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ローラ編
ローラ
しおりを挟む「ていうかさ、ユタカなんか看板見えるんだけど?
ケンジが指差す方向に確かに潮にやられてペンキが剥げ落ち、ぼろぼろに朽ち果てた看板らしきものが、かろうじて立っていた。
その看板に引き寄せられるようにして、一行はそばまで近づいていった。案の定、何か文字らしきものが書かれてあったような気もしたが、まったくわからない。
するとまた、ケンジが目ざとく何かを見つけた。
それは見たこともないほど美しい等身大の人形だった。ケンジはハンス・ベルメールの球体関節人形を写真で見て知っていた。その人形といっしょだった。
駆け寄ってきたユタカは、一目みただけで、その美しさにやられてしまった。だから、この人形は、おれのものだと勝手に決め込んで、人形の両脇に手を差し込んで、ずるずると渚を引き摺っていった。人形の躯から伸びた凧の足のような昆布やら海藻といっしょに。
しかし、見れば見るほど惚れ惚れするほど美しかった。砂浜が終わって、原っぱに出ると今度は、人形を背中にかついで歩いていった。
ユタカは無類の人形好きでも球体間接人形が特別好きなわけでもなかった。ただユタカは、人間の女性を愛することができなかった。
なんだろう、この胸のざわめきは。自分でもわけがわからないとユタカは思う。ただ、この人形を見たとき、言い知れぬ哀しみに囚われたのだ。
それは、何度も生まれ変わっているユタカの遠い過去にまつわる哀しい想い出、ユタカ自身でさえももう忘れている過去の事象やら想い出にダイレクトに触れてくるのかもしれない。
ユタカにおんぶされながらその人形は、ドイツはラインのほとりで、入水自殺したのだとユタカの背中で呟いた。
ただの人形がそんなことができるはずもないのだが、ユタカは、ここからここまではリアルといった線引きをしない。つまり、想像力にキャップを被せることはしないのだった。だから今回もあり得ないということは、ひとつも有りえないわけであり、ありえないことをハナから除外していたら、突然人形の声が聞こえてきたのだった。ラジオのダイヤルを回してチューニングしたように。
実質的には人形が声を発しているわけではない。いわゆる念話というやつだ。
ユタカは、思った。ライン? ライン川のことか。となると…ユタカは、あのローレライをまず思い浮かべた。
「名前は?」
「名前? そんなものないわ」
そこでユタカは、彼女にローレライという名前をつけようかな、なんて思ったが、どうも言いにくいのでローラにしてみた。
「ローラでいいかな? やっぱり名前はないとね、いくらなんでも」
「ローラ。ありがとう。素敵な名前」
そしてローラは、またそっと呟く。
——世界の奏でる音楽が聴きたいの。
ふーん。とユタカは思う。誰かの本の帯にも確かそんなことが書いてあった。
——世界の奏でる音楽か。でも、なんでまた自殺なんてしようとしたのさ? てか、しようとしたじゃなく、したんだね、実際に。
——夜が、巨きなきのこ雲みたいに見えたの。すぐそこにまでキノコのようなその暈を垂れさせていたのよ。フェルトでできたみたいなその端っこからは、夜が、少しだけこぼれだしていたわ。
——ああ、なるほどね。って、全然理由になってないじゃん。でもさ、ふつう、人形は自殺なんてしないよね? もしかして、自殺する前は、お人形さんじゃなかったとか?
それは、ヒ・ミ・ツとローラの声が脳内で囁く。
うーん。とユタカは、なんか感慨深げに頷く。
——そうか、いろいろあったんだね。お腹も大きいしさ。たとえばさ、哀しい出来事とかあったとき、人ってどこかへ消えちゃいたいとか、思うじゃない?
——たとえば……の話ね。そう。たとえば、ハリーポッターみたいな魔法を普通に使える人たちも次元が異なるどこかには存在していて、それがなんらかのきっかけで、こちらの世界に浸潤してくるってこともありえるわけじゃん。浸潤ていうか、入り口が開くみたいな感じで。そんなんで、そっちの世界に迷い込んじゃうってこともなきにしもあらずでしょ? それで、わけもわからぬまま、魔法にかけられちゃうとか。もしかしたら、そんな感じ?
——そうね。そんな感じかもしれない。私自身もよくわからないの。
と、そこでユタカは、気がついた。たぶん、彼女は、はじめからしゃべれたわけではないのではないか。なんというか、うまくはいえないが、自分とコミュニケートしたから、しゃべれるようになったのではないか。ちょうどそれは、春になって雪溶けした小川のせせらぎのように。そんな風にユタカは、思った。ということは、これからもっとコミュニケートしていけば、もっともっと人間らしさを取り戻していくのかもしれない。人間嫌いなユタカにとっては、ちょっとそれは微妙だったが。
実のところ、魔法使いのお婆さんとかに、彼女が人形になる魔法をかけられたとは考えがたかった。思考の遊戯としては面白いけれど。実際には、彼女自身が人形になることを強く、すこぶる強く望んだのではないのだろうか。人間の意思の力とは、ほんとうに強いものだから、ある日、突然わけのわからない甲虫のようなものにメタモルフォーゼしたとしても、別段驚くに値しない、そんな非日常があたりまえのように起こる今日このごろなのだから。
しかし、まあ、それもまた思考遊戯にすぎず、ほんとうのところは、わからない。誰にも。もしかしたなら、彼女自身でさえもわからないのではないか。
ユタカは、ヒトであった時に読んだのであろう『変身』を唐突に思い出した。あの、ザムザだってそうだ。なぜ、こうなってしまったかを、彼は考えただろうか。
ただ、考えてみると、彼は、見てくれは甲虫のそれみたいなようだけれど、脳の中身は以前と変わらないようで、家族をしっかり家族であると認識しているばかりか、それが徐々に薄れていくこともない。
これには、いままで気づかなかったが、以前の自分の記憶があるからこその悲劇なのだということがわかった。脳ミソまで甲虫になってしまったなら、グレゴール側の悲劇はなくなるのであり、となると、そもそもお話が成り立たなくなってしまう。しかし、なぜまたグレゴールは、変身してしまった理由はなんなのかを考えないのだろうか。
現実的な問題として、なんらかの障害が生じた際には、同じような支障やら障害をきたさないように、あるいは、障害をとりのぞき、以前の状態に復旧させるために、原因を特定するのが当然のことだが、グレゴールには、なぜ自分はこうなってしまったのか、というこの「なぜ」が、決定的に欠けている。
しかし、因果律が解ってしまえば不条理でもなんでもなくなってしまうわけなのだが、なぜと一切疑問に思わないところが、すごい。それは、まるで夢を見ているときのような、いうなれば他人事のような無関心さなのだ。
つまりは、その現象を疑わないということであるのだから、必然と捉えているとしか思われない。肯定もしてはいないが、否定もしていない。つまり、現象をすんなりと受け入れているようにも見えるが、それは諦念からのことのように思われる。それらより、このグレゴールの身の上に起こった変化は、絶対的で不可避なものであったことが窺える。甲虫のそれでなく人であったときと変わらない脳を有し、変わらない感情を持つグレゴールは、つまり、外形だけが変わったわけかというと、そうではなく、やはり、嗜好が変わったり、行動パターンの変化などが見受けられるが、それらはすべてフィジカルな変化から生じたことであり、メンタルな部分は一切変わりない。
それらを考え併せたとき、なにが思い浮かぶかというと、あまりにもベタだが、なだらかなエイジングも含まれるかもしれないが、フィジカルな部分の劇的な変化、つまり、足腰が立たなくなり、家族の重荷になるといった状況だ。姥捨山などという恐ろしい概念も昔からあるのだ。そして、それらをもっと大きく捉えるならば、病魔といってもさしつかえないと思うけれども、カフカは、そんな意味での比喩として、あの『変身』を書いたのではないだろう。
さて、ここらでお人形さんになってしまった経緯を話してもらいたいのは山々だが、そんなものはどうでもいいのかもしれない。あの『変身』にも因果律めいたことは一切書かれてないのだから。まあ、書いてないからこその不条理なのだが。これまでのことはこれまで、過去のことは措いといて問題は、これからだ、というわけなのだが、さて、どうしたものだろうか?
「おいおい、ユタカ。らしくないなー。おまえさっきからなんも話さないじゃん?」
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