけて獰猛に食らいつき、ヒカルが手を放したら最後、エミは、まっすぐにダム湖のなかに落ちてゆくことがわかりすぎるほどわかっていようとも、もうカウントダウンは始まっていて、すでに感覚のないエミの手を握るヒカルの手の握力が尽きるのを待つばかりだった。
ヒカルには、それがせいぜいであり、情けないかなエミを独力で引き上げるほどの腕力は、すでになかった。
そして。汗にまみれたヒカルの手から、エミの手がぬるりと離れてゆくその瞬間が、とうとうやってくる。それは、駒落ちしたスローモーションの映像のように断続的にヒカルの目に映ずるのだ。
落ちてゆくエミの顔
落ちてゆくエミの顔
落ちてゆくエミの顔
フラッシュバックは、そこで終わる。
そんな風に、ふとしたきっかけでヒカルに正気が戻るときがある。
テッセンの鮮やかな紫がすうっと吸い込まれるように水晶体にはいって網膜に像を結んだとき、朝靄が運河からゆなゆなと立ち昇り、やがて大気へと還ってゆくとき、あるいは、誰もが寝静まった真っ暗な病室で、ひとり目覚め自分が生きているのか、すでに死んでいるのか、わからなくなってしまったとき……ヒカルは、不意にはっきりとほんとうのことを思い出すのだ。
そして、ヒカルはいつもこう思うことにしている。心などいらない。綺麗なだけの木偶人形がほしい。愛なんていらない。喜びも哀しみもない、ひっそりとして仄暗い水底のような木偶人形がほしい。
そして、その自己欺瞞に耐え切れなくなったとき、ヒカルは、飛んだ。そうやって、ヒカルは、エミを心の中から抹殺してしまったのだ。リアルにやったならば、殺人犯だが、それも五十歩百歩で、実際に想像したのだから、似たようなものだった。
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